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福島県相馬市 相馬中村城跡・相馬中村神社

2024年06月19日 16時35分09秒 | 福島県

相馬中村城跡・相馬中村神社。福島県相馬市中村字北町。

2024年5月25日(土)。

南相馬市の桜井古墳を見学し15時30分ごろ相馬市の相馬中村城跡へ急ぎ、相馬市役所の南を経て16時前に相馬中村神社兼相馬中村城跡の駐車場に着いたが、車から降りずに検討した結果、相馬市役所の北に相馬市歴史資料収蔵館があるので、先に見学しようと相馬市民会館と共用の駐車場へ向かい、16時5分ごろ歴史資料収蔵館の入口に着くと、16時に閉館しました、と掲示されていたので、しまったと思った。たしかに16時に閉館する博物館はたまにある。と思っていると、中から女性職員が出てきて、少しの時間なら見学してもいいですよ、と言ってくれた。感謝しながら、2階の常設展示室を5分ほどで見学した。写真撮影禁止なので、それぐらいで充分だった。記憶しているのは、「報徳仕法」とう二宮尊徳の行財政改革・農業振興策が紹介してあるパネルだった。入口に戻り、次の見学予定地である名勝・松川浦のリーフレットなどを探したがなかったので、男性職員に地図をもらった。

相馬中村城は、戦国時代から江戸時代にかけての大名・相馬氏の居城の一つであり、江戸時代には相馬中村藩の藩庁であった。相馬中村藩は現在の福島県相馬市・南相馬市・. 大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村・新地町・飯舘村を領地とした6万石の藩である。藩主は一貫して相馬家で、家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられた。

中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。

1189年(文治5)源頼朝の奥州征伐の功によって、奥州相馬氏の祖となった相馬師常は、父千葉常胤とともに従軍し、その功で行方(なめかた)郡を賜った。奥州相馬氏は、鎌倉時代末に行方郡に移住し、南北朝期以降の動乱のなか、隣接する標葉郡と宇多郡にも勢力を伸ばし領主権を確立していった。

中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森以北に権勢を振るい、1563年(永禄6年)に次男の相馬隆胤が入城した。この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いから11年後の1611年(慶長16年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は中村藩6万石の藩庁となった。同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手門・北隅櫓・天守が設けられた。しかし、1670年(寛文10年)には落雷により天守を焼失したが、時の4代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は為されなかった。以後、これを指針として歴代藩主は天守を再建しなかった。

1629年(寛永6)領内総検地で宇多(うた)、行方、標葉(しねは)3郡6万石余となり、幕府の許可を得て相馬中村藩の表高とした。その後1656年(明暦2)ふたたび総検地を行い10万2000石と定めた。さらに1696年(元禄9)の総検地では総内高13万6000石となった。3代忠胤は1658年(万治1)領内を7郷に分け地方(じかた)支配機構を整備し、「野馬追い」の神事を行い藩体制を確立させた。1755~56年(宝暦5~6)の飢饉で領内人口は激減、藩の収納米4万6000石の減少があり、藩は家臣の知行の一部を借り上げて財政難に対処した。1784年(天明4)の大飢饉では餓死者、欠落(かけおち)者1万6000人を数え、年貢米7万6000石の減収となり、1813年(文化10)藩借財30万両に達した。藩主益胤・充胤父子は移民政策、二宮御仕法(尊徳仕法)の実施などによる農村復興策を実施し、藩財政の回復に努めた。1868年戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加し、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。そして、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃城となった。

中村城下地図のイラスト。

中村城の縄張りは梯郭式の平山城である。

西の阿武隈山地から伸びる比高15m程の小丘陵に築かれた。南面に流れる宇多川を天然の外堀とし、この水を引いて北面・東面に水堀が配される。尾根続きの西面は、堀切と切岸で防御されている。北面に水堀を中心とした地形的障碍を多く用い、仮想敵である伊達氏を意識した構えとなっている。戦時には堀を切って城の北側500m余りを一面の沼沢地にすることができたとも言われる。場所としては宇多川の渡河点を制圧する意味合いを持っている。

城郭の規模は、東西600メートル・南北650メートル。本丸と鎮守妙見を祭った妙見曲輪を中心に、二ノ丸、三ノ丸、岡田館を配置し、その間に堀、空掘をめぐらし城郭としての機能を発揮できるようにした。

