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60年代の洋楽 グレン・キャンベル ウィチタ・ラインマン

2024年06月22日 21時51分50秒 | 音楽

グレン・キャンベルGlen Campbell ウィチタ・ラインマンWichita Lineman 1968年

ローリング・ストーン誌の選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500(2010年版)では195位にランクされている。

作詞作曲はジミー・ウェッブ。オクラホマ州のウォシタ郡をドライブ中にウェッブは歌詞のインスピレーションを受けた。ただし「ウォシタ」は歌にそぐわないと判断され、カンザス州の都市のウィチタに地名が変えられた。

演奏メンバーはレッキング・クルー(スタジオミュージシャン)のメンバーが多く、ギターは、アル・ケイシー、ジェームズ・バートン、キャロル・ケイ、ベースはドン・ベイグリーで、ジム・ゴードン(ドラムズ)、アル・デ・ローリー(ピアノ)。ジミー・ウェッブがオーケストラ・アレンジを担当。中間部のベースはグレン・キャンベル。

ウェッブは夕日のなか、車を運転中に道路横の電話線の支柱の列が続くなか、柱の上に人影を見つけた。それは、孤独を示す絵画のようであった。彼は電話を持って誰かと話しているように思えた。それは、どこにでも見かけるブルーカラーの姿であった。ウェッブは孤独のなかで働く労働者の気持ちを想像していた。

グレン・キャンベルはデモを聴いた時、ホームシックにかかっていたので泣いてしまったと語っている。

始めのヴァースはF長調で、次のヴァースはD短調であるところが実際にはD長調に転調し、独特の効果をあげてている。強く緊張させた弦を使ったバイオリンが電話線を通り過ぎる風の音を作り出している。モールス信号のような音はキーボードで出している。

 

この曲のカヴァーは多い。「ジェントル・オン・マイ・マインドのカヴァーは女性が多いのに比べて、この曲は男性アーティストに人気があるようだ。

REM - Wichita Lineman - 1994

最近のロックバンドでは、R.E.M、. ストーン・テンプル・パイロッツ、ガンズ&ローゼズがカヴァーしている。

Stone Temple Pilots-Witchitalineman

Glen Campbell featuring Stone Temple Pilots at recording studio

ストーン・テンプル・パイロッツは、サンディエゴ出身のロックバンド。略称はSTP。1992年のデビューからアルバムが4作連続でミリオンセールスを達成し、オルタナティヴ・ロックバンドとして1990年代に大きな成功を収めた。

 

1960年代後半から1970年代にかけ、カントリー・ポップというジャンルで、グレン・キャンベル、ジョン・デンバー、オリビア・ニュートン・ジョンらが活躍した。

1968年か69年、日本でも比較的同時期に「ウィチタ・ラインマン」はヒットし、ラジオでよく流れた。グレン・キャンベルの深みのある低音が変わった曲調を歌いこなしている。やはり、キャンベルのバージョンが一番いい。人生の哀愁を感じさせる出来栄えだ。

 

グレン・キャンベル ジェントル・オン・マイ・マインド Gentle on My Mind」1967年

ジョン・ハートフォードが作詞作曲し1967年に発表した楽曲。グレン・キャンベルのカバー・バージョンで知られる。ハートフォードが語るところによれば、映画『ドクトル・ジバゴ』を見たあとでインスピレーションがわき30分で書き上げられたという。キャンベルのバージョンはビルボードのカントリー・チャートで30位を記録し、彼にとって最初のヒット作品となった。翌1968年7月に再発売されるとより大きな成功を収め、ビルボード・Hot 100で39位を記録した。

タミー・ワイネット(1968年)、R.E.M.(2007年)、ザ・バンド・ペリー(2014年)など多くのカバーがある。

The Band Perry - Gentle On My Mind

グレン・キャンベルGlen Campbell (1936年~2017年)は、アーカンソー州出身で、歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優として活躍した。

ヒット曲には「ジェントル・オン・マイ・マインド(Gentle on My Mind)」(1967年、68年)、「恋はフェニックス(By the Time I Get to Phoenix)」(1967年)、「ウィチタ・ラインマン(Wichita Lineman)」(1968年)、「ガルベストン(Galveston)」(1969年)、「ラインストーン・カウボーイ(Rhinestone Cowboy)」(1975年)、「サザン・ナイツ(Southern Nights)」(1975年)などがある。

