<2017年ごろに、「出雲と大和」(村井康彦、2013年、岩波新書)を読んだ。
「大和の中心の三輪山になぜ出雲の神様が祭られているのか? それは出雲が大和に早くから進出し、邪馬台国を創ったのも出雲の人々だったからではないか」が要旨である。
大和政権は出雲系政権があった奈良盆地を攻め、出雲側が一定条件のもとに降伏したとする。条件付き降伏が「国譲り」だとする。魏志倭人伝から邪馬台国は奈良盆地と読めるので、大和政権誕生前に広域を統一した政権がそこに存在したとする。物部や葛城等、出雲系の氏族の消長も条件付き国譲りで説明される。
ヤマト王権を象徴する前方後円墳とは異なる様式の、方形墓の四隅がヒトデのように突出する「四隅突出型墳丘墓」が、出雲から福井・富山(コシの国)の日本海沿岸に分布することから、出雲を中心とした独自の文化圏がヤマト王権成立以前にあったのではと推測する。
山そのものが御神体とされる三輪山の祭神・大物主神が出雲系の神であること。
8世紀はじめ、出雲国造が朝廷に奏上した神賀詩(かむよむごと)のなかで貢置を申し出た「皇孫の命の近き守神」が出雲系の神々であったこと。
『古事記』『日本書紀』では卑弥呼のことを全く触れておらず、邪馬台国はヤマト王権の前身ではないこと。