続日本100名城。国史跡・脇本城跡。左下が内館地区。秋田県男鹿市脇本脇本七沢外。
2023年6月4日(日)。
寒風山回転展望台見学後、南の海岸沿いへ降りて、国史跡・脇本城跡の内館地区主郭部を30分ほど見学した。国道の北側線から道標に従い、狭い山道を上ると中腹に案内所と数台分の駐車スペースがある。案内所内部には展示写真とリーフレットが置いてある。
脇本城跡は秋田県中部、日本海に突き出た男鹿半島付け根南岸の丘陵上に展開する大規模な山城で、中世末の安東氏の居城である。安東氏は津軽地方の豪族であり、鎌倉時代に北条得宗家に仕えた代官で蝦夷管領を勤めた。その勢力は十三湊(青森県五所川原市)を本拠として、津軽地方から北海道南部に及び、秋田地方にはその一族である檜山安東氏(下国家)、湊安東氏(上国家)がそれぞれ北部の檜山城、中部の秋田湊城に拠点を置いた。
安東氏は蝦夷島を含む日本海北部に勢力を伸ばして活躍したが、脇本城は日本海交通の要衝の地に位置し、直下に港を備えており、安東氏の活動拠点としてふさわしい大規模な山城である。城跡に関係する寺院群や城下の集落を含めて広大な城域が環境・景観とともによく保存されている。
明確な築城時期は不明だが、元弘4年(1334年)頃に鎌倉北条方の武士が築いたとされる。康正2年(1456年)、安東政季(下国家、檜山城主)は小鹿嶋(現在の男鹿)に入り、この城を拠点としたと推測される。元亀元年(1570)頃に、檜山城主安東愛季(ちかすえ)は檜山、湊の両安東氏を統一した。天正5年(1577年)安東愛季は、嫡子の安東業季に家督を譲り、自らは既存の脇本城を居城として、大規模な改修を行った。1580年二男の安東実季が湊城主となる。1582年、業季が病死し、実季が家督を継いだ。1591年、豊臣秀吉から大名として認められた実季は安東姓から秋田姓を名乗った。
慶長7年(1602年)の佐竹氏による久保田城築城の間に、廃城になったと思われる。
脇本城跡は日本海に面した標高100m前後の丘陵上に展開する。その規模は生鼻崎から本明寺の上の馬乗り場を経て、脇本第一小学校上の兜ヶ崎までを含む、総面積約150ヘクタールに及び、東北最大級といわれている。
男鹿市教育委員会による調査の結果、内館地区、馬乗場(古館)地区、兜ヶ崎地区の3地区に主な遺構が分布することが確認された。
海に直角に突き出た生鼻崎の斜面は白い崖面を見せて象徴的であり、ここから連続する丘陵は南北約2km、東西約1.5kmの範囲をもつ。城跡からは南に日本海、遠くは鳥海山、東から北にかけては八郎潟から檜山地方、西には男鹿半島の山々が見渡せる。城跡直下の海岸には脇本港がある。
内館の中心部は連郭式の山城が二つ合わさった形にも見える。
内館地区は日本海に最も近く、分布する遺構は大規模であり、城郭の中枢をなす。谷を囲む丘陵尾根を大規模に階段状に造成して、一辺が数十m規模の方形を呈する郭が連続して配置される。郭には高い土塁が囲み今も窪みとして残る井戸も見られる。
馬乗場地区は丘陵中央に位置する。広く整地を行い、T字状に直線道路を敷設してこれに面して方形の屋敷が配置される。兜ヶ崎地区は東側の独立した丘陵に立地し、方形を呈する主郭の周囲に階段状に郭が造成されている。
丘陵東側の裾には前身の法蔵寺に愛季が葬られたと伝えられる萬境寺、愛李の兄弟が開いたとされる本明寺などが存在する。また、日本海に沿った平地には、直線道路に短冊形地割が連続する脇本の集落があり、城下集落として機能していた可能性がある。
出土遺物は中国産の白磁、青磁、染付、褐釉、国産では瀬戸美濃焼、能登珠洲焼、越前焼など15、16世紀のものが確認される。
古来から男鹿半島への道であった「天下道」を登って主郭に近づく。右が主郭で、左が「家臣屋敷」である。
屋敷地区下部から主郭部への近道を右に登る。
主郭部への中ほどから主郭部頂上方面。
主郭部上部の曲輪跡から東の会所・城主館・案内所・旧城下町・日本海方向。
主郭部上部の曲輪跡にある井戸跡。
会所上の空堀。
会所の曲輪跡。
東端の曲輪(城主館)跡の東端から会所曲輪跡方向。大土塁。
東端の曲輪跡東端から東の旧城下町方向。
東端の曲輪跡。大土塁下の井戸跡。
東端の曲輪跡から上部方向。
東端の曲輪跡から屋敷地区・日本海方向。
会所曲輪跡と上部曲輪の間の大空堀。
見学を終えたのち、男鹿半島北西端の入道埼灯台へ向かった。