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盛岡市 国史跡・志波(しわ)城跡①概要と外郭

2023年11月03日 13時02分50秒 | 岩手県

国史跡・志波城跡。外郭南門と大溝。岩手山。盛岡市上鹿妻五兵エ新田。

2023年6月7日(水)。

14時20分ごろに宮古市の﨑山貝塚を出て、一旦三陸海岸から離れ、宮古盛岡横断道路で盛岡市内に行き、志波(しわ)城跡を見学して、雫石町の道の駅へ向かった。10日(土)に滝沢市で「チャグチャグ馬っこ」を見学し、土日で盛岡地域を終え、11(日)午後から遠野市の月休施設、12日(月)から釜石市方面という行程を目標とした。16時ごろガイダンス施設である志波城古代公園案内所に着いた。

志波城は、古代東北地方に造営された「城柵(じょうさく)」の一つで、平安時代初期の延暦22年(803年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が造営した古代城柵である。

古代日本では、大化の改新(645年)を契機として「律令」を基に、朝廷が土地と人々を直接支配し、税を納めさせていた。しかし、東北北部の人々はそれに従わず、「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた。そのエミシを統治するために設置された行政施設が「城柵」である。

724年に多賀城(宮城県多賀城市)が造営され陸奥国府が置かれると、宮城県北部までが律令支配下に組み込まれた。

774年の海道蝦夷(かいどうのえみし)の反乱に始まるエミシと朝廷側の武力衝突(38年戦争)は、781年に桓武天皇が即位すると朝廷軍が岩手県南部への軍事行動を開始し、胆沢地方を中心に大きな戦いがあった。

797年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂は朝廷軍を勝利に導き、802年に胆沢城(奥州市水沢区)を造営、胆沢エミシの首長、阿弖流為(アテルイ)らは投降した。その翌803年には志波城を造営し、北上盆地北部まで律令支配下となった。

志波城は、陸奥国最北・最大規模の城柵であり、は朝廷の文武支配が及ぶ最前線基地としての機能を担ったと考えられる。胆沢城の北辺をエミシから守るための城ができたことにより治安が安定し、鎮守府を多賀城から胆沢城に移すことができたと考えられている。

38年戦争が終結する811年の爾薩体(にさたい)・幣伊(へい)のエミシとの戦いは志波城を拠点に行われたが、同年末には水害を理由に移転が決まり、徳丹城(矢巾町)が造営された。

志波城はその規模が鎮守府胆沢城より大きく多賀城(宮城県)に匹敵し、政庁は多賀城の2倍、胆沢城の3倍となっている。陸奥国最北端の行政府として、またさらに北方のエミシに対する拠点として、志波城の役割が重要であったことを示している。

志波城雫石川右岸に形成された低位段丘面に立地する。雫石川流域は、「末期古墳」が集中することからエミシの一大拠点であったと考えられるが、792年に斯波(志波)のエミシ首長、阿奴志己(アヌシコ)が朝廷に帰属を願い出るという記録が残っていることから、早くから朝廷側と通じ、懐柔の地となっていたようである。

志波城跡は、北上川と雫石川の合流点付近に広がる平坦地にあり、南の胆沢方面と西の出羽国秋田方面へ通じる交通の要衝であった。

志波城跡の北辺は雫石川に近接していたようで水害により削られているが、城内北部には小河川が入り込んでおり、水運が重視されていたと考えられる。

 

志波城外郭は、土を固く積み上げた840m四方の築地塀(ついじべい)と、928m四方の土塁をともなう大溝(堀)により二重に区画されていた。各辺の中央には門が建てられ、南辺中央には、五間一戸の外郭南門が、また築地塀をまたぐように60m間隔に配置された兵士の見張所である櫓が造られた軍事色の強い施設である。

外郭の築地塀は、基底幅が2.4mあり、当時屋根までの高さが4.5mあったと考えられ、また約6m単位でつくられたことが分かっている。

郭内には、中央やや南寄りに150m四方を築地塀で囲み、儀式を行う多くの建物が整然とならんでいた。正殿・東西脇殿など14棟の掘立柱建物跡が配置されている政庁、その周囲に役人が働く官衙域、外郭内側1町(約108m)幅で兵舎や工房としての機能を持つ竪穴建物群が1200~2000棟ほど配置されていたと考えられる。

外郭南門から政庁南門には、幅約18mの南大路で連結されていた。郭内北部には小河川を取り込み、物資の運搬等に運河として使っていた可能性も指摘されている。

志波城は、雫石川氾濫による水害のため北辺部分を失っており、後に南へ下った現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田の地に徳丹(とくたん)城が造営されることでその機能を移転し、約10年で役割を終えた。現在でも、志波城の北辺部には、水害の影響で形成されたと思われる段差が残る。

復元された外郭南門。外大溝(堀)と築地塀。

現在は「志波城古代公園」として盛岡市によって整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されている。

外郭南門は、間口15m、高さ11.1mの壮大な五間一戸(ごけんいっこ)門で、二層の櫓門と考えられる。五間門は胆沢城とともに城柵では最大規模のものである。平城京朱雀門に次ぐ復元規模である。門の両側には高さ4.5m、長さ252mの築地塀(長さ日本一の復元規模)や、高さ6.95mの櫓10基も復元されている。

外郭南門内側から。復元された築地塀と櫓。

南大路と内郭南門。

内郭南門付近から南大路と外郭南門。

岩手県宮古市 国史跡・崎山貝塚 縄文の森ミュージアム②巻貝型土器



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