城の北方には、蓮池、外堀、土橋などがあることから、北方を意識した堅固な城といわれている。城下町は城の東に発達、城下町特有のクランク状の道割が多く残る。

城郭を形成していた土塁、石垣、堀などは、築城当時の姿を残している。

相馬中村神社城跡全景。

相馬中村城跡本丸周辺。中央左は本丸跡の相馬神社。左端に黒橋、右端に赤橋。

相馬市教委「福島県指定史跡 中村城跡」の絵図を参考に、相馬中村神社下から黒橋、本丸跡、東二の丸赤橋外まで歩いたが、実感とはかなり地形が違っていた。

妙見曲輪と相馬中村神社。

西二ノ丸の一角にあって、藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀ったところを特に妙見曲輪と言い、相馬氏の居城には必ず設けられた。中村城内の妙見社(現相馬中村神社・国指定重要文化財)は、1643(寛永20)年に建てられた相馬地方最古の神社建造物であり、権現造りの社殿は、全体的に簡素な意匠であるが、木割は太く力強く、屋根はこけら葺である。

相馬中村神社の祭神は天之御中主神(妙見菩薩)である。相馬中村神社の起源は、相馬氏の始祖である平将門が承平年間(931年 - 937年)に下総国猿島郡に妙見社を建立したことに始まるといわれる。1600年の関ヶ原の戦いの結果として相馬氏は改易されたが、1611年に旧領への復帰を果たして中村藩を立てた。この時、中村藩の初代藩主となった相馬利胤が、1611年に中村城内の南西に相馬氏の守護社である妙見社を建立したのが、現在の相馬中村神社の起源である。明治時代に入って廃仏毀釈により本尊の妙見菩薩が廃棄され、相馬中村神社と改称した。

相馬中村神社下の相馬中村城跡登城口。

西二ノ丸(西館)南端。本丸西南の堀、

西二ノ丸は、古くは西館と呼ばれ、相馬利胤が中村城に移る前、後の盛胤が隠居したこともあった。利胤が本拠を移したころは、家臣の屋敷であったが、後年、南の方は台所役所となり、北の方には米倉が造られ、宇多・北・中郷の貢税が収められた。また、火薬庫が置かれたこともあった。ここから見える本丸西面の鉢巻石垣は、1847(弘化4)年に崩落して、積み直されたものである。籾蔵門は、西二ノ丸の北側に位置し、蓮池西土塁より続く一連の防御施設であった。

西二の丸東南端と本丸南西端を結ぶ黒橋。

本丸及び本丸御殿・天守閣跡。

標高23mの丘陵最高所に本丸を置き、北、西、東にそれぞれ二の丸を配している。本丸の北面、西面には小規模な水堀があり、東面は二の丸との間に空堀が存する。本丸の南側は10m程の崖になっており、崖の直下には堀のあとが見られる。

本丸御殿は、現在のフジ棚を取り囲むようにあった。現在も諸所に礎石や庭園の配石の跡が見られる。また、三重の天守閣は、築城時の1611(慶長16)年、本丸西南隅に建てられたが、1670(寛文10)年落雷で焼失し、ときの藩主19代相馬忠胤は、再建をすれば莫大な費用がかかり、藩士や領民を苦しめることになるといって再建をせず、以後も再建されることはなかった。本丸跡中央の相馬神社は、明治13年に相馬氏の祖の相馬師常を祭神として創建されたものである。

本丸東端から東二の丸・丸土張へ向かう赤橋。

修復工事中の石垣。

自然丘陵を利用した本丸には、中段より上には鉢巻石垣がある。慶長16年(1611)、会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれている。石材は、川石の自然石に割り石を混ぜ、小面を横に据える野面積である。

二宮尊徳銅像。

東二ノ丸と丸土張(まるどばり)。

古くは中館ともいわれ、ほぼ現在の二の丸球場にあたる。延宝2年(1674)から天明3年(1783)ころまでは、御殿があり藩主の私邸となっていた。西側には、丸土張(まるどばり)といわれる馬出(うまだし)があった。東二の丸は堀に囲まれた丸馬出となっている。

東二の丸の赤い橋手前で地元の女性に出会い、場所の確認をした。赤橋と黒橋があったでしょう、といわれた。

このあと、景勝地で有名な松川浦へ向かった。

福島県南相馬市 国史跡・桜井古墳 東北第4位の前方後方墳


北海道新ひだか町 シャクシャイン像 シベチャリチャシ跡 アイヌ民俗資料館①シャクシャインとチャシ  

2024年06月19日 11時26分19秒 | 北海道

英傑シャクシャイン像。新ひだか町静内真歌(まうた)。真歌公園内。

2022年6月10日(金)。

新ひだか町アイヌ民俗資料館。新ひだか町静内真歌(まうた)。真歌公園内。

新冠町郷土資料館を見学して、静内川東岸丘上にある新ひだか町の真歌公園へ向かった。広い駐車場があったが、それは乗馬クラブのもので、西側へ戻ったところにシャクシャイン像、チャシ跡と新ひだか町アイヌ民俗資料館があった。右奥のシャクシャイン記念館は改修工事のため休館であった。(2024年現在は、アイヌ民俗資料館も休館中)

