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平取町立二風谷アイヌ文化博物館③着る 鹿皮衣 鹿皮靴 鮭皮靴 樹皮衣 木綿衣

2024年06月07日 14時59分19秒 | 北海道

平取町立二風谷アイヌ文化博物館。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

着る

アイヌの人々は、動物の毛皮や魚皮、樹皮、草の繊維で衣服を作りました。古くは動物の毛皮を使った「獣皮衣」を身に着けていたと考えられますが、次第に樹皮や草などの植物繊維を用いた「樹皮衣」「草衣」と呼ばれる衣服が主流となり、江戸時代になると、「木綿衣」が「樹皮衣」とともに一般的となりました。

獣皮衣は、クマやシカ、イヌなど陸の動物や、アザラシやラッコなどの海の動物の毛皮から作られ、冬期間や狩猟の際に用いられました。魚皮衣は、サケやマス、イトウなど比較的大型の川魚の皮を用いた衣服で、主にサハリン(樺太)アイヌが用いました。

ユクウル yuk-ur. 和名:鹿の皮で作った衣

サイズ(mm)縦1080、横920。材料・材質:防寒着/獣皮衣/男。製作者:萱野茂・萱野れい子。収集(製作)時期:1972/昭和47年。

説明1(使用場所・方法)。狩りに行くときなどに着る、防寒着

▼「古い時代には、鹿などの動物の毛皮をいろいろな方法で柔らかくなめして日常着を作っていたものと思われます。後に紹介するモウル(女の肌着)の古いものやユクウル(鹿皮衣)、セタウル(犬皮衣)などの実用着はその時代の衣類の名残りなのでしょう。

▼「鹿の毛皮は大変あたたかく、丈夫で汚れないものですから、重宝な作業着であったでしょうが、とくに寒い季節の防寒着として大切なものであったと思われます。山の中で冷雨にあっても、背中さえ濡らさなければ動けるものです。しかし、山へ狩りに行く場合には、このユクウルを身につけて行くと鹿と間違われて射たれる恐れがあるので、セタウルといって犬の毛皮で作ったものを着ていきました。

説明2(製作方法):材質は鹿の皮。裏地木綿布、付け紐あり。

▼「シカ毛皮、木綿紐」▼「チョッキのようにていねいに縫いあわせたものも中にはありますが、一般に多く用いられたのは、首のところをくり取り、鹿の前足のつけ根の部分を肩にかけて、そこに紐をつけます。そして、その紐と脇の下につけた紐とを結びあわせるだけで、手軽に身につけられるように作ってありました。

▼「中くらいの鹿の毛皮を柔らかくもんで、チョッキがわりに着るものがユクウルです。これは毛皮のまま使うので、脂っ気をぬきあま皮をこすりとるだけです。

ユクケリ yuk-keri 和名:鹿の皮で作った靴。

サイズ(mm)長235 幅105 高170。材料・材質:履物/獣皮製。製作者       萱野茂。収集(製作)時期:1972/昭和47年。収集(製作)地域:二風谷。

説明1(使用場所・方法)「ユクケリは鹿の脛の毛皮で作った足首までの深さの靴で、アイヌはこのユクケリをいちばん多くはきました。

「こうすると、雪の斜面を登るとき、雪に毛がささって滑り止めの役目をするわけです。逆に下り坂になると、危ないくらい滑ります。その滑る特徴を利用し、エキムネクワという山杖でうまく梶をとって滑りおり、先まわりして獲物を待ち伏せすることもできました。このことをクワエチャラセ(杖滑り)といいますが、このユクケリもある意味では狩猟用具といえるかもしれません。

説明2(製作方法):本当に良いシカの脛皮だけで作ってある。鹿の皮は弟の留治がとってきたものか。

▼「上等のユクケリ一足作るためには、鹿二頭分の毛皮が必要でした。というのは、鹿の毛皮のどの部分でもよいというのではなく、毛が短くしかも皮が厚い脛の毛皮だけを用いて作るためです。底は前足の皮を使いますが、毛の方を外に出し、その毛先がうしろを向くように作ってあります。