グレン・キャンベルは子供のころからギターを学び、1960年にロサンゼルスに移り、レッキング・クルーとよばれたスタジオ・ミュージシャンの一員として高い評価を受けた。ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、モンキーズ、ナンシー・シナトラ、マール・ハガード、エルヴィス・プレスリー、フランク・シナトラ、フィル・スペクターらとレコーディングを行なった。 1964年から1965年にかけ、キャンベルはブライアン・ウィルソンの代役としてビーチ・ボーイズのツアー公演に参加し、彼らのアルバム『ペット・サウンズ』などのレコーディングにギター奏者として参加した。

その間、1961年からソロ活動を始め、レコードを出したがヒットには至らなかった。

1967年、プロデューサーのアル・ド・ロリーとチームを組むと、「ジェントル・オン・マイ・マインド」がヒットし、1967年の「恋はフェニックス」、1968年の「ウィチタ・ラインマン」が大ヒットした。

1968年から80年代始めまで多くのテレビ番組の司会をつとめ、人気を得た。

1975年の「ラインストーン・カウボーイ」はキャンベルにとって最大のヒットとなった。


福島県伊達市 中世伊達氏の本拠地 梁川城跡 

2024年06月22日 15時18分33秒 | 福島県

国史跡・梁川(やながわ)城跡。福島県伊達市梁川町鶴ケ岡。

2024年5月26日(日)。

伊達市南東部にある南北朝時代の山城・霊山城跡へ登城後、中世伊達氏の本拠地であった梁川城跡へ向かった。12時10分ごろ、梁川中学校の西から北へ回り込むと、曲がり角に駐車場があり、その先に梁川城跡の案内板が見えた。梁川城は「伊達氏梁川遺跡群」として国の史跡に指定されている。

西へ向かう道路の先は下り坂になっており、断崖になっていたことが分かる。

現在、梁川城の本丸跡には本丸庭園、土塁のほか復元石垣がある。

中世伊達氏の本拠として機能した伊達氏館跡の内部には、「心字の池」庭園跡が復元されている。東北地方の中世の館として内部に庭園跡が確認されているのは、現在のところ伊達氏梁川遺跡群のみであり、奥州における伊達氏の政治的立場を考える上でも貴重な遺跡といえる。

梁川城は、平山城で、梁川中心市街地の東側にある茶臼山から西北西方向に張り出した高台の上に築かれており、城下町である平地との標高差は10数mになる。梁川城の北側には曲輪や堀が築かれ、西側は段丘の急斜面、南側は広瀬川と広瀬川の浸食によって作られた断崖、そして東には金沢堀と茶臼山という天然の要害となっている。

伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって伊達政宗が転封されるまでのちの仙台藩伊達氏の本拠地だった。梁川城は、鎌倉時代の4代伊達政依(1227~ 1301年)のころから戦国時代の天文元年(1532年)に14代伊達稙宗(たねむね(1488~1565年)が桑折西山城へ移るまで、約300年にわたって伊達氏の本城だったと考えられている。

伊達氏の初代は、伊達朝宗(1129~1199年)で、下野国芳賀郡中村および常陸国伊佐の領主であった中村(伊佐)常陸入道念西と同一人物とされる。源頼朝の奥州征伐のさい、文治5年(1189年)の「厚樫(あつかし)山の合戦」で功を立て頼朝から恩賞として伊達郡を拝領して伊達郡高子岡(伊達市保原町上保原字高子)に居城し、姓を伊達に改めたと伝えられる。3代伊達義広(1185~ 1256年)は、高子岡城から梁川の粟野大館へ移ったという。

梁川城の文献上明確なものは室町時代の応永33年(1426年)以降であるが、調査で発掘された遺物の最も古いものは、3代伊達義広または4代伊達政依のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられる。

城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)の要として栄えた

大永2年(1522)に稙宗が陸奥国守護に補任されると梁川城は、南奥州における政治的中枢をになう場となった。

伊達氏の本城は、天文元年(1532年)に桑折西山城へ、天文17年(1548年)に伊達晴宗により米沢城(山形県米沢市)へ、天正17年(1589年)に伊達政宗により黒川城(のち会津若松城)に本拠を移すが、翌年には本拠を米沢に戻した。

その間も梁川城は伊達氏の城として存続し、領内の重要な拠点として使われた。伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川であった。

豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達政宗は天正19年(1591)に岩出山城(宮城県大崎市)へ、慶長8年(1603)には仙台城へと移った。梁川一帯は蒲生氏郷の領地となり、氏郷の死後、慶長3年(1598年)越後から国替えになった上杉景勝の領地になる。

梁川城には須田長義が城代として入城し、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修を加えた。本丸の物見櫓跡の石垣は穴太積で、土塁は中世に作られた池の導水路を埋めていることから、現在の梁川城の遺構はこの時代の城主(蒲生氏郷家臣の蒲生喜内か上杉景勝家臣の須田長義)により整備されたものと考えられている。

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いに連動して奥州でも合戦が行われ、徳川方の伊達政宗と石田方の上杉景勝の戦いが現在の福島盆地で行われた(10月6日の松川の戦いなど)。10月7日、伊達軍は大枝城(伊達市梁川町東大枝)に陣を布いて阿武隈川対岸の梁川城を攻めたが、梁川城の抵抗も強く、横田大学の内通も発覚したため、伊達軍は攻撃を中止した。

江戸時代以降も、伊達郡は上杉氏の領地となったため梁川城は上杉氏の城となった。上杉家は、信達(しんたつ)の両郡には郡代や奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏を置き、信夫郡の福島城、伊達郡の梁川城など両郡内の支城には、本庄氏や春日(香坂)氏、須田氏、芋川氏などを城代として統治させた。

寛文4年(1664年)、上杉景勝の孫・綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介)の子の綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、梁川城を含む伊達郡が収公され、領地は天領(幕府直轄領)となり梁川城は廃城となったが、本丸や北三の丸の櫓および城主館をふくめ、城の一部はその後も梁川藩松平氏などの陣屋として使用された。

天和3年(1683年)尾張藩2代藩主徳川光友の三男の松平義昌が入封し、3万石にて梁川藩を立藩した。梁川藩の立藩は、有力な外様である伊達家への楔となる親藩を求める幕府の思惑とも一致していた。享保14年(1729年)5月、3代・義真が卒去し、無嗣子のため廃絶となった。同年9月、尾張藩3代藩主徳川綱誠の十九男の松平通春(後の徳川宗春)に改めて3万石が与えられたものの、翌享保15年(1730年)に世継を残さないまま尾張藩主徳川継友が死亡し、通春が尾張藩を相続したため、廃藩となった。

廃藩後は宝暦5年(1755年)に会津藩(松平家)飛地、宝暦6年(1756年)に磐城平藩飛地、安永7年(1778年)に幕府領、寛政2年(1790年)に再び磐城平藩飛地、享和3年(1803年)再び幕府領となっていた。

文化4年(1807年)、蝦夷地召し上げに伴い松前藩主松前章広が9千石にて梁川藩に転封となった。この国替えは、幕府が蝦夷地を直接支配して北方警備を強化する方針をとったためとされる。

松前家は、蝦夷地においては商場知行という形で知行地を家臣に与えていたが、梁川では石高制度に切り替える必要があり、収入も家臣団を賄えないほどに激減して240名余りの家臣を除籍し、梁川に連れてくることができた家臣は111名であった。

松前家はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけ、移封から15年後の文政4年(1821年)に国替えの沙汰が下り、松前家に蝦夷地が返還されたため梁川藩は再び廃藩となった。その後、梁川は再び幕府の管理地となるが、安政2年(1855年)には松前家の飛地領となり、明治維新を迎えた

 

梁川城趾には本丸跡に2015年年3月まで梁川小学校があった。本丸を北・東・南に取り囲む二の丸のうち、東二の丸跡に浅間神社と伊達市立梁川幼稚園と伊達市立梁川中学校、南二の丸跡に福島県立梁川高等学校がある。本丸の東から二の丸の北までを取り囲む三の丸は江戸時代に陣屋などに使われたが、現在は住宅が建ち並ぶ。梁川城当時の大手門は、現在梁川小学校の裏門となっている北側(三の丸側)にある清水町からの登坂路であった。

1978年から1981年にかけて旧本丸跡である梁川小学校校庭の発掘調査を実施した。校庭の一角に中世庭園「心字の池」を復元し、校庭は埋め戻した。伊達氏が室町幕府と結びつきを強めていた時代のもので、一説によると東日本で唯一の中世庭園と言われる。

梁川小学校跡地である本丸跡には、伊達市の歴史資料館の建築を検討中である。

 

