霊山(りょうぜん)・霊山城跡。駐車場から。福島県伊達市霊山町石田。
2024年5月26日(日)。
本日の行程は、道の駅「相馬」から、新地町の三貫地貝塚、伊達市の「まきばのジャージー本店」、霊山城跡と梁川城跡、月曜日休みの国見町の阿津賀志山防塁と桑折町の桑折西山城跡のガイダンス施設と現地見学、福島市の文知摺観音、宮畑遺跡、信夫山第一展望台、飯坂温泉鯖湖湯入浴、道の駅「ふくしま」までを予定していたので、時間的余裕はない。
NHK『ドキュメント72時間』で全国的に知られるようになった「まきばのジャージー本店」で8時30分開店と同時にアイスクリームを食べてから国道115号線を西に進むと数分で霊山登山口の案内標識が見えてきた。霊山パーキングを越えてから山側に入り、終点まで行くと広い駐車場があった。トレッキングシューズに履き替えて登山口を目指そうとしたが様子がおかしい。近くの人に尋ねたら分からないと答えてきた。ここは、「霊山子供の村」の駐車場らしかった。車に乗り直して車道を少し進むと、さらに山へ登って行き、今度は間違いなく霊山登山口の駐車場に着いた。
霊山登山口の案内板。
城のある霊山全域が国史跡および名勝に指定されている。
霊山登山についてネットで予習してみると、各ポイントの写真からは、岩場の狭い登山路が想像されるが、霊山城跡の見学に絞れば、護摩壇に寄らずに、短時間で楽に登山できるコースを選択できると分かった。標高825mの最高点(山頂)である東物見岩は霊山城跡での状況次第とした。
霊山城は、霊山の山頂付近にあった円仁創建の天台宗寺院霊山寺(現在は山麓に移転)の山頂伽藍を利用した城郭で、南北朝時代に南朝の拠点となり、国司館ともよばれた。
南朝から鎮守府将軍に任じられていた北畠顕家は、1337年2月9日(延元2年/建武4年1月8日)、広橋経泰らと図って、陸奥太守義良親王(のちの後村上天皇)を多賀国府から霊山に移して山頂付近に「国司館」を設置して国衙機能を移し、また城郭として整備して北朝勢力に対抗した。
北畠顕家らは伊達行朝・結城宗広ら奥羽地方の南朝勢力と連携しながら、同年9月6日(旧暦8月11日)に親王を奉じて上洛を開始するまで拠点とした。その後も現地に残された南朝方将兵によって守備されていたが、1347年(正平2年/貞和2年)に北朝方の奥州管領吉良貞家によって攻略され、その後も何度か攻防戦が行われたものの、応永年間には廃城となった。
9時15分ごろ、登山口から広い車道に入っていくと、次第に急傾斜な山道に変わってくるので、何度の立ち止まりながら登っていった。沢の音を聴きながら岩の間を登ると、宝寿岩の下に着く。宝寿岩を横に見ながら緩い国道のような登山道を登っていく。岩のある外側とは違って内側は広い平場が連続して緩く登っており、楽なハイキング道になっている。
天狗の相撲場などの岩峰を横に過ぎていくと、護摩壇への道標があるが無視して、広い登山道を進んでいくと、国司舘の平坦地の案内板が見えるが、そのまま進むと山頂広場のある霊山城跡に着いた。登山口から約1時間で着いた。隣接してトイレもある。
山頂広場のある霊山城跡。
霊山最高峰(825m)の東物見岩へは近そうで楽そうだったので行ってみることにした。
5分ほどで東物見岩の標識に着いたが、今までと違って岩場にクサリも設置されている。ここでいいのか疑問だったので、下に来た男性に、ここでいいのか尋ねたが分からないようだった。
霊山最高地点(825m)の東物見岩。
久しぶりのクサリ場だったが、クサリは使わずに3点支持で登ると数十秒で岩場の頂点台地に着いたら、霊山最高峰(825m)の東物見岩という標識があった。吾妻、安達太良連峰が見える。
さきほどの男性も登ってきたが、すぐに反対側の道を降りていった。あとから来た夫婦は登ってこずに、通過していった。多くの登山者は山頂部の周回ルートを歩いているようだ。霊山城跡から北の霊山寺跡を往復したらしい人も見かけた。バリエーションルートの多い低山である。
楽に登山口へ帰るため往路を戻ることにした。
国司舘跡。
護摩壇への入口にもなっている。
霊山の岩壁。
見下し岩から見下ろす「霊山こどもの村」。
宝寿台に近づいたと思ったら、20人ぐらいの30代前後の男女の集団がガイドから話を聞いている場所に来た。見下し岩という標識が立つ岩場で山から突き出しており、下界がよく見えそうだったので先端近くへ行って見下ろすと、駐車場を間違えた「霊山こどもの村」が見渡せた。
宝寿台下を11時5分ごろ通過して下っていくと、子供連れのファミリーが頻繁に登っていった。
11時20分ごろに登山口に帰着した。
このあと、中世伊達氏の本拠地であった梁川城跡へ向かった。