▼「ユクケリの作り方は、脂やあま皮をこそぎとって干してあった前足の脛の毛皮をぬるま湯にさっと漬けて柔らかくして、毛を下側に、毛先をうしろ向きにして置きます。

その上に足をのせ、つま先を甲の上に折りかえし、かかとの部分はたてにつまんで縫い、靴底を作ります。次に、かかとのところから足のくるぶしの上までくるくらいの長さに皮を切って足首のうしろから前に回し、もう一枚の皮を毛先をつま先に向けて甲に当て、それぞれ靴底の皮をおおうようにして縫いあわせます。足首の部分は広くあけ、全体的にゆったりと作ります。

そして保温と汗とりのためにケロムンという草を入れてはき、つるうめもどきの皮で編んだ縄で足首をしばります。この靴紐のことをケラッといいますが、つるうめもどきの皮でなった縄はどんな寒中でも凍りついてほどけなくなったりすることがないので、ケラッは必ずといってよいほどつるうめもどきを使いました。

なお、毛皮を縫いあわせる糸は、昔はスンチ(腱)やつるうめもどきの皮を細く裂いてよった丈夫な糸を使い、ルウェケムという太い皮針でひと針ひと針かがるようにして縫っていきます。

チェプケリcep-keri 和名:鮭皮で作った靴。

サイズ(mm)長280 幅106 高213。材料・材質:履物/魚皮製。製作者    萱野茂。収集(製作)時期1977/昭和52年。収集(製作)地域:二風谷。

説明1(使用場所・方法)。「チェプケレというのは、「チ=我ら、エプ=食うもの、ケリ=靴」、つまり魚=鮭の皮で作った足首の上までの靴です。

▼「チェプケレは滑りやすい靴でした。それに冬はこれでは足が冷たいので、鹿皮の靴の方を多くはいたということです。先人たちの話を聞くと、このチェプケレをはいたままいろりのそばで足をあぶったりすると、皮が焼けてすぐに穴が開いたりしたものだということです。

説明2(製作方法)。「サケ皮、ツルウメモドキ樹皮糸

▼「大人の靴一足作るには、鮭四本分の皮が必要です。産卵前のものより産卵後のオイシル(ほっちやり)と呼ばれる鮭の皮の方が厚くて長持ちし、秋に一足作っておくと、大切にはけばひと冬は越せたそうです。

作り方は、はぎ取った皮を水できれいに洗って、壁などにかけて四、五日のあいだ干し、いったん完全に乾燥させます。それを靴に作るときぬるま湯につけて柔らかくして使います

まず、背びれの部分が靴の底になるようにして床の上に広げます。やはり尾びれの方がうしろです。その上に足をのせ、つま先の方から順々に足に合わせて折り曲げてゆき、足の甲にかぶせます。

かかとの方は丸みをつけながら足首のうしろへ立ちあげ、甲には別の皮を上からおおいかぶせるようにしてのせます。のせた皮の余分な部分を切りとり、形を整えてから縫いあわせます。

これも皮針とつるうめもどきの糸を使い、脱いだりはいたりしやすいように足の両側の前半分だけをはぎ合わせておきました。

ケロムンを敷いて足を入れ、かかとのうしろの皮を立て、足首をケラッでしばってはくのです。

樹皮衣は、アイヌの人々の代表的な衣服で、山野に自生するオヒョウやシナ、ハルニレという木の内皮(靱皮)を素材としています。北海道のアイヌの人々は「アットゥシ」、サハリンでは「カーアハルシ」といいます。

アットゥシには、文様のない日常着・労働着と文様をほどこした晴れ着の2つがあります。アットゥシの文様は、木綿布で襟、襟下、袖口、裾と、それらに隣接した部分、背面上部などにほどこされますが、木綿衣のように衣服全体にほどこされることはありません。アットゥシは、水をはじいたり、水に浮くことから、江戸時代、和人の船乗りたちも着用していました。

江戸時代の後半から木綿布が入手しやすくなり、アイヌの人々の晴れ着の主流は木綿衣となりましたが、アットゥシも晴れ着のひとつとして、現代に伝えられています。

木綿衣は、江戸時代、木綿が入手しやすくなってから盛んにつくられるようになりました。独特の文様をほどこしたものは晴れ着として、儀礼のときなどに着用されました。木綿衣には地域性があり、名称・文様の構図とともに、大きく「ルウンペ」「チカラカラペ」「チンジリ」「カパラミプ」の4つに分けられます。「ルウンペ」は、木綿の生地に細い白布や色布を切り伏せ(アップリケのように縫い付けることです)して、さらにその上に糸で刺繍をほどこした衣服で、主に北海道太平洋沿岸の噴火湾から室蘭、白老にかけてつくられました。古いものでは、イラクサでつくった糸を使用しているものもあります。

