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福島県南相馬市 小高(おだか)神社・小高城跡 中世相馬氏の本城

2024年06月15日 13時20分43秒 | 福島県

小高(おだか)神社・小高城跡。階段下から。福島県南相馬市小高区小高城下。

2024年5月25日(土)。

本日は、相馬野馬追の1日目で、小高神社では早朝に出陣行事も行われており、小高神社・小高城跡周辺は道路規制が残っていた。12時過ぎに神社前駐車場に着いたころには、メイン会場である原町区の雲雀原祭場地に行列が着いていたようで、小高神社一体はすっかり静まりかえっていた。

小高城跡。階段上から。小高川が濠の代わりになっていたことが分かる。

当時も三方を川や湿地で囲まれていたことから紅梅山浮船城とも呼ばれていた。

階段を上った境内地には竹矢来が組まれ、10人ほどの白い装束を付けた男たちがおり、10数人の団体客が社務所に入っていくところだった。

小高城は、相馬中村藩主相馬家の中世時代の城で、福島県指定史跡である。

桓武平氏千葉常胤の子師常が、平将門の子孫・相馬小次郎師国の養子となって相馬氏の祖になったとされる。鎌倉時代初め、行方郡の地は源頼朝の奥州合戦の際に頼朝に従った相馬師常に恩賞として与えられた。奥州相馬氏の祖となった師胤の父胤村が所領を譲る際、嫡子胤氏に下総国相馬郡を、師胤に陸奥国行方郡を分け与えた。その後、元亨3年(1321)頃、師胤の子重胤が行方郡に移住し、在地支配が行われるようになった。胤氏の系統が下総に住して相馬氏の宗家(下総相馬氏)となり、一方師胤の系統が奥州相馬氏として発展して奥州における惣領家となった。

南北朝期に北朝方についた相馬氏は、南朝方の北畠顕家の軍勢に対応するために重胤の次男光胤が建武3年(1336)に小高城を築いたといわれる。同年に南朝方に攻められ落城したが、翌年に奪還した。戦国時代には、伊達氏の内紛である天文(てんぶん)の乱(1542~48年)以来、相馬氏の居城として伊達氏と激しい戦いを繰り広げた。

相馬氏が小高を本拠地にした要因は、南隣の岩城氏(本拠地:四倉、飯野平)を牽制する目的であった。ところが、北隣の伊達氏(本拠地:米沢、岩出山)との抗争が激化すると、相馬氏は中村に城代を置いて伊達氏と睨み合った。

16代当主の相馬義胤は、伊達政宗との抗争が激化する中、1597年(慶長2)に牛越城(同市原町区牛越)に居城を移す。小高城は、小高川や現在は水田となっている湿地に囲まれた城だが、大勢力となった相馬氏の拠点としては規模が小さく、また、伊達氏への備えとしては郭などの縄張りが未発達で、防衛に適していなかったことが居城を移した理由と考えられている。

1600年の関ヶ原の戦いでは、相馬氏は佐竹氏(本拠地:常陸太田、水戸)に与した為に、関ヶ原の結果として近隣の蘆名氏や岩城氏と同様に領地を没収された。しかし、伊達政宗が相馬義胤を擁護して徳川幕府を説得した為に、1602年(慶長7)相馬義胤は旧領である浜通り夜ノ森以北への復帰を果たし、相馬藩が成立した。その際、初代藩主の相馬利胤(義胤の子)は再び小高城を居城とした。しかし、利胤は1611年(慶長16)、中村城(相馬中村城、同県相馬市)を修築して居城を移したため、小高城は廃城となった。

幕藩体制の下、相馬氏は中村藩主として現在の相馬市から双葉郡北部までを治め、一度も国替えすることなく明治維新を迎えた。

城跡の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。

城の北東から伸びる比高10メートルほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。このように三面を水域と湿地で囲まれていたため、浮船城と呼ばれていたという。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。

大手は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。

城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言い難い。防御力の低さを補う為に、付近の丘陵に複数の出城があったといわれており、この城地の狭さゆえであると思われる。

