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秋田市 佐竹藩久保田城跡 安東氏湊城跡 ポートタワー

2023年10月09日 13時41分13秒 | 秋田県

秋田市ポートタワーからの風景。秋田市土崎港西1丁目。道の駅「あきた港」。

2023年6月3日(土)。

16時30分ごろ。秋田市南東部にある国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡の見学を終え、西に進んで新屋地区を見学しようとしたが目ぼしい建物が見当たらなかったため通過して、17時ごろに秋田市街地の北西にある道の駅「あきた港」へ着いた。

道の駅に隣接している秋田市ポートタワーは全高143m、無料展望室の高さは100m。エレベーターで展望室に登ると、日本海や寒風山をはじめとする男鹿半島の山並みのほか、秋田市街や太平山、鳥海の山々を望むことができる。日本海に沈む夕日も一望できる。

土崎(つちざき)神明社。出羽湊城跡。秋田市土崎港中央3丁目。

2023年6月4日(日)。

道の駅「あきた港」で起床。本日の見学ルートを検討すると、土崎神明社が近いことに驚いた。

土崎神明社の主祭神は天照大神である。土崎神明社はもともと、慶長7年(1602年)に常陸から佐竹義宣とともに秋田にやってきた常陸国人川口惣治郎の氏神であった。破却された出羽湊城址に、元和6年(1620年)川口惣治郎が建立した。以来土崎神明社は、土崎湊町の総鎮守として崇められてきた。

土崎湊湊安東氏(上国家)の本拠地であり、土崎神明社は戦国時代末期に本家の檜山安東氏(下国家)により統合された戦国大名・安東氏(のちの三春藩大名家秋田氏)の居城であった湊城の跡とされる。

土崎は雄物川の河口に位置する港町で、土崎湊は歴史的には、古代・中世における出羽国の中心的地位が長かった。平安時代の蝦夷討伐軍が拠点として築いた秋田城への物資の補給などに利用された港であった。昔から海運で栄え、室町時代には海の豪族とも言われる安東氏が湊城を築き三津七湊の1つに数えられ、江戸時代には佐竹氏久保田藩の藩港であり、北前船の寄港地でもあった。

湊城の築城時期についての詳細は不明であるが、少なくとも、慶長9年(1604年)に佐竹義宣によって破却されたときは現在の土崎神明社の地にあったことは間違いないとされる。

土崎湊の地は、1395年(応永2年)に十三湊の下国家安藤氏の一族である安藤盛季の弟鹿季が、当時このあたりを支配していたとみられる上国家安藤氏にかわって入部し拠点としたとされるが、当時の居城は不明である。鹿季はこの後湊氏と称し、秋田城介を名乗った。以後湊安東氏の累代が支配する一方で、下国安東氏は檜山(秋田県能代市)に土着し、檜山安東氏とよばれた。

天文20年(1551年)湊安東氏は安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んで、両家を支配することに成功したが、それに反発した湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こした。この反乱は愛季が鎮圧し、湊城に入ることによって両家を統合したが、このときはまだ安東氏の拠点は檜山城であった。

この後、実季は拠点を檜山城から湊城に移し、慶長4年(1599年)から湊城の大規模な改築を行った。二重の水堀をめぐらした平城であったとされる。慶長6年(1601年)に完成したが、実季はその翌年慶長7年(1602年)に常陸宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった佐竹氏の佐竹義宣が入城した。

しかし、湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は慶長9年(1604年)に久保田神明山の地に新たに久保田城を建設してそちらに移り、湊城は破却された。元和6年(1620年)には跡地に土崎神明社が建てられている。

 

久保田城跡。日本100名城。秋田市千秋公園。秋田