「チカラカラペ」は、木綿の生地に黒や紺の布を切り伏せして、その上に糸で刺繍をほどこしています。大きな特徴は、白布がほとんど使われないことです。また、男性用には、本州から入ってきた着物をそのまま生地として、その上に切り伏せをほどこしているものもあります。

イテセニ itese-ni 和名       ござ編み機

サイズ(mm)    幅1304 高540 網み幅1255 材料・材質   ござ・袋編み機/木製/編みかけ

製作者   萱野茂・萱野れい子 収集(製作)時期   未確認

  説明1(使用場所・方法)  イナウソ(模様つきのゴザ)を編む為の台、道具イテセは編む、は木。▼「イテセニというのはトマ(ござ)やサラニプ(背負い袋)を編むときに使う道具で、厚さ約一・五センチ、幅六センチくらいの長い板に、V字型の刻み目を等間隔に入れただけのものです。これをイテセニチキリ(編み機の足)と呼ぶ三股の足に固定させ、刻み目の一つ一つにピッという錘り石二つに半分ずつ分けて巻いたイテセカ(編み糸)をかけ、その上にシキナ(がま草)やチポプテニペシ(木灰で煮たしなの木の皮)、あるいはかやを当てがって、一つ一つのピッを前後に振りかえてそれにからませながら、トマやサラニプやすだれを編むのです。

説明2(製作方法) 「足はクルミ、板はトドマツ」▼ピッはどこからも出土するが、昔のピッは現在のものよりも少し大きい。電池(単一)の重さが、昔のピッとほぼ同じ重さなので、電池を代用している人もいる。編むものにもよるが、重い方がしっかりしたものができる。

 


福島県いわき市 勿来関(なこそのせき)跡

2024年06月07日 08時42分37秒 | 福島県

勿来関(なこそのせき)跡。福島県いわき市勿来町関田長沢。

2024年5月24日(金)。

2024年5月24日(金)から6月1日(土)までの9日間、福島県の史跡見学を中心に車中泊旅行した。福島県は会津若松を中心に1980年代初めから喜多方ラーメン、野口英世記念館、天鏡閣、会津若松城などを観光し、90年代後半には安達太良山、磐梯山、飯豊山に登頂している。浜通りはいわき市の駅前温泉に入浴し、中通りでは三春の滝桜を鑑賞した。

山川出版社の「福島県の歴史・歴史散歩」を読んで目的地を選定したが、かなり絞り込んだ。4月中旬に名古屋市の中日ビルにある福島県の観光事務所を訪ね、プロット用の全県地図や各地のパンフレットを入手した。そのときに、福島の「まつり」で一番有名な相馬野馬追が5月下旬に開催されると知った。相馬野馬追はニュース映像で見ているので、さほど興味はない。かえって交通が混雑して避けたいぐらいだったが、本番前日の競馬を鑑賞することができて満足した。なお、会津西部は山形県への旅行時に見学することにした。

ルートは、浜通りをいわき市から新地町まで約2日で北上、5月26日(日)に中通り方面へ向かい、途中の「まきばのジャージー本店」でソフトクリームを食べたあと霊山城跡へ登って梁川城跡から国見町へ、中通りを郡山市まで南下。博物館は月曜日休みが多いが、福島市の施設は火曜休みが多いことを利用。郡山市から会津へ入り周遊、大内宿から中通りの須賀川市へ戻り、白河市から栃木県へ抜けることにした。

車中泊旅行で大事な要素は就寝時の最低温度だ。5月下旬の気象データを参照していたが、実際には低く、相馬と会津で10度前後のときが2夜あり、セーター2枚着用のうえ、会津のときは登山用ザックに常備していた使い捨てカイロを使用した。

基本的な費用であるガソリン代は、17,944円、2069㎞走行、111.08ℓであった。高速道路不使用、ホテル不使用。障害者免除割引制度を利用して、観光食事費用は1万円程度。例えば、いわき市の「アクアマリンふくしま」1850円は無料。福島市の市営公共浴場「飯坂温泉鯖湖湯」「高湯」「土湯」、郡山市「ユラックス磐梯熱海温泉」、須賀川市の公共温泉は無料だった。