小高神社拝殿。

現在、城跡本丸跡の平場は相馬野馬追祭りの野馬懸で知られる小高神社の境内になっている。相馬氏の守護神である天之御中主神を祀るが、本来は妙見信仰である。

相馬氏は、桓武平氏千葉氏の一族で、千葉氏の家紋は妙見信仰から生まれた月星紋である。伝承によればむかし平将門とともに兵を挙げた先祖の平良文が窮地に陥ったとき、空から星が降ってきて、それに力を得た良文は戦に勝利したことにちなむという。千葉氏は星と月を組み合わせた「月星紋」は嫡流が用い、庶流は「八曜」「九曜」「十曜」など「諸星紋」を家紋にしたという。相馬氏も千葉氏の庶流の一つとして、「九曜」を家紋に用いるようになった。千葉氏流相馬氏は、将門流相馬氏のあとを継ぎ、「繋ぎ馬」紋も継承した。

野馬懸。

相馬氏の祭礼であったのが現在も続く相馬野馬追であり、明治時代以降は武家の行事から神社の祭礼へと形を変えながらも、絵馬奉納の起源とされる馬を小高城の跡に建立された小高神社の神前にささげる野馬懸とともに、武家文化を現代に伝える伝統行事として行われている。

相馬氏の守護神である天之御中主神を祀る相馬小高神社が建っており、相馬野馬追祭りの時に、裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸け」の場所として知られている。

相馬野馬追で最も重要な神事「野馬懸」は3日目に行われる。騎馬武者数十騎が裸馬を境内に設けた竹矢来の中に追い込み、白鉢巻に白装束をつけた御小人(おこびと)と呼ばれる者たちが、多くの馬の中からおぼし召しにかなう荒駒を素手で捕らえ神前に奉納するという古式にそった行事で、昔の名残をとどめている唯一の神事といわれ、国の重要無形民俗文化財に指定される重要な要因となった。

月曜日のローカルニュースで放送され、なるほど「野馬追い」だと思った。

 

このあと、「相馬野馬追」のメイン会場である原町区の雲雀原祭場地に向かった。

福島県富岡町 東京電力廃炉資料館 双葉町 東日本大震災・原子力災害伝承館


平取町 萱野茂二風谷アイヌ資料館 旧マンロー邸

2024年06月15日 09時20分34秒 | 北海道

萱野茂二風谷アイヌ資料館。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

「オプシヌプリ」視点場から二風谷コタン方面へ戻り、道路をコタンと反対方向に入ると萱野茂二風谷アイヌ資料館に着いた。駐車場が分からず適当に車を置いた。

萱野茂二風谷アイヌ資料館は、アイヌ民族出身のアイヌ民族研究家で参議院議員だった初代館長である故・萱野茂氏が半世紀にわたって収集・保存してきたアイヌの伝統的生活用具を収蔵・公開している。

また、世界各地の先住・少数民族の生活・工芸資料も数多く陳列されている。

萱野茂氏によって収集が始められた1950年代初頭は、日本社会全体の高度経済成長とともにアイヌの生活文化の変容も急速に進む状況にあった。伝統的な生活を深く知る明治生まれの古老たちから直接伝承を受け継ぎながら、アイヌの生活用具を収集し、また製作した。

萱野氏のコレクションには実際に使用できる日常の暮らしの道具がまとまりとして揃っている。当館所蔵の萱野茂氏による収集資料のうち、202点が「北海道二風谷及び周辺地域のアイヌ生活用具コレクション」として2002年に文化庁より重要有形民俗文化財の指定を受けた。

1972年、二風谷アイヌ文化資料館として開館、5年後の1977年に土地・建物・展示資料とも無償で平取町へ移管し、それから15年間は平取町営の資料館として運営されてきた。1991年、にぶたにダム湖のほとりに平取町立二風谷アイヌ文化博物館が仮オープンし、旧資料館の資料はすべて博物館へ移された。

1992年3月、旧資料館の建物を再利用し萱野茂の新たなアイヌ民具コレクションと新たに製作した民具資料によって私立として「萱野茂アイヌ記念館」として再スタートした。その後に萱野茂二風谷アイヌ資料館へと改称した。

クマ皮。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館に比べると、旧式なことは否めない。文化博物館ではなかったような展示を撮影した。15時10分から40分程度館内にいた。

出る前に、10分ほど受付で話をした。現在の二風谷コタンは再現されたもので、本来のものでない。ならば、どこにコタンはあったのか、という質問をした。

大きな集落はなく、点在しており、平取町役場北の沙流川を渡る橋の東岸にあった、山の麓の泉が湧く場所に住んでいたらしい。

「旧マンロー邸」。重要文化的景観。登録有形文化財。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

萱野茂二風谷アイヌ資料館を見学後、幹線道路に出て、南に1分ほどの地点で沙流川方面の小道に入り、重要文化的景観の構成要素に選定されている「旧マンロー邸」を外観のみ見学した。

