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福島県いわき市 国宝・白水(しらみず)阿弥陀堂

2024年06月10日 12時08分10秒 | 福島県

国宝・白水(しらみず)阿弥陀堂。福島県いわき市内郷白水町広畑。

2024年5月24日(金)。

いわき市考古資料館の見学を終え、国道6号線へ戻ってから北西方向へ進み、国宝・白水阿弥陀堂の駐車場に着いた。

入口の橋手前は道路整備工事が行われていた。参観は有料なので見学者・参拝者はちらほらである。

2023年9月、台風13号から変わった熱帯低気圧による大雨で近くを流れる新川が氾濫し、水位が床上30cmに達する床上浸水の被害を受けたときには、ニュースで映像を見たが、回復していた。

白水阿弥陀堂は、平安時代末期建立の仏堂で、福島県内唯一の国宝建造物である。同地所在の真言宗智山派の寺院・願成寺(がんじょうじ)が所有する。永暦(えいりゃく)元年(1160)、奥州藤原氏・藤原秀衡の妹徳尼(徳姫)の建立と伝えられる優雅な建物であるが、最近の発掘調査で、この阿弥陀堂が大きな池中に設けられた中島に建てられ、いわゆる浄土式庭園の典型的な構成を示していることが明らかにされた。

浄土式庭園を含む境内地は白水阿弥陀堂境域として国の史跡に指定されている。阿弥陀堂は近くに所在する願成寺の所有である。ただし、池を含む浄土庭園の大部分はいわき市の所有・管理になる。

阿弥陀堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、正面に当たる南から中の島を経由して堂にいたる参拝道が設けられている。さらに北・東・西は山で囲まれており、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は平安時代末期に盛んだった浄土式庭園の様を成している。これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることも手伝って、毛越寺や無量光院といった平泉の寺院の構造に影響を受けている。「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を2つに分けたものという説がある。

外の橋。

外の橋の途中から。右の中島に受付がある。

内の橋。

内の橋から。

白水阿弥陀堂は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道(岩城氏の祖)の妻・徳姫(藤原清衡の娘)によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立した。阿弥陀堂はその後、後鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には、徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。

東北地方に現存する平安時代の建築は、岩手県平泉町の中尊寺金色堂、宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂、当堂の3棟のみである。

阿弥陀堂方三間(正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる)の単層宝形造で屋根はとち葺

堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。

内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されている。

阿弥陀堂内部に入室して本尊の重文・阿弥陀如来像を拝めるが、室内は撮影禁止である。

 

いわきの『今むがし』Vol.134 『白水阿弥陀堂』(令和2年2月26日市公式Facebook投稿)から

白水阿弥陀堂内に安置されている木造阿弥陀如来像など5体(昭和40年代、長谷川達雄氏撮影)

堂内の須弥壇(しゅみだん・寺院の仏殿で仏像を安置する檀)には、本尊阿弥陀如来坐像、脇侍(きょうじ・木像の両脇に安置された像)の観世音菩薩と勢至菩薩、木造持国天立像と木造多聞天立像の5体が安置されており、いずれも国指定の重要文化財になっています。

福島県内の建造物で唯一、国宝として昭和27(1952)年3月に指定されたのが白水阿弥陀堂です。

建造物の様式から、阿弥陀信仰が盛んであった平安時代末期に建築されたと推定されています。釈迦が入滅して1500年を経ると、仏の教えを信じる者が少なくなり世の中が乱れる「末法」の時代に入り、その年が永承7(1052)年であるという、当時流行した末法思想に基づいていました。せめて、阿弥陀さまが住むという西方極楽浄土をこの世に再現して往生したいという願望を込めて浄土式庭園を造ったのです。

この場所は湯ノ岳から太平洋に向かって延びる、凹を逆にした形状を成す丘陵地と新川(旧白水川)に挟まれた低地にあり、丘陵地・経塚山(きょうづかやま)を借景として西方極楽浄土を拝む姿勢を取ることのできる、熟考された上での場所選定です。

 明治4(1868)年3月、政府の発した祭政一致の方針に基づき、神仏習合を廃した「神仏分離令」の影響で、寺院や仏像などは神社に劣る存在としてみなされるようになり、荒れ放題になっていました。

明治35(1902)年頃、いわき市所蔵〕

 しかし、明治維新の混乱が収まると、明治30(1897)年に「古社寺保存法」が施行され、国の調査が進められます。貴重な建物であることが次第に明らかになり、明治36(1903)年から2か年をかけて大規模な修理が行われました。