このあと、中村常陸入道念西(伊達氏初代伊達朝宗)が、源頼朝の奥州征伐のさい、文治5年(1189年)の「厚樫山の合戦」で奥州藤原氏を撃破した国見町の阿津賀志(あつかし)山防塁の現地とガイダンス施設へ向かった。

福島県伊達市 霊山(りょうぜん)・霊山城跡


帯広市 六花亭帯広本店 マルセイバターサンド 帯広百年記念館①晩成社と依田勉三

2024年06月22日 09時55分49秒 | 北海道

六花亭帯広本店。駐車場側。帯広市西2条南9丁目。

2022年6月11日(土)。

6月10日は、新ひだか町のシャクシャイン像、浦幌町のオタフンベチャシ、浦幌町立博物館を見学し、道の駅「十勝川温泉」で車中泊。帯広見学のメインは土曜初日の「ばんえい十勝」だが14時から開催なので後回し。混みそうな六花亭帯広本店が9時開店なので最初の見学地とした。その後、帯広百年記念館、帯広畜産大学食堂、埋蔵文化財センターと回った。

帯広は1999年ごろ100名山のトムラウシ登頂のさい訪れて、神田日勝美術館を見てから六花亭帯広本店を訪れた。北海道土産は80年代は「白い恋人」だったが、90年代には「マルセイバターサンド」、「ロイスチョコレート」に変わり、北海道登山土産では必ず購入していた「マルセイバターサンド」の本店が帯広だと知ったので、本店の様子を見に来たのだった。

なので、20数年ぶりの再訪となるが、そのときの店とは印象が違っていた。前回は支店だったのかもしれない。

ナビで特定し、近くまで来たが、駐車場前は一方通行という情報があり、どの交差点から進入するのか特定するために北側アーケードゲーム通りを歩いたりしながら確認に手間取った。8時45分ごろには駐車できたが、ほかに車はいなかった。店内を覗くと掃除中だった。9時になるまでに数組が入店待ちをしていた。

9時に店内に入ったが、小雨の中を歩いたりしたので、先に2階のトイレへ行くと、掃除中の女性がいて、2階の喫茶店は11時からですので、と言われたが、ネットで多くの口コミを読んでいたので知っていた。11時まで待つ時間はなく、最初から1階のイートインで充分だと思っていた。

1階の売店に戻り、六花亭帯広本店など北海道の限られた店でしか買えない洋菓子を中心にチョイスした。

「サクサクパイ」。200円。「サクサクのパイに生カスタードを絞り込みました」。

時間が経つとパイがクリームの水分を吸ってサクサク感がなくなってしまうため、賞味期限はわずか3時間という超レアな商品という。

コロネのようなぐるぐる巻きの細長いパイの中に、絞りたてのカスタードクリームがみっちりと詰まっていて、名前のとおりサックサクのパイをかじると、口の中でパイのサックリ感とクリームのしっとり感が入り交じり、やさしい甘みに包まれる。

「マルセイアイスサンド」。230円。マルセイバターサンドのアイス版。

マルセイバターサンド」と同様に、バターとホワイトチョコレート、レーズンで作ったアイスで、2015年から登場した。正方形のひと口サイズのアイス2つを3枚のビスケットでサンドした状態が1個。

ビスケットは「マルセイバターサンド」よりも薄く、軽やかな食感。アイスはバターのコクと風味が際立つ。バタークリームだからかアイスとはいえすぐに溶けない。

「フレーズ」。300円。「イチゴジャムで色鮮やかに仕上げたイチゴのムースです」。

イートイン。コーヒーは無料。

広々した店内には、さまざまな洋菓子や和菓子が並んでいて驚いた。菓子箱入りのものもあれば、1個単位でばら売りをしている商品も多く、好みの商品をチョイスして箱詰めにもして購入する子供連れの常連客も多くいた。

「マルセイバターサンド」のレトロなデザイン。

六花亭の開業は1933(昭和8)年で、当時は帯広千秋庵(おびひろせんしゅうあん)という屋号であったが、1977(昭和52)年に六花亭と改名した。改名を記念して登場した洋菓子が、「マルセイバターサンド」である。

北海道産生乳100%のバターをたっぷり使い、ホワイトチョコレートとレーズンをあわせたクリームを、ビスケットでサンド。しっとりとしてコクがあるクリームの味わいと、時間が経ってもサクサクっとした食感のビスケットが特徴である。