アイヌ診療と研究で知られる人類学者マンローの旧自邸は、彼自身の設計とされる。マンサード屋根を頂く木造3階建,下見板張の洋館で,正面性を引き立てる大きな屋根窓に加えて,妻面屋根裏部の出窓が,この建物の意匠に彩りを添えている。鉄板葺、建築面積130㎡。昭和8(1933)年4月竣工

「平取町文化的景観解説シート」から。

英国人考古学者・人類学者のニ-ル・ゴードン・マンロー博士は、アイヌの生活風俗研究のためにニ風谷に移住し、研究の傍ら医者としての奉仕活動に生涯を捧げた人です。

昭和17年の永眠後、住宅兼病院であったここは記念館として保存され、現在は北海道大学へ寄贈され、北方文化の研究に活用されています。

マンローとアイヌの古老。20世紀初め頃の撮影(マンロー著 小松訳 2002) (東京シネマ新社)。

日本での暮らしと二風谷への移住

二風谷を流れるオサッ川の河口を望む段丘上に、ヨーロッパの古民家を想わせる邸宅があります。昭和8(1933)年4月に建てられたニール・ゴードン・マンローの住宅兼診療所で、完成以来数十年を経た今日でも、二風谷の近・現代史を伝える貴重な建造物として多くの人に親しまれています。

マンローは1863年6月16日、スコットランドのダンディー市生まれで、明治24(1891)年5月に来日して以来、外科医として活躍した方です。横浜市に32年、軽井沢町に5年、二風谷に11年それぞれ在住し、明治38(1905)年には日本に帰化しています。

その間、人類学研究者としてアイヌ文化を調査・研究し、晩年の二風谷ではアイヌの人々への医療奉仕を行っています。昭和17(1942)年4月に二風谷で亡くなり、軽井沢に墓を建立して分骨しています(遺骨の一部は、二風谷共同墓地に埋葬)。

二風谷への移住にあたっては、昭和4(1929)年秋に米国ロックフェラー財団に人類学研究のための資金助成を申請し、翌年に交付されたことが大きなきっかけとなっています。昭和5(1930)年5月には英国・王立人類学研究所の地方通信員に発令され、道内に在住してアイヌ文化研究を進めることが可能となりました。

 居住にあたっては、アイヌの古老が多く住む静内と二風谷が候補地とされましたが、故郷スコットランドの景観に似ている二風谷を永住の地に決めました。

昭和6(1931)年7月、自宅建築のために二風谷の土地を購入し、同年秋から自宅完成までの間、木村チヨ(1937年結婚・入籍)を同伴して二風谷の仮住まいに居住しました。その後、昭和8(1933)年4月に、コンクリート造の書斎兼診療所を付した自宅が完成しました。自宅周辺には、ヨーロッパトウヒなどの成長の早い樹木を、畑には梨・ブドウ類を植えました。

アイヌ文化研究の成果

 二風谷におけるアイヌ文化研究において特筆すべきは、3本の無声映画を撮影し、地域の文化伝承を動画で後世に伝えていることです。昭和5(1930)年から3年にわたり「イオマンテ(熊送り)」「ウエポタラ(悪魔払い)」「チセノミ(新築祝い)」が相次いで撮影されました。

特に「チセノミ」を撮るにあたっては、マンロー邸の前庭にチセの屋根半分のオープンセットを設置し、しっかりとした臨場感のもとで行われました。また、地元住民の方々をはじめ、道内各地からアイヌの古老達を自宅に招へいし、儀式・宗教関係の伝統習慣等に関する知見を記録に収めました。

旧邸宅の保護と没後の再評価

マンローの没後は、旧邸宅の所有権が幾度も移り変わった末に昭和40(1965)年、英国大使館参事官らによって故国出身の研究者顕彰のために購入されました。

 その後北海道大学に寄贈され、昭和42(1967)年6月に文学部二風谷分室として開所式が行われています。更に昭和50(1975)年には、マンローの顕彰記念碑が建立され、誕生日である6月16日に除幕式が挙行されました。近年においては、平成12(2000)年に「登録有形文化財」、同19(2007)年に「重要文化的景観の形成に重要な建造物」となり、手厚い保護が図られるようにもなりました。更に平成21(2009)年からは、北海道大学の協力による一般公開も行っています。