日程は、5月23日(木)早朝に名古屋市守山区の自宅を出発して、茨城県常陸太田市の道の駅まで。6月2日(日)は午前中、栃木県下野市の栃木県埋蔵文化財センターと下野風土記の丘・下野国分寺跡・国分尼寺跡を見学して、道の駅「八王子」へ。6月3日(月)は横浜市旭区の兄宅へ寄って、11時に出て、津久井湖・相模湖・国道20号線・権兵衛峠トンネルから国道19号線経由で20時過ぎに帰宅した。

5月23日(木)6時40分に名古屋市守山区の自宅を出発して、茨城県常陸太田市の道の駅に18時30分ごろ到着した。途中、長野県岡谷市の新和田トンネル有料道路が2022年4月から無料開放されたことを知らずにナビ通りに山間部へ迂回。軽井沢から碓氷峠へ入ったら遅い車に遭遇。安中・高崎を通過。

5月24日(金)常陸太田市の道の駅を早朝に出て、勿来関(なこそのせき)および9時開館のいわき市勿来関文学歴史館を目指した。途中、日立市内の国道6号線は渋滞していた。

いわき市へ入ってまもなく、勿来関への道標にしたがい、国道6号線から山側に入り、JR線をくぐって坂道を上ると8時45分ごろに勿来関文学歴史館手前の駐車場に着いた。時間があったので、道路を数百mほど先に進むと、勿来の関跡を象徴する源義家の銅像がある坂道入口地点に着き、手前にある駐車スペースに駐車した。銅像の横には関跡を示す石碑と関門が立つ。

勿来の関(なこそのせき)跡は、太平洋が広がる勿来海岸に沿って走る国道6号の西側、標高130mの小高い山にある。勿来関は、古代から歌枕となっている関所の1つで、白河関(福島県白河市)、鼠ヶ関(念珠ヶ関。山形県温海町)とともに「奥州三関」に数えられている。

平安時代以前は菊多剗(菊多関、きくたのせき)とよばれていたとされる。『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)巻第一』(835年)の記に「白河・菊多両剗が置かれてから、四百余歳」とあり、4世紀から5世紀ごろにかけて蝦夷の南下侵入を防ぐための関門として設置されたと伝える。また、日本書紀の655年の記に柵作りをした東蝦夷九人等に冠二階級を授けた旨があるので、奈良時代の頃に設けられたとする。

ただし、実際にあった関跡は判然としない。

その後、菊多関の名は歴史史料から消え,かわって歌枕として勿来関の名が登場し、勿来の関が『来る勿(なか)れ』の意味で文学上に表現されていき、源義家が詠んだ「吹く風をなこその関とおもへども道もせにちる山桜かな」の和歌に代表される歌枕の地として全国に知られていった。

源義家「ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまざくらかな」

千載和歌集』の詞書には「みちのくににまかりけるときなこそのせきにてはなのちりければよめる」とある。

源義家が陸奥に赴いたのは生涯において3度ある。1度目は1056年(天喜4年)8月から翌年11月までの期間に前九年合戦に際して、2度目は1070年(延久2年)8月の下野守在任中に陸奥国への援軍として、3度目は1083年(永保3年)9月に自身が陸奥守兼鎮守府将軍として、である。

関の門から同文学歴史館に至る石畳の小道は「詩歌の小径(こみち)」として、小野小町、和泉式部らの句碑や歌碑が立ち、文学散歩を楽しむこともできる。

小野小町:みるめかる あまのゆききの みなとちに なこそのせきも わかすゑなくに(新勅撰和歌集)

和泉式部なこそとは たれかはいひし いはねとも こころにすうる せきとこそみれ(玉葉和歌集)

右大将道綱母:こえわふる あふさかよりも おとにきく なこそはかたき せきとしらなむ(新千載和歌集)

紀貫之:をしめとも とまりもあへす ゆくはるを なこそのやまの せきもとめなむ(夫木和歌抄)

西行法師:あつまちや しのふのさとに やすらひて なこそのせきを こえそわつらふ(新勅撰和歌集)

しばらく「詩歌の小径(こみち)」を散策したのち、勿来関文学歴史館を見学したが、見るべきものは少なかった。

このあと、いわき市考古資料館へ向かった。