ちなみに、マルセイとは「◯」の中に「成」の字を入れたもの十勝地方の開拓の祖、依田勉三(よだべんぞう)が興した晩成社(ばんせいしゃ)の依田牧場が十勝地方で初めて商品化した作ったバター「マルセイバタ」に由来している。

マルセイバターサンドの包装は 発売当時のマルセイバターのラベルを復刻・再デザインしているため、レトロな外観となっている。

六花亭帯広本店。表入口。大通側。

内部の廊下はアートスペースのような雰囲気である。

「六花亭製菓」は、1860年(万延元年)に秋田県出身の藩士・佐々木吉兵衛が箱館(現在の函館市)で創業した現在の「千秋庵総本家」が発祥となっている。その後、明治から昭和にかけてのれん分けする形で、北海道内各地で「千秋庵」が誕生していった。

1894年(明治27年)に「小樽千秋庵」が創業すると、1921年(大正10年)に小樽千秋庵から独立して「札幌千秋庵」が創業した。そして、1933年(昭和8年)に札幌千秋庵の創業者・岡部式二の弟である岡部勇吉が独立し、帯広に「札幌千秋庵帯広支店(帯広千秋庵)」を創業し、1937年(昭和12年)に経営を甥の小田豊四郎が引き継いだ

十勝では豆やビートといった原材料に恵まれていたことから、すでに「伊豆屋高野三郎」(後のイズヤパン、現在の札幌パリ)、「露月」などの同業他社が多くて経営は苦戦していたが、1939年(昭和4年)頃には砂糖の大量購入が功を奏し、「価格等統制令」で砂糖が不足した他社を凌いで地域一番店になった。

1943年(昭和18年)に小田豊四郎が戦地に招集されると店舗は「偕行社」の売店となり、工場疎開によって休業を余儀なくされた。1946年(昭和21年)に小田豊四郎が帰還すると店を再開し、「カボチャ饅頭」などの製造を開始した。

1952年(昭和27年)には帯広市からの依頼によって『帯広開基70周年記念式典』用の最中「ひとつ鍋」を開発し、初のオリジナルヒット商品となった。

以後は和菓子を中心に製造・販売していたが、次第に酪農を生かした洋菓子を開発するようになり、1963年(昭和38年)にはマドレーヌの「大平原」が誕生した。

1967年(昭和42年)、小田豊四郎がヨーロッパへ視察研修に行った際、視察先の菓子店でチョコレートが主力商品となっていることを目の当たりにし、「日本でもチョコレートの時代が来る」と感じた小田豊四郎は翌年からチョコレートの製造を始めた。白いチョコレートの製法を聞くと「北海道の雪のイメージにも合う」ということで試行錯誤を重ねて、日本国内初となる「ホワイトチョコレート」が誕生した。

国鉄による「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンによって広尾線(現在は廃線)愛国駅から幸福駅への切符が「愛の国から幸福へ」としてブームになると、ホワイトチョコレートは帯広を訪れた通称「カニ族」とよばれた若者達などから口コミで全国的に知られるようになった

他社でもホワイトチョコレートを販売するようになると商圏を札幌圏など北海道内に拡大して展開しようとしたが、すでに「千秋庵製菓」(札幌千秋庵)などが店舗を構えていることなどから活動は狭められた。そこで、1977年(昭和52年)に「千秋庵」の暖簾を返上し、「六花亭製菓」と改名した。

六花亭帯広本店。表入口。大通側。美術館のコーナーのような景観をしている。

1977年、「六花亭」への改名記念で発売したのが「マルセイバターサンド」であり、これが大ヒット商品となり販売網を拡大していった。1978年(昭和53年)には「帯広工業団地」に工場を建設した。1987年(昭和62年)には中札内村の柏林約30haを取得し、製菓工場を中心に地域文化を醸成する「地域開発計画」を企画・立案した。このプロジェクトは、「坂本直行記念館」開館を皮切りに敷地内に美術館やレストランなどが点在している「中札内美術村」、マルセイバターサンドの製造工場「六花亭中札内ファクトリーパーク」とその周辺をランドスケープした「六花の森」となって地域に根づいている。

2015年(平成27年)には札幌市に「六花亭札幌本店ビル」が開業し、店舗やギャラリー「柏」、ホール「ふきのとうホール」があるほか、テナントとして「ヤマハミュージック札幌店」などが入居している。

 