上 白水阿弥陀堂とその周囲〔昭和42(1967)年、いわき市撮影〕

下 庭園が復元された阿弥陀堂〔平成時代初期、いわき市撮影〕

庭園は昭和36(1961)年2月に防災用水池を造成する際、その存在が明らかになりました。

その後の調査によって、平泉文化と関連が深い浄土式庭園であることが判明し、当時の仏教文化を考えるうえで大変貴重なものと判明しました。昭和41(1966)年9月には、「白水阿弥陀堂境域」として国指定史跡に指定。その境域は東西2町(約220m)、南北3町(約330m)の広さで、内院と外院に分かれていたと考えられ、現在の願成寺はかつて境域に存在していた大坊(だいぼう・系列の末寺の上に立つ寺)が元禄年間(1688-1704)に改称されたものと考えられています。

この広大な境域の再現には、市が国県の補助を得て、昭和43(1968)年度から境域復元整備事業に着手し、東池、西池などを整備。次いで昭和53(1978)年度に内院整備、さらに外院は昭和57(1982)年度から昭和60(1985)年度まで整備が行われました。さらに周辺を市民の憩いの場とするため、園路広場、植栽、休憩所などを整備し、平成5(1993)年度をもって整備事業は終了しました。

庭園の復元に合わせて、御堂前の中島からの北橋は昭和50(1975)年(昭和29年に一旦建設)に、中島の南側にある南橋(太鼓橋)は昭和51(1976)年に、それぞれ復元され、昭和53(1978)年5月には復元橋の渡り初めが行われました。

浄土式庭園では池と御堂の間は橋でつなぐのが一般的ですが、「一島二橋」の形式を持つのは珍しい形態です。

それでも、全体像をみると、まだ完成形とはなっていません。かつてはもっと広く西側に広がっていたと考えられますが、外院の西側には明治時代以降の石炭開発などで移り住んだ家屋が建っているため、まだ完全復元には至っていないのです。

現在では、阿弥陀堂と池、経塚山一帯の眺望と新緑や紅葉の美しさを求めて、多くの人が訪れています。(いわき地域学會 小宅幸一)

 

白水阿弥陀堂を見学後、いわき湯本温泉へ向かい、「ゆったり館」(障害者割引220円)に入浴したのち、小名浜港にある「アクアマリンふくしま」へ向かった。


平取町立二風谷アイヌ文化博物館⑥祈る・祝う イオマンテ(クマの霊送り)

2024年06月10日 09時58分15秒 | 北海道

平取町立二風谷アイヌ文化博物館。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

祈る

アイヌの人々は日々の生活のなかで神々への祈り(カムイノミ)を欠かしませんでした。カムイノミは男性が行う厳粛なものであり、女性がカムイノミをすることはありません。

カムイノミのなかで最初に行うのが、炉にいるアペフチカムイ(火の姥神)への祈りです。アペフチカムイは最も身近なカムイですが、強い力を持っています。一日のはじまり、猟に出るとき、催事を行うときなど、必ず最初にアペフチカムイに祈りました。

トゥキパスイ(イクパスイ)(捧酒箸)。

カムイノミに用いる道具として欠かすことのできないものに「イクパスイ」があります。イクパスイは、アイヌの言葉と献酒をカムイに届けてくれます。長さ30㎝、幅2㎝、厚さ3㎜ほどの薄い板状のものですが、表面にはさまざまな文様が彫られており、男性の彫刻の技を見ることができます。漁狩猟には必ず携帯し、行く先々でのカムイノミに用いました。

イオマンテなどの大きな儀礼では、キケウシパスイという表面に羽根のような削りかけのついたパスイが用いられます。イクパスイが何回も用いられるのに対して、このキケウシパスイは儀礼のたびにつくられ、儀礼が終わると神々に持たせるといって、屋外のヌササン(祭壇)に祀ってあるイナウ(木幣)に結びつけてしまい、二度と使いません。現在、博物館等で見るキケウシパスイはほとんどが複製品です。

アサマリイタンキ 和名:底高漆塗椀(熊送り)。

サイズ(mm)径140、高86。団子を供える。1955年頃収集か。内朱外黒漆塗・花紋様、江戸以前・南部椀か。

エチユシ(酒注)。

 

祈る・祝う

神をアイヌ語で「カムイ」といい、神に祈ることを「カムイノミ」といいます。アイヌの人々は、「カムイ・モシリ 神々の住まう世界」、「アイヌ・モシリ 人間の住む世界」、「ポクナ・モシリ 死後の世界」という3つの世界を創造し、アイヌ・モシリに住む人間であるアイヌは、カムイ・モシリから来訪する神々とともに生きていると考えてきました。

アイヌの人々のいう神々とは、太陽や月、山、海、川、風、火など、私たちのいう自然、ヒグマやシマフクロウ、キツネ、キツネ、ウサギ、タヌキといった動物ギョウジャニンニク、オオウバユリなどの植物舟、鍋、ゴザなど自分たちの手でつくり出す道具類天然痘、風邪といった病気など、アイヌの周りにあるすべて、つまりアイヌが生きていくうえで必要なもの、役に立つもの、アイヌの力の及ばないものはカムイであり、私たちが目にしているのは、カムイがアイヌ・モシリに滞在しているときの姿であると考えました。