二風谷から発信される国際交流

平成23(2011)年10月16日(日)に開催された「第10回マンロー先生を偲ぶ会」に、ドイツ在住のアイリーン・マンローさん(マンローのお孫さん)が招かれました。マンローは明治28(1895)年、横浜在住の貿易商を父にもつアデレー嬢(ドイツ国籍)と結婚し、5年後に横浜で次男のイアンをもうけました。その後、ドイツで結婚されたイアンのご令嬢がアイリーンさんになります。

アイリーンさんにとっては祖父と父の人生に深く関わる国に来て二風谷で歓迎を受けたことは、大きな喜びに満ちたものであったと思います。

「偲ぶ会」の活動は、今後もスコットランドやドイツ、そして北海道大学と二風谷を結ぶ懸け橋になっていくことと思います。多くのアイヌ文化研究の成果を発信したマンローの功績は、二風谷の近代史を彩る象徴的な存在であり続けています。

資料 N.G.マンロー年譜

1863 年6月16 日スコットランドのダンディー市に生まれる。

明治24(1891) 年5月来日。以来、医師として活躍する傍ら、人類学研究者として日本文化・アイヌ文化の研究を行う。

明治38(1905) 年2月日本に帰化。

昭和 5(1930) 年5月英国・王立人類学研究所の地方通信員に発令。

昭和 6(1931) 年7月自宅建築のために、二風谷の貝澤シランペノ所有地の一部を購入。木村チヨ( 昭和2(1937)年結婚・入籍)と仮住まいを始める。

昭和 8(1933) 年4月コンクリート造の書斎兼診療所を付した三階様式木造の自宅が完成。

昭和12(1937) 年5月研究助成費の支給期間満了。

昭和17(1942) 年4月二風谷で死去。軽井沢に墓を建立して分骨した。( 遺骨の一部は二風谷共同墓地に埋葬)

昭和40(1965) 年英国文化振興会トムリンと英国大使館参事官フィゲスが故国出身の研究者顕彰のために邸宅を購入。その後、北海道大学に寄贈。

昭和42(1967) 年6月18 日北海道大学文学部二風谷分室開所式挙行。

昭和50(1975) 年6月16 日マンローの顕彰記念碑( 二風谷アイヌ文化保存会建設)の除幕式挙行

ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、イギリスの医師、考古学者、人類学者。

エジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で日本にやってきた。横浜の横浜ゼネラルホスピタルで医師として、その後軽井沢サナトリウムの院長として働く。

考古学にも深い造詣があり、日本の先史時代の研究をつづけ、1905年(明治38年)には横浜市神奈川区沢渡・三ツ沢付近にて、三ツ沢貝塚を発見し、発掘調査をしている。考古学の知識は母国で培われた。旧石器にかなり精通していたであろうことは、彼の遺品のフリント(燧石)製の旧石器(槍先形ハンドアックス)数点、エオリス(曙石器)一点などから推測できる。マンローは、ジャワ原人(現在はホモ・エレトウスに分類)の化石情報に接し、その一派が大陸と陸続きであった日本列島にも到達したのではないかと考えた。1905年(明治38年)の夏、神奈川県酒匂川流域の段丘礫層を掘削し、数点ではあるが石器とみられるものを見つけている。この活動は日本列島にも旧石器時代の人類が生息していたのではないかという自らの仮説を証明しようとしたものであった。

日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。1922年、来日したアルベルト・アインシュタインと面会する。1923年、関東大震災により横浜の自宅が全焼、毎年避暑の傍ら夏季診療を行っていた長野県北佐久郡軽井沢町に自宅を移す。なお堀辰雄の軽井沢を舞台とした小説『美しい村』(1934年発表)には、この時期のマンローがモデルとされる「レイノルズ博士」なる人物が登場する。

1930年、イギリスの人類学者チャールズ・G・セリーグマンの紹介により、ロックフェラー財団からの助成金を獲得。1932年(昭和7年)、北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、民族資料収集を行った。

1933年に北海道に渡り、平取町二風谷にマンロー邸を建てる。以後当地でアイヌの研究活動や結核患者への献身的な医療活動を行うとともに、6月から9月にかけては軽井沢に移って診療活動を行うという生活を送った。1937年、ヘレン・ケラーと面会。1941年、病により臥床生活となる。1942年4月11日死去。