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

9時40分ごろに六花亭帯広本店を出て、5分ほどで帯広百年記念館の駐車場に着いた。

歴史系の展示室を出口から入ったため、最初に目に留まったのが晩成社と依田勉三のコーナーで、ここで初めて「マルセイバターサンド」のパッケージデザインの由来が晩成社であることを知り、明治時代風の意匠が理解できた。

帯広百年記念館は、依田勉三率いる晩成社一行が帯広に入植した1883年(明治16年)から100年目となる1982年(昭和57年)に緑ヶ丘公園に開館した。十勝の歴史・産業・自然を紹介する総合博物館である。

 

帯広の開拓は1883年(明治16年)5月、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社一行が入植して始まった。帯広の開拓は晩成社はじめ、富山・岐阜など本州からの民間開拓移民によって進められたが、1903年(明治36年)の帯広監獄の設置に伴って急速に市街地が形成された。

依田勉三。明治16年、帯広開拓出発にあたり、乞食姿にふん装し決意を示した。

みの笠姿の勉三。大正5年途別水田造成の頃。

依田勉三(1853~1925年)。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した晩成社は失敗に終わるが、開田事業は成功して、十勝開拓の父と呼ばれた。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。

依田家は伊豆国那賀郡大沢村(現:静岡県松崎町)の豪農で、勉三は善右衛門の三男として生まれた。12歳で母が、後を追うように14歳のときに父が死去し兄の佐二平が後を継ぐ。兄とともに伊豆の松崎町にある土屋三余の私塾「三余塾」に学ぶ。

19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840年 - 1901年)の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、当時の新知識を吸収。福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。

明治12年(1879年)に兄・佐二平が提唱した洋学校に渡辺を招き教頭とし1月15日に私立豆陽学校として開校した。この学校は後に静岡県立下田北高等学校となる。

明治12年(1879年)4月に従妹のリクと結婚し、この頃北海道開拓の志を固めた。

明治14年(1881年)に、晩成社の代表発起人として単身北海道に渡る。8月17日に北海道に渡った勉三は釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につく。

明治15年(1882年)には郷里の静岡で佐二平・園・善吾と勉三を発起人に、晩成社を設立し資本金を5万円とした。政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようというのである。

いとこの依田善六が初代社長で、勉三はその副社長となった。社名は〝大器晩成〟にちなんだもので、たとえ長い年月がかかろうとも、かならず成功させるぞ-と兄弟の意気込みがうかがわれる。

7月16日に十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め鈴木銃太郎と鈴木親長は帯広に残り勉三は帰国した。その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。静岡では渡辺勝が移民の募集を始めた。

明治16年(1883年)4月に13戸27人が集まり横浜を出港し、4月14日、函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月14日に帯広に到着した。

晩成社の一同。1883年。

明治16年(1883年)、帯広に入った一行をまず鹿猟の野火が襲い、次にイナゴの大群が襲った。食糧としてアワを蒔き付けするも天候の不順やウサギ・ネズミ・鳥の被害に遭い殆ど収穫できなかった。

明治17年(1884年)もまた、天候が優れず開墾は遅々として進まず、開拓団の間に絶望が広まっていた。勉三は米一年分を大津(現在の豊頃町)に貯蔵したが帯広への輸送が困難な状況であった。食糧不足を打開するため、当縁郡当縁村生花苗(とうべりぐんとうべりむらおいかまない、現在の広尾郡大樹町)に主畜農業を経営する

明治18年(1885年)には農馬を導入し羊・豚を飼育しハム製造を目指した。馬鈴薯澱粉を研究し、農耕の機械化を試みるが何れも上手く行かず、当初の移民は3戸にまで減少した。

明治25年(1892年)頃には状況が漸く好転し食糧は足り、小豆・大豆の収穫も目処がつくようになった。

明治25年(1892年)11月の佐二平・勉三兄弟の叙勲から奮起し晩成社の事業を拡大した。会社組織を合資会社とし社名を晩成合資会社と改める。函館に牛肉店を開業し当別村に畜産会社を作る。帯広には木工場を作り然別村(しかりべつむら 現在の音更町)に牧場を開いた。

明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到した。

明治35年(1902年)にはバター工場を創業。他にも缶詰工場・練乳工場等もあった。三と晩成社が手掛けた事業は何れも現在の十勝・帯広に根付く産業となったが当時晩成社の経営は上手く行かなかった。

大正5年(1916年)に売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却する事によって晩成社の活動は事実上休止する。

大正14年(1925年)には勉三が中風症に倒れ、9月には勉三の看病をしていた妻が亡くなり、12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目の自宅で息を引き取った。享年73。勉三は、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐したという。

勉三の死後昭和7年(1932年)に晩成合資会社は解散し、翌年の昭和8年(1933年)帯広は北海道で7番目に市制を施行した。

開拓初期は生活が極端に苦しく、客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。幹事の渡辺勝が「おちぶれた極度か豚とひとつ鍋」(豚と同じ鍋の食事をする)と惨めな生活を嘆いたとき、勉三は毅然として「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだと言われる。現在、このエピソードをモチーフにした鍋型のもなか・「ひとつ鍋」が製菓会社の六花亭から発売されている。

帯広市の豚丼発祥のヒストリー依田勉三率いる晩成社が、豚4頭を連れて入植したのが帯広での養豚の始まりである。大正末期には豚肉料理が一般的になりつつあったが、庶民が食べられる豚肉料理は少なく、貴重なものであった。豚丼がはじめて登場したのは昭和8年。庶民にも食べられる料理ということで、うな丼をヒントに甘辛いタレを絡めて焼いた豚丼をつくった。今では帯広の郷土料理となっている。

帯広百年記念館は、晩成社が使用した「マルセイバタ」ラベルを76枚所蔵している。このラベルがもとになり、六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」包紙のデザインが生まれた。

しかし、ラベルだけが残り「マルセイバタ」の商品の姿形は不明であるが、1ポンド(453.59g)缶であったことが、依田勉三の日記に記されていた。残されたラベルは縦5.8m、横31.4cmの長さなので、それを基にバター缶を記念館で再現した。

「マルセイバタ」はいつ頃から作られるようになったのか。明治34(1901)年ころの依田勉三の日記を見ると、彼が乳業に興味を寄せていることがわかる。2月には人を雇って搾乳人の研修を積ませ、9月〜10月ころには函館でバターを購入、搾乳機の見学をしている。

『晩成社営業報告』によれば、明治37(1904)年には、バター製造のための器具を用意、翌38年にはバターの製造技師を雇い生産をスタートさせた。販売を始めたのは39年で、収入金602円弱を得たとある。

明治末ころから製造・販売を本格化し、遠くは東京上野まで運ばれ、様々な食料雑貨と相並んで、いわゆる「ハイカラ」な商店で売られていた。

明治期の依田家の実家当主は勉三の兄である佐二平で、第一回衆議院議員に選出されたほか、養蚕業や海運業に携わり、産業組合の要職を歴任した人物である。佐二平の政財界における人脈は、十勝のバターを富裕層に売り込む際に重要であった。

また東京在住の弟善吾とよく連絡を取り、販売戦略を練ってバター販売を行なっていたようである。

晩成社のバター販売は、大正7(1918)年を最後に停止された。『晩成社営業報告書』によれば、人手不足に加え人件費の高騰があり、かつ飼料の暴騰も起こり、バター製造の採算性が取れなくなったという。第一次世界大戦により工業生産の需要が高まり、労働者が工場のある都市部に集中し始め、穀物をはじめとして諸物価が何倍もの値に高騰した。大正7年は、そんな大戦景気のまっただ中で、都市から遠い十勝生花苗において飼料で牛を育てバターを生産していた晩成社は、逆に大戦景気のあおりを受けて、バター製造を止めてしまったようだ。

北海道浦幌町 国史跡・オタフンベチャシ跡 浦幌町立博物館 十勝太若月遺跡


「#萩生田百合子」がSNSで猛拡散!外苑再開発めぐるズブズブ癒着と利権が都知事選の一大争点に

2024年06月22日 07時57分40秒 | 社会

「#萩生田百合子」がSNSで猛拡散!外苑再開発めぐるズブズブ癒着と利権が都知事選の一大争点に2024/06/19 日刊ゲンダイ

「ハギウダユリコ」を喧伝する金子勝の言いたい放題。都知事は今まで何をしてきたのか。東京の緑地や水辺の大開発は、本来の都市計画とは無縁の巨大デベロッパーと政治家の影が交錯する利権の温床に。都庁OBはディベロッパーに天下り、その場その場の人気稼ぎに小池は小細工をする。8年前は、築地移転を「立ち止まり」、今度は神宮の森の伐採を立ち止まる。しかし、選挙が終われば、言葉は軽く忘れ去られる。その腹立たしい構図に吼えます。