これらの神々のうち、太陽や月などの自然神は恒常的にアイヌ・モシリにあって、アイヌに役立っていますが、動物神や物神は、カムイ・モシリとアイヌ・モシリを行き来して、アイヌの生活を支えています。

動物神や物神は、普段はカムイ・モシリでアイヌと同様の姿形・生活をしていますが、ある時期がくると、アイヌの役に立つためにアイヌ・モシリを訪れます。これは、神々の義務・務めとされています。

クマを例にとって見ますと、クマ神は、自分の家にある毛皮と爪を身にまといクマの姿となってアイヌ・モシリを訪れ、アイヌの出迎えを受けます(狩猟でクマを射止める)。コタンで歓待され、お土産をいっぱいもらい、アイヌに送られて(霊送り儀礼)カムイ・モシリに帰ってきます。

このときのクマ神のアイヌへのお土産は、毛皮と肉と肝です。いずれも貴重なものです。また、冬の冬眠中のクマを射止めて仔グマを捕獲したとき、コタンに連れ帰って1年ないしは2年養育した後、盛大な別れの宴を開いてクマ神をカムイ・モシリに送り帰します

この儀礼がイオマンテ(クマの霊送り)です。カムイ・モシリに帰ったクマ神は、仲間の神々を集めてお土産を分配し、アイヌ・モシリでの歓待の様子などを話します。

そうすると、仲間の神々も、「我々も来年は訪れてみよう」ということになり、翌年、多くの神々がアイヌ・モシリを訪れることになります。

この多くの神々の来訪は、アイヌが狩猟でたくさん獲物(食糧)を得ることができるということであり、食糧の安定確保を意味しています。漁狩猟・採集を生業としたアイヌの人々の食糧を求める想いがここにあります。

イオマンテのヌササン(祭壇)。イナウ(木幣)で飾る。

シロマイナウ・チェホロカケプ(右から2番目)sir-oma-inaw・c=e-horka-ke-p。和名:逆さ削りのイナウ。

儀式で火の神に捧げる。二風谷。

説明1(使用場所・方法)。「このイナウは熊送りや新築祝いなどのまつりのときに一本作ります。そしてチェホロカケプイナウ(逆さ削りのイナウ)一本とこのシロマイナウをいろり端に立てて火の神に捧げ、まつりが終わった後でチェホロカケプだけを火にくべて燃やし、このシロマイナウは家の東の隅の家の守護神を安置してある上の方に刺し、家を解すときまでそのままにしておきます。

したがって、ポロサケ(大きい酒=大宴会)のたびにその数は増していくので、その家で何回大きなまつりが行なわれたかがすぐに分かるようになっていました。

おまつりのときにはいろいろな種類のイナウがたくさん作られますが、それらのイナウは火にくべて燃したり、外の祭壇に飾られたまま風雨にさらされ、朽ちはててしまうのですが、このシロマイナウだけはいつまでもその姿を変えずに残るのです。」

説明2(製作方法):「ヤナギ)」

▼「シロマイナウというのは、五~七本房を削ってはそれをより合わせ、十五~二十本のより房を削りつけ、下の方をとがらせたイナウです。」

▼「シロマイナウを作るには、いちばんいいような太めのイナウネニ(イナウを作る材料)を選び、木の根元の方を向こうに向け、そのまっ白な木肌にイナウケマキリの刃を斜めに当ててすーっと手前の方へ引くと、三十~四十センチくらいの長さの細いらせん状の木の房ができます。

木を少しずつ回しながら五~七本削っては指先でつまみ、先の方を八センチくらい残してぐるぐると撚りをかけます。撚りがもどらないように膝で押さえては、次々と削りながら撚ってゆきます。この撚った房が木の周囲にまんべんなくでき、十五~二十本くらいになったら根元をとがらせてできあがりです。

サパンペ(イナウル)(冠)。

サパンペは、アイヌの成人男性が儀礼の際に着用した冠である。身に着けた者の言葉を補って神々に伝えるという、アイヌのシャーマニズムにおける呪具である。

サパンペはアイヌ語で「頭に有る物」(サパ・ウン・ペ、sapa-un-pe)を意味する。また、イナウに因んでイナウル(inawru)とも呼ばれる。

形状は鉢巻に似ており、頭全体に被るのではなく外周を覆うものである。ヤマブドウの蔓の皮を捩じり上げて大まかな形を作り、額の部分にはヒグマやキタキツネなど動物の頭部を模した木彫を取り付け、周囲は楊やミズキの材を削ったキケ(イナウの削り花)や、シナノキの樹皮や蒲の茎をコイル状に編上げた物、日本本土産の布地、あるいはサメの歯などで飾り付ける。

サパンペは日常的に着用するものではなく、イオマンテなど重要な祭礼、あるいは客人を迎える時などハレの場で用いられた。渡島、胆振、日高など北海道南西部では儀礼に参加する成人男性の多くが着用した。

 

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