昨日は、新ひだか町博物館でシャクシャイン像に関する展示を見た。

アイヌ民俗資料館に入館し、まずシャクシャイン関連の展示を見たが、その前にシャクシャイン像が変わったいきさつを尋ねたが明解な説明はなかった。初代像の跡地も尋ねたが、更地になったということだった。1976年に初代シャクシャイン像を見学に訪れたときは二つの博物館はなく、シベチャリチャシの存在も明示されていなかった。

アイヌ民俗資料館見学後、シャクシャイン像やシベチャリチャシ跡のある現地を見学した。

チャシとは山の上にあって割木の柵を巡らせた施設を指し、壕や崖などで周囲と切り離された施設である。一般的には砦とされるが、チャシの用途は複数考えられ、時代を経るにつれて変化したとされる。最初期のチャシは聖域としての性格が強く、次いでアイヌ族内での緊張状態の影響からチャランケ(会談場)の場として用いられるようになり、和人との戦いが激しくなると軍事施設として砦の役割が大きくなっていったとされる。

チャシがアイヌ族の施設として一般的であったのは16世紀から18世紀、つまり近世アイヌ文化期であると考えられている

チャシの分布は東蝦夷地(太平洋側のアイヌ文化圏)と呼ばれた道南、道東に多く、特に根室、釧路、十勝、日高地方に集中している。これはシャクシャインの勢力圏と一致しているため、シャクシャインらが和人と戦う中で多くのチャシが築かれたのではないかと推測されている。

チャシの形状の分類法は幾つかあるが、最も広く用いられているのは1956年に河野広道が『網走市史』において用いた4分類である。

孤島式。平坦地あるいは湖の中に孤立した丘あるいは島を利用したもの。

丘頂式。山や尾根の頂の部分を利用したもの。

丘先式。突出した台地(たとえば丘や岬など)の先端を利用したもの。

面崖式。崖地の上に半円形の壕を築き、その内部をチャシとするもの。

以上の4分類の中では孤島式と丘頂式が新しく、次いで丘先式が現れ、面崖式が最も新しい形式ではないかと見られている。

シベチャリチャシ跡。溝(濠)跡に架けられた橋から。

アイヌ民族の築いた砦跡。堀、郭跡などの遺構が残る。国指定史跡。静内川左岸の台地の突端(標高83m、沖積地との比高差77m)に築かれた丘先式(きゅうせんしき)チャシで、シャクシャインのチャシといわれている。静内川に臨む断崖上にあり、静内市街地はもとより太平洋や日高山脈が一望できる。

当時、新ひだか町一帯はアイヌ語でシベチャリと呼ばれていた。江戸時代の初め、松前藩の不公正な交易などに不満を募らせたアイヌ民族が集団間の対立をきっかけに武力蜂起した1669年(寛文9)のシャクシャインの戦い(シャクシャインの乱)のリーダー、日高アイヌの首長シャクシャイン(沙牟奢允)ゆかりのチャシ(砦)である。

シャクシャイン率いるアイヌたちは一時期は道南の長万部町付近まで攻め入ったが、鉄砲隊を繰り出した松前藩の攻勢に後退し和議を受け入れた。しかし、シャクシャインは謀殺され、最後の砦となったシベチャリチャシも焼き払われた。シベチャリチャシがあった場所は現在、真歌公園として整備され、シャクシャイン像、ユカルの塔などが設置されている。

橋からシャクシャイン記念館と初代シャクシャイン像が設置されていた広場方向。

橋から海方向の溝。

橋から静内川方向の溝。

シベチャリチャシ跡遠景(静内川に臨む)

郭の面積は約1300㎡である。地上に表出している遺構は壕(ごう)と郭(くるわ)である。壕は1条で上幅約10m、深さ約1.5m、長さ約50mを測る。現存する壕が、もとは2条でシャクシャインの戦い前後に1条に改修されたこと、その外側(東)に、言い伝えのとおり壕状の遺構があることが確認されている。

1963年から2003年にかけ、静内高等学校文化人類学研究部や静内町教育委員会(当時)によって発掘調査され、柵列(さくれつ)もしくは櫓(やぐら)に使用されたと思われる柱穴(ちゅうけつ)、鉄器、漆器、陶磁器、布などを伴う竪穴状の遺構、焼土(しょうど)、骨角器、シカの四肢骨(ししこつ)、メカジキの吻(ふん)、サケ科の脊椎骨(せきついこつ)などが発見されている。

ポイナシリチャシ跡。

真歌公園展望台。

シベチャリチャシ跡敷地内には展望台があり、新ひだか町の静内市街地を見渡すことができる。

北海道 新冠(にいかっぷ)町郷土資料館 ピポク

北海道 新ひだか町博物館②アイヌの英傑シャクシャイン像