国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡。秋田市御所野地蔵田三丁目。
2023年6月3日(土)。
大仙市大曲の古四王神社を見学後、秋田市南部の御所野総合公園へ急ぎ、公園内駐車場横にある地蔵田遺跡出土品展示施設へ入ると、受付の女性から遺跡現地は16時で閉鎖されるので先に見学するように言われた。
遺跡現地まで数分歩いて台地上の復元集落に入ると、ボランティア風の男性が竪穴住居から顔を出した。
地蔵田遺跡は、周囲を木柵で囲んだ弥生時代前期(BC3世紀)に成立した集落跡で、出土した弥生土器の中には、北九州地方の影響を受けた遠賀川系土器も含まれており、東北日本海沿岸北部に早くから弥生文化が伝わったことが分かる。
地蔵田遺跡は、秋田市南東部にある御所野台地の南端、秋田平野中央部に位置する旧石器時代、縄文時代中期、弥生時代に営まれた遺跡であり、雄物川と岩見川の合流点をのぞむ丘陵が開析を受けてできた標高約30mの段丘上に立地する。
集落は、居住区の周囲を木柵で楕円形に囲み、その周辺に墓域および不用品の廃棄場を配しており、弥生時代の西日本の環濠集落の基本的な構造と共通する。ただ、木柵がめぐる集落は東北地方北部はもとより全国的にもあまり類例がなく、この遺跡の特徴となっている。
居住区を画する木柵は、直径20cmから30cmの木材を密に立て並べたもので、一部で二重にめぐり、内側のものが長径61m、短径47m、外側では長径64m、短径50mである。木柵の北西部分で柵列が一部とぎれ、そこから外側へ二列の柱列が延びており、そこが居住区の主要な出入り口となっていた。
この他にも、西部、南部、東南部に柵の途切れるところがあり出入り口と考えられる。南東側で最も外側に作られている木柵は、墓域を集落と遮るための目隠し塀と考えられる。
柵内部は三軒の円形竪穴住居が、中央の広場を挟んでほぼ等間隔で並んで向かい合い、広場に向けて出入り口を配置する。住居は、直径8mから9.1mの周溝をめぐらし、中央に炉を据え、炉のまわりに四本の主柱を配する。
周溝の途切れるところが出入り口となる。こうした構造の弥生時代住居跡は、その後類例が増加しており、この地方の当時の一般的な住居構造であることが明らかになりつつある。
時期が下ると住居数は四軒に増加し、元の住居も位置をずらして建て替えており、その規模も直径9mから13mに拡大するが、それとともに木柵は取り払われる。住居の建て替え回数は住居によって異なり2回から6回が認められる。
集落の東側、木柵に接して直径40mほどの範囲に墓域が設定されている。墓は北東群と南東群に分かれ、南東群に密集する。墓には土器棺墓25基、土壙墓51基がある。
土器棺墓には壺形土器を棺とし蓋形土器で覆うもの、壺形土器棺を鉢形土器で覆うもの、壺形土器棺を甕形土器で覆うもの、壺形土器棺を扁平な自然石で蓋をするもの、二個の甕形土器の口を合わせるものの五種類がある。棺の直径および高さは30cmから50cmである。棺内からは人骨や副葬品などは出土していない。
土壙墓は、楕円形、長方形、隅丸長方形を呈するものがあり、楕円形のものが多数を占めるが不整な平面形を呈するものもある。土壙墓の規模は、長軸の長さが約1mから2mにおよび、1mから1.5mのものが多い。人骨の出土はなかったが、224号土壙墓から凝灰岩製の小玉が、258号土壙墓から碧玉製の玉、擬灰岩製の管玉、玉髄製の勾玉が、227号土壙墓からはベンガラがそれぞれ出土した。
地蔵田遺跡は弥生時代前期に、初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、木柵を居住区の周囲に巡らせるという独特な施設をもつ集落の全体像を良好に伝えている。この遺跡は、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。