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岩手県二戸市 続日本100名城 国史跡・九戸城跡

2023年10月27日 11時29分40秒 | 岩手県

続日本100名城。国史跡・九戸城跡。岩手県二戸市福岡城ノ内。

九戸城跡エントランス広場・本丸西側の三の丸跡。

二戸市埋蔵文化財センターから北東へ数分の距離に駐車場・ガイドハウス・休憩所がある。見学順路は本丸下から二ノ丸南西隅を回り込んで二の丸南東の大手虎口跡から二ノ丸・本丸へ進む。

本丸下から北東隅へ回り込んで二ノ丸北東から城内に入るルートは閉鎖中であった。

2023年6月6日(火)。

九戸城は、中世の平山城で、南部氏の一族である九戸氏が居城した。築城の正確な年代は不明であるが、7代目光政のとき明応年間(1492〜1501年)という。

西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)、松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。

戦国時代末期の最後の当主九戸政実は、南部一族内の南部信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げたため、南部信直に南部地方の領地を安堵した豊臣政権への反乱とみなされた。

豊臣秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政、蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ、政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされ、日本の中世が終焉した城といわれる。

この後、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡された。南部信直は三戸城から居を移し、九戸城を福岡城と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城とよび続けた。

慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)に廃城、破却された。

二ノ丸切岸。二ノ丸南側を人工的に斜面を削って造られた断崖で、高低差は約10mある。

二の丸大手。左奥に本丸跡。

二ノ丸の現在見える姿は本丸と共に福岡城の姿である。九戸城時代にも一部、土塁が構築されていた可能性がある。また、東側では竪穴式の工房や大型の建物が立ち並んでいた区間が見つかっている。

九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られる。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分がある。

九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが分かっている。

本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地されたことが分かる。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡である。

本丸東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があった。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門がある。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地となっている。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があった。

本丸南虎口跡。天正時代の様式を良く残したクランク状の出入口である。

本丸の石垣。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っている。石垣は、天正19年(1591)の落城直後に築かれた。野面(のづら)の古式穴太(あのう)積の石垣は蒲生氏郷配下の穴太衆によるものとされ、肥前名護屋城(佐賀県)や会津若松城(福島県)に共通する様式である。

本丸南東隅櫓跡。敵状遠望や射撃のために設けられた数間の高さの隅櫓のあった場所で、海抜139mと城跡で最も最も標高が高く眺望がきく。

本丸南側土塁。

本丸北東方向。

本丸北西方向。

本丸北側から北西方向への眺望。

見学後、エントランス広場駐車場へ戻り、地元の老人と立ち話したのち、久慈市の道の駅「久慈」へ向かった。

岩手県二戸市 二戸市埋蔵文化財センター②九戸城と九戸氏