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福島県富岡町 東京電力廃炉資料館 双葉町 東日本大震災・原子力災害伝承館

2024年06月14日 15時54分03秒 | 福島県

東京電力廃炉資料館。福島県双葉郡富岡町中央三丁目。

2024年5月25日(土)。

道の駅「いわき よつくら(四倉)」で起床。トイレに満足できず、道の駅「楢葉」に移動した。道の駅内の入浴施設が障害者無料なので確認すると10時からなので諦めた。富岡町の東京電力廃炉資料館見学を10時に予約していたからだ。廃炉資料館は日祝は自由見学だが、平日と土曜日は時間指定のガイドツアーを予約しなければならない。昨日の午前中に11時を予約したが、いわき市の草野心平記念館を含めいわき市の見学予定地が昨日中に終わる目途がついた15時ごろに10時に変更する電話をした。団体客と一緒になるがいいのかと確認された。

翌日曜日は相馬野馬追の神旗争奪戦本番で、土曜日もそれなりに行事があるようだったので、南相馬市周辺の道路渋滞や道路規制もあると思ったが、その通りだった。ただし、それほどの影響は受けなかった。

東京電力廃炉資料館は、2018年11月にオープンした東京電力が運営する資料館で、廃炉への取り組みを伝える資料館として、原発事故の記憶と記録・反省と教訓、廃炉の進捗状況等を伝える施設である。建物はもともとは、福島第二原発のPR館「エネルギー館」を改装した2階建ての建物で、見学は無料である。

東京電力廃炉資料館には9時45分ごろに着いた。受付に行くと、展示室などの自由見学はできず、周辺地域の観光案内図がある待機室で待つように言われた。コーヒーやお茶の無料給湯器があり、コーヒーを飲んで待った。玄関に飲料水のペットボトルが大量に置かれていたので帰りに持ち帰ろうと思って

いたが、20人ほどの団体がやってきてペットボトルを持っている人もいたので、1本頂いた。団体はどこかの企業の30歳代中心の男性だけの集団だったが、真面目に展示を見ていた。

10時になると、女性ガイドに引率されて、1時間で3つの見学ゾーンを回った。

見学ゾーンでは、映像やジオラマなどを使い、福島第1原子力発電所・第2原子力発電所の当時の状況や対応、廃炉現場の様子などの事故の全容と最新情報を伝えている。ビデオによる説明が多い。

圧力容器・格納容器の断面模型。

調査用ロボット。

数日前のニュースでは、東電の説明に、住民が「何も進展していないじゃないか」と怒っていた。

このあと、国道6号線を北上して双葉町へ向かった。福島第一原発は大熊町と双葉町の境に造られたという。そのあたりを通過していくと、国道の周囲に廃棄された商店や住居が点々としていた。

 

東日本大震災・原子力災害伝承館。福島県双葉郡双葉町大字中野字高田。

2020年9月20日に開館した福島県立の博物館・情報発信施設である。福島第一原子力発電所は南に3㎞の地点にある。

2011年3月11日に発生した東日本大震災と津波に伴う原子力災害(福島第一原子力発電所事故)を後世に伝えることを目的としている。3階建て、延べ床面積約5200㎡の巨大な建物である。

館内に入ると、入館券の自販機に欧米人10人ほどが購入の列をなしていた。入館料は大人600円と高い。同種施設の岩手県陸前高田市の東日本大震災津波伝承館は入館無料なので、無料でもいいのに不思議だ。横にいる係員に身障者手帳を見せると、無料で入館券を用意してくれた。

入口にある導入シアターの映像では、ナレーションを福島県出身の西田敏行が務めている。語り部コーナーには多くの人が話を聞く姿が見えた。

2011年3月11日、マグニチュード9.0という日本での観測史上最大となる東北地方太平洋沖地震が東北地方で発生した。これにより、津波も発生し、太平洋沿岸地域で甚大な被害に見舞われた。福島県もその例外ではなく、1600人以上が命を落とした。

さらに福島県双葉町に位置する福島第一原子力発電所の非常用電源が津波で使用不能になったことで、チェルノブイリ原子力発電所事故に並ぶレベル7となる最悪の原子力災害も発生した。

汚染土壌を収納しているフレキシブル・コンテナ・バッグ(フレコンバッグ)見本。

屋上からは周辺地域一帯で整備が進められている復興祈念公園が見渡せる。

 

このあと、南相馬市の小高神社・小高城跡へ向かった。

福島県 いわき市立草野心平記念館 飯野八幡宮 大国魂神社 甲塚古墳


平取町二風谷 重要文化的景観「オプシヌプリ」アイヌ文化伝承地 オキクルミ

2024年06月14日 09時03分47秒 | 北海道

重要文化的景観「オプシヌプリ」。平取町二風谷。国道237号線オプシヌプリ視点場から。

2022年6月9日(木)。

二風谷コタン見学後、車で2分ほど上流方向へ進み、「オプシヌプリ」視点場へ着いた。

道路沿いに案内板があるので場所は分かりやすい。

平取町には「アイヌの伝統と開拓による沙流川流域の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定された地域が各所にある。対岸に見える「オプシヌプリ」もその一つである。

 

オプシヌプリ穴空き山という意味のアイヌ語である。アイヌに生活文化を伝承したオキクルミという神がヨモギの矢を射って山に穴を空けたという伝説がこの地域には残っている。

