重文・旧奈良家住宅(秋田県立博物館分館)。秋田市金足大字小泉字上前。
2023年6月4日(日)。
金足といえば、高校野球での県立金足農業高校の活躍で知られる。
秋田県立博物館を見学後、北西近くにある分館の重文・旧奈良家住宅へ向かった。近づくと交差点近くに専用の駐車場が用意されており、数分ほど歩くと入口に着いた。
事前に読んだ司馬遼太郎の「街道をゆく(秋田県散歩)」には、旧奈良家住宅が印象的に取り上げられていた。住宅近くの男潟という池とともに映し出した映像も心そそるものがあった。この住宅には、司馬遼太郎、ブルーノ・タウト、菅江真澄が歴史を刻んでいる。
司馬遼太郎は、1986年に江戸時代の豪農の住宅だった旧奈良家住宅を見学した。司馬は、菅江真澄(1754〜1829年)の足跡をたどって旧奈良家住宅を訪れた。菅江真澄は、東北各地、北海道を47年かけて旅行し、滞在した土地に関して文章と絵で膨大な記録を残し、地誌・民俗に関し貴重な貢献をすることになった。
菅江真澄は1811(文化8)年3月24日に金足を訪れ、各家が軒にヤマブキの花を飾っているのを見た。母屋だけでなく、蔵や小屋など軒のある建物の全てに飾り、とても美しくて風流だと記している。
菅江真澄は、「小泉という村の長(おさ)奈良某のもとに、茂木知利がきていると手紙で知らせてきた。近いところなので、すぐでかけた。雌沼(女潟)雄沼(男潟)というふたつの大池がある。この水辺をつたって、奈良氏の家を訪れた。(中略)近所にある奈良氏の親族の家は湖水に臨んだ屋上の眺めがたいそうよいというので、みなといっしょにでかけた。(中略)灯をともすころ、また本宅にもどってきて(中略)夜更けまで語りあい、この夜は多くの人たちとここに泊まって・・・」と、文化8年5月12日の日記に書いている。
奈良家当主の喜右衛門は真澄のために、奥の六畳間を書斎として提供し、菅江は奈良家に滞在中、秋田藩校明徳館の学者、那珂通博(1748-1817年)と出会った。その縁で、藩主の佐竹義和から地誌作成の意向を受け、以後、秋田に居続けることとなったのである。
桂離宮を激賞したドイツ人建築家ブルーノ・タウト(1880-1938年)も1935年に訪れている。
旧奈良家住宅は、秋田県中央海岸部の大型農家建築物として、よく初期の形態をとどめ、また建築年代が明らかな点でも貴重な民家であり、昭和40年に国の重要文化財に指定された。
旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に奈良家9代善政(喜兵衛)によって建てられた。このときの棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の歳月と銀70貫を費やしたといわれている。
建物の両端が前面に突き出す形は両中門造りとよばれ、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築である。奈良家の場合は、正面左側が上手の中門(座敷中門)、右が下手の中門(厩中門)になっている。
茅葺き屋根や板壁、鉋仕上げ・チョウナ仕上げによる部材などから、いかにも古風な民家をうかがうことができる。それとともに、入母屋に構えた厩中門の屋根や、書院造り風の座敷などからは、県内屈指の豪農としての格式の高さを知ることができる。
マヤ中門からまっすぐに続く土間は、通路のほか、農作業や家事作業の場として使われた。
土間の入口近くでは馬が飼われていた。その理由は、寒さの厳しい地域では、馬が家の中で暖がとれるようにしたことと、家族の者がいつでも馬の様子を見ることができるようにしたためである。
土間の中央には奈良家の大黒柱である八角形の柱と、ニワイロリと呼ばれる大きな囲炉裏がある。ニワイロリは履き物を履いたまま腰掛けて利用できるよう、地面が掘り下げられている。
土間からあがったすぐ上の部屋は「オエ」と呼ばれ、家族の団欒の場であり、来客を迎える場でもあった。オエの囲炉裏は家族が使用するもので、座席が厳しく決められていた。主人の席は「ヨコザ」と呼ばれ、奈良家では土間や入口など、家全体を見渡せる場所がその席であった。
オエの隣には、納戸と台所とがあり、納戸は家族の寝室に、台所は主人夫婦が食事をする場として使われた。
家屋の南側には上座敷と中座敷と呼ばれる部屋があり、上座敷は書院造り風になっていて格式の高い造りになっている。座敷は客を迎えたり、結婚式や葬式などの儀式を行うために使われた。
座敷のまわりには、雨戸の内側に、縁と土間とを取り込んだ空間があり、外気が直接屋内へ入り込まないようになっている。こうした造りは土縁(どえん)といわれ、北陸地方や東北地方の日本海側の住居でよく見られる。
男潟のほとりに奈良家住宅は建てられた。
5分ほど滞在しただけで、奈良家住宅を去った。本日の最終行程として男鹿半島の寒風山回転展望台と国史跡・脇本城跡を見学してしまおうと考えたからだ。この時点で16時頃。寒風山回転展望台の開館時間は17時まで、最終入場は16時40分となっている。