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岩手県久慈市 まめぶ汁 史跡・久慈城跡と久慈氏

2023年10月28日 11時51分29秒 | 岩手県

まめぶ汁。岩手県久慈市。

2023年6月6日(火)。

500円。クルミや黒砂糖を包んだ団子は美味かった。まめぶ汁は、岩手県久慈市山形町や九戸郡で食されている郷土料理である。クルミや黒砂糖を包んだ団子を、野菜、焼き豆腐、油揚げ、かんぴょう等と共に昆布と煮干しの出汁で煮込んだ料理である。まめぶ(豆ぶ)とは、中に入っているクルミ入りの団子を指す。

 

岩手県二戸市の国史跡・九戸城跡を見学後、久慈市の道の駅「くじ」に17時30分過ぎに着いた。久慈市での目標は「まめぶ汁」琥珀博物館だった。事前に調べたところ、「まめぶ汁」は山間部の山形町が分布の中心らしいが、久慈市街地でも数店あり、道の駅「くじ」内のレストラン「山海里」で11時から17時に食べられるようだった。翌日、琥珀博物館見学後に戻って食べようと思って、「山海里」の店先を見ると、翌日は臨時休業となっていた。あわてて、運よく開いていた道の駅内の観光案内所の職員に尋ねると、徒歩圏内で食べられる店「KENSOH」を紹介してくれたので、地図をもらって久慈駅方向に15分ほど歩いて店に着いた。

 

まめぶ汁は、もとは、旧山形村(現久慈市山形町)や旧久慈市西部などで伝えられていたが、2010年頃から久慈市全域で認知され始め、2011年東日本大震災以降、炊き出しとともに広まる。そして、2013年放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』内で、北三陸市(ドラマ中の架空の町で岩手県久慈市がモデルとされている)名物として、「おかずかおやつか分からない微妙な食べ物」と紹介され、ドラマの大ヒットと相乗する形で一気に知名度を上げた。

2011年には久慈まめぶ汁としてB-1グランプリ正会員となっており、2013年大会は過去最高の5位に入った。

県史跡・久慈城跡。主郭。久慈市大川目町新町。

2023年6月7日(水)。

道の駅「くじ」で起床。昨日、久慈市街地に入る手前の道路看板で久慈城跡があることを知ったので、9時開館の琥珀博物館の前の時間を利用して立ち寄ることにした。

新町集落終点麓下の交差点に案内板と登り口があったが、左の慈光寺付近からダイレクトに主郭に登るルートを選択し、車でゆるやかな坂道を上っていくと登り口があり、付近のスペースに駐車した。ここからは帯曲輪経由で5分ほどで主郭に着いた。主郭周辺を半周したが、眺望は得られなかった。

久慈城は久慈地方の領主であった南部氏庶流久慈氏の居城で、別名八日館や新町館とも呼ばれた。久慈川の左岸、新町集落の北方、大川目慈光院の東側の男山を利用して、久慈川支流の切金川と人工的な堀川に囲まれた標高約80m、比高約40mを測る独立丘陵に立地する15~16世紀の山城である。三戸南部氏の東海岸南進の境目の城として城跡からは、久慈川沿いに開けた平野を一望できる守りに有利な地であった。

築城時期は不明だが、久慈氏12代久慈信実が大川目八日館に入った文明年間(1469 - 87年)のころとされる。

主郭と呼ばれる最も高い平場から東方向に2~3段に切り崩した曲輪が連続して築かれており中世の連郭式山城の特徴を備えている。

三方に水濠、北側後背地には空濠がめぐらされ、堀切や竪堀、馬場跡、井戸跡など、当時のままの状態で良好に保存されている。麓に位置する堀屋敷と称される平場が日常の居城と思われる。

天正19年(1591年)9月の九戸政実の乱において当主の久慈直治は九戸政実に荷担して九戸城に籠城して降伏し、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られて処刑され、久慈氏の嫡流は滅亡した。

久慈城は南部信直の直轄下に置かれ、一族の久慈治興が代官となったが、城は天正20年、豊臣秀吉の諸城破却令により取り壊された。

城跡からは、掘立柱建物跡や白磁などの陶磁器や北宋銭なども出土している。

 

久慈氏は、南部氏の祖・南部光行の三男で七戸氏の祖になった七戸朝清の流れとされる。室町から戦国期にかけて、久慈郡は糠部南部氏の勢力下に置かれ代官が派遣され、室町後期には九戸郡一帯は久慈氏の統治下にあった。

久慈氏の事績について記録に現れるのは、久慈信実からである。10代久慈治政に男子がなかったため、三戸南部18代時政の次男南部信実を養子として娘を娶らせて、11代久慈氏を継がせ、久慈大川目八日館城に在城したとある。

歴代の城主は三戸南部氏一門として重臣上座にあった。久慈氏は、八戸氏、新田氏、九戸氏、東氏、中館氏、出ル町氏などと婚姻関係を結んでいるが、戦国期になると、九戸氏との関係が深くなっていった。

久慈政継は、三戸南部氏の代官として出羽大曲に駐在し、平賀・大曲両郡の所領を管理し、合戦で討死した。弟の久慈信継が一時家督を相続したのち、正継の遺児治継が家督についた。三閉伊侵攻に南部軍の先峰として活躍した信義、その異母弟が後の弘前藩祖津軽為信と伝わる。

 

南部氏の出羽進出と金沢城(秋田県横手市金沢、旧金沢柵)。

津軽藩士である高屋浄久が江戸時代前期に藩主の命により提出した覚書では、津軽氏の祖先が南部氏の分流であり、金沢に拠点を構えていたことが記されている。金澤右京亮様のこととして、「南部屋形様の御子御三男なり、仙北にて御他界なり。御假名を彦六郎様と申すなり。津軽の屋形様の御先祖初なり。此の殿を金沢京兆と申すなり。南部にては下の久慈に御座候被るなり。」と金沢での詳細を記している。

津軽氏の歴史は、三戸南部氏の遠隔地所領、仙北金沢の地に始まる。

 

金沢右京亮とは何者か―弘前藩津軽家祖先伝承から東北の室町時代史を復元する―

若松啓文2020年12月6日 令和2年度 後三年合戦金沢柵公開講座

金沢右京亮」とは何者か。結論から言えば、「金沢右京亮」とは、近世弘前藩津軽家の先祖に位置付けられる、室町時代中頃、出羽国山北金沢を治めていた三戸南部氏当主の子息、である。

「京都御扶持衆」三戸南部氏が、遠隔地所領の山北金沢・大曲を経営させるために送り込んだ当主子息、それが金沢右京亮だった。しかしながら、その経営が地元の「京都御扶持衆」」小野寺氏との軋轢を生み、寛正六年(1465)室町将軍への馬進上の際に合戦に発展し、金沢右京亮は自害した。

その遺子は大曲和泉守に救出されて成長し、父金沢右京亮の本領だった陸奥国下之久慈の領主となり、久慈右京亮となった。その子息は(大浦)光信を名乗り、津軽地方へ進出し、のちの津軽家の礎を築いた。

延徳3年(1491年)、三戸南部氏当主の南部信時は南部久慈氏の一族・南部光信を津軽西浜の種里城(西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置し安東氏への押さえとした。文亀2年(1502年)、光信は大浦城を築き養子・大浦盛信に守らせた。

大浦光信の後三代をへて、為信が大浦氏を継いだという。この大浦為信がのちの津軽為信である。

岩手県二戸市 続日本100名城 国史跡・九戸城跡