明治31年までは本当の穴だったが、災害(地震説・大雨説あり)により現在は上部が崩落しており、半円のようになっている。夏至の頃には日没時に太陽が穴にすっぽりと収まることから、地元の人などがその様子を鑑賞する名所となっている。

 

平取町重要文化的景観 「オプシヌプリ」「平取町文化的景観解説シート」から。

オプシヌプリ Opus-nupuri。

にぶたに湖対岸(沙流川右岸)の国有林内にあります。オキクルミカムイが弓に矢をつがえ、射抜いたとされる伝承がある山です。明治31年の大水害の時まで、くぼみの上の部分が繋がっていて、穴の状態だったといわれています。夏至には、窪みに太陽が沈んでいく様子を見にたくさんの人が訪れます。

山の尾根が丸く欠けた特徴的な形態から、沙流川の神秘的なイメージを象徴するアイヌ伝承地として知られています。

オプシヌプリの伝承

記録に残っている伝承(資料1)の共通項に、オキクルミが貫いた山という表現があります。その伝承の形成時期を探る情報は、今のところ見出すことができません。

最も古い情報は明治29(1896)年の「プイヌプリ」(図1・資料2)です。その後、明治31(1898)年の大雨(地震説もあり)によって丸かった穴が崩落したと伝えられています(資料3)。

 後の記録に表れる「オプシヌプリ」もプイヌプリと同様に山の状態を表す名称です。その語源だけをみてもアイヌ伝承との結びつきは判然としません。

吉田巌による「オキクルミのチョッチャした跡という穴」という明治44(1911)年の記録は、今のところオプシヌプリとオキクルミを結びつけた最古の文献情報です(資料2)。

 それが矢なのか槍なのかは不明ですが、明治後半代には資料1にあるような伝承がみられることになります。

 オキクルミは新井白石による『蝦夷志』(享保五年:1720)を始めとした近世の地誌において、義経伝説を助長する形でたびたび登場します。特徴的な山や岩塊に対して、いろいろな観方や言われ方をする中で、オキクルミの伝承が徐々に語られるようになっていったと考えられます。

 記録されている2つの伝承(資料1)は、それぞれ特徴的な内容をもっています。1は額平川流域を含めた広域でのストーリー展開であり、2は沙流川の伝承で度々みられる十勝方面からのトパットゥミ(群盗・夜襲)を題材にしています。このことは流域住民がオプシヌプリに対して、いろいろな観方や想いをもっていたことを示しています。

 沙流川流域は、北海道の中でもアイヌ伝承記録がとりわけ多い土地柄といわれています。今後、資料を掘り起こしていく中で新たなオプシヌプリ伝承が見出されることがあるかもしれません。

資料1 オプシヌプリの伝承

1.文化神オキクルミが沙流川の支流貫気別川の奥のエマニチヌプリ(焼串山)の上を居城にしていたとき、そこから額平川の支流トゥレプンナイ(うばゆりある沢)の山を目標にして、投槍の練習をしていると、槍がトゥレプンナイの山にあたらずにそれて、沙流川の川向いのオプシヌプリ(そこを破った山)という山を突き抜いて大穴をあけてしまった。その穴は地震のために上が崩れ落ちて、今はへこみにしか見えていない。 [二風谷 二谷一太郎伝]            (更科 1971)

2.昔、十勝の方のアイヌが沙流川に攻めてきた。その時オキクルミカムイ(アイヌに生活文化を教えた神)が、互いに血を流すことを避けるために、技比べをしようということになった。最初にオキクルミがヨモギの矢をつがえて川のむこうのあの山を射た。一本の矢で見事に岩山に穴が開いた。十勝アイヌはそれを見て度肝を抜かれて逃げ帰った。それだから、あの山の向こう側、山の後ろへ行ってみると、よもぎがいっぱい生えているのだよ、と。この穴あき山のことをオプシヌプリというのです。(萱野 1975)

資料2 オプシヌプリの語源及び別称

 オプシヌプリ  opus nupuri 穴があく・山    (更科 1971、萱野 1975)

 プイヌプリ puy nupuri  穴・山    (明治二十九年製版北海道仮製五万分一図)

 オキクルミのチョッチャした跡という穴

           cotca  刺す、射る、(弾丸・矢を)当てる (吉田 1957)

資料3 オプシヌプリの崩落

明治31年の大水害までは、今のくぼみの部分の上がつながっていて、本当に穴であったそうです。それが、大水害をもたらした大雨のときに、上のつながりが落ちてしまったと子どもの頃に聞きました。

昭和20年代に写した写真と、現在の姿を比べてみると、今の穴は、当時よりかなり上の方が広がっているように思います。あの付近の岩石は砂岩なので、ひょっとするとその昔は本当に上がつながっていたのかも知れないし、また、そのくぼみはこれからも広がり続けることでしょう。 (萱野 1984)

オプシヌプリ観賞会

 夏至の日を中心に数日間オプシヌプリのくぼみ部分に夕日が沈む様子をみることができます(写真2)。平取町二風谷アイヌ語教室では、毎年この時期にオプシヌプリ鑑賞会を行っています。この夕日を一目見ようと、国道237号沿いのカンカン待避所(二風谷)には、町内外からたくさんの人が集まります。

 オプシヌプリは地域のアイヌ伝承地というだけでなく、幻想的な姿を見せてくれる自然の造形という側面をもっています。

 

このあと、国道を2分ほど戻って二風谷コタンの道路反対側にある萱野茂二風谷アイヌ資料館を見学した。

平取町 二風谷コタンのチセ(アイヌ住居)群 「二風谷アットゥシ」の実演