二風谷時代は、「アイヌの世話をする西洋人」ということで周囲から奇異な目で見られ、新居の放火騒ぎがあったり(ジョン・バチェラーとの対立が原因とも言われた)、「無資格で診療を行なっている」「英国のスパイだ」といった噂が流れて身の危険を感じることがあったりと、コタン以外の地元住民からは好かれていなかったという。

マンローは亡くなる時に、コタンの人々と同様の葬式をしてくれるよう遺言した。遺骨は晩年を過ごした二風谷に埋葬されるとともに、長年過ごしてきた軽井沢の外国人墓地にもその分骨が納められた。

マンローの人類学関連の蔵書は以前から親交があったフォスコ・マライーニに譲られ、アイヌ研究の遺稿はマライーニからロンドン大学へ送られ、人類学者のセリーグマンの手によって『AINU Past and Present』としてまとめられた。

アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。映像の大部分は、網走の北海道立北方民族博物館で見ることができる。彼の旧宅兼病院であった建物は、北海道大学に寄贈され、北海道大学文学部二風谷研究室として活用されている。毎年6月16日マンローの誕生日は、二風谷では「マンロー先生の遺徳を偲ぶ会」が開かれている。

マンローのコレクションはスコットランド国立美術館に収蔵され、2001年の日本フェスティバルで公開された。また、2013年(平成25年)に横浜市歴史博物館が開催したマンローをテーマとする企画展では、スコットランドにある日本の考古資料も含めた調査・展示が行われ、その業績が改めて評価された。

著書。『先史時代の日本』第一書房(英文、復刻版、1982年)。『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会 2002年。

 

わがまち遺産【わがまち遺産】 旧マンロー邸(平取町)

2018年03月04日 朝日新聞 (芳垣文子)

マンローとチヨ夫人=平取町立二風谷アイヌ文化博物館提供

■二風谷に住み、尽くした英医師

 平取町二風谷にあるその洋館は、国道から沙流川方向に少し入ったところに、ひっそりとたたずんでいる。昭和の初めにここに住み、地域の人々の診療にあたった医師ニール・ゴードン・マンローの館だ。

 1863年にスコットランドで生まれ、明治の中ごろに来日。横浜で勤務した後、二風谷に住みついた。人類学にも通じたマンローはアイヌ民族に深い関心を寄せ、自ら指揮・製作した「イヨマンテ」(クマ送り)の映像も残されている。

 館は1933(昭和8)年に完成。白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨ夫人が看護師として手助けした

    *

 二風谷在住の安田治男さん(94)は小学5年生の時、風邪をひいてマンローに診てもらったことをよく覚えている。「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」

 当時は結核が流行していた。「はい、息を吸って、咳(せき)して」。それを3、4回繰り返すように言われ、結核かどうかを診断していたようだった。1週間分の薬をもらったが、付き添った父が治療費を払おうとしても、マンローは受け取らなかった。安田さんのような和人もアイヌ民族の人たちも、すべて無料だった。

 アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩く姿が、安田さんの目に焼き付いている。

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 マンローは1942(昭和17)年に78歳で世を去った。チヨ夫人はその後二風谷を離れ、館は転売されるなどして荒れ果てた。心を痛めた英国大使館の参事官らが私費で買い上げ、66年に北海道大に寄贈。大規模な改修を経て翌年、文学部付属北方文化研究施設二風谷分室として開所した。

 北大事務職員だった出村文理(ふみただ)さん(79)=札幌市=は、館の管理にかかわるうちにマンローについて詳しく調べるようになった。「こつこつと努力した外国人医師の姿が浮かび上がった。なんとしてもきちんと残したいと思った」。著作や書簡を丹念に集め、2006年に出版した「ニール・ゴードン・マンロー博士書誌」は、マンローの生涯を知る貴重な資料だ。

 マンロー邸では02年から毎年「偲(しの)ぶ会」が開かれている。生涯で4回結婚したマンロー。11年、最初の妻との間の孫アイリーン・マンローさんがドイツから初めて参加した。マンローを知る人たちと交流しながら、祖父に思いをはせていたという。

 

旧マンロー邸見学を終えたのは、16時ごろだった。最終目標は新冠町の道の駅「新冠」だが、新ひだか町の新ひだか町博物館が18時まで開館なので見学することにした。

平取町二風谷 重要文化的景観「オプシヌプリ」アイヌ文化伝承地 オキクルミ