金子勝@masaru_kaneko

萩生田百合子】東京都都市整備局を含め三井不動産関係2社に14名の天下り晴海フラッグ、外苑再開発、築地、日比谷公園など大型開発で完全に癒着している。晴海フラッグは都有地払い下げの「都政の森友問題」だ。実は、外苑再開発には萩生田と森喜郎もプッシュだ。

【萩生田百合子のブラックボックス】デモクラシータイムスの「金子勝の言いたい放題」で都知事選問題をアップした。コイケは大手不動産会社との癒着、かつて批判した自民党都連は裏金ハギウダが会長。ともにブラックボックスになって連携する。それが都知事選最大の争点だ。

#萩生田百合子」──。「立憲共産党」よりもインパクト大のパワーワードが連日のトレンド入りだ。東京都知事選(7月7日投開票)の告示まで、あと1日。ステルス支援で政党色を薄めても、現職の小池百合子知事のバックには自民党、ひいては裏金2728万円の萩生田光一都連会長が控える。SNSでは〈小池を選ぶと、もれなく萩生田が付いてきます!〉などとハッシュタグ運動が吹き荒れ、倒錯タッグの是非が争点に浮上してきた。

  ◇  ◇  ◇

 よほど学歴詐称疑惑を追及するフリー記者を「排除」したいのか、小池知事は18日午前、異例のオンライン会見で公約を発表。「保育料無償化の拡大」「無痛分娩への助成」など出産・子育て支援の「チルドレンファースト」を掲げた。

 一方、蓮舫参院議員も同じ日に公約発表をブツけた。少子化対策は「貧困家庭の支援拡充」を強調するなど小池知事とは対照的で「7つの約束」を打ち出した。8年前の初当選時に小池知事が公約に掲げ、ほぼ達成ゼロの「7つのゼロ」を意識したもので、大量の樹木伐採が批判を浴びる明治神宮外苑再開発については「立ち止まる」と明記した。

 故・坂本龍一さんら著名人や専門家から反対の声が広がる外苑再開発こそ小池・自民接近の象徴であり、「萩生田百合子」の最大の弱み。その見直しは古い癒着・利権政治に切り込む「一丁目一番地」となる。

 追い風も吹いている。しんぶん赤旗は15日、外苑再開発を担う三井不動産のグループ2社に、都庁幹部OB14人が天下りしていると1面で報道。うち8人が再開発事業を所管する都市整備局出身で、局長級は「特任参与」、部課長級は「参与」「参事」などの役職で厚遇されているという。

 三井不動産Gは東京五輪を呼び水に、外苑再開発や選手村(現・晴海フラッグ)の整備を主導都は広大な都有地を近隣地価の9割引きで叩き売り晴海フラッグは今や投機マンションと化す。いわくつきの売買契約を締結したのは、就任直後の小池知事だった。

 ほかにも三井不動産は築地市場跡地や日比谷公園など都心の大型再開発プロジェクトを相次いで受注。いずれも小池肝いり事業で「東京大改革」ならぬ「東京大開発」で大いに潤う利害関係企業に、所管部局の元幹部が天下り。小池都政8年で癒着の横行は加速した。

天敵の森元首相まで連なる「ブラックボックス」

 小池知事は外苑再開発に反対する都民・国民の声には聞く耳なし。逆に「ネガティブキャンペーン、プロパガンダ」だと非難したこともある。萩生田氏も暗躍し、落選中の2012年に都市整備局幹部と面会。都の内部文書には「森元首相から『調整してくれ』と言われている」「いまの機会しかここの整備はできない」と森元首相の手先となり、外苑再開発を猛プッシュした会談記録が残されている。

「萩生田百合子」の先には森元首相の姿も浮かび上がる。外苑再開発の利権を巡り、小池知事は間接的に天敵同士の森元首相と手を握ったも同然だ。

 

「萩生田百合子」の名付け親である淑徳大大学院客員教授の金子勝氏(財政学)が言う。

「大手メディアは、小池知事が自民の抱きつきに困惑しているように報じますが、実情は一心同体。利害関係は完全に一致しています。8年前に小池知事は自民党都連を『ブラックボックス』と批判しましたが、旧統一教会とはズブズブ、裏金問題で役職停止中なのに都連会長の継続を許された萩生田氏こそ『歩くブラックボックス』です。『萩生田百合子』の利権構造こそが、都知事選の一大争点です」

 

 小池知事は「AIゆりこ」の相方に「AIこういち」を出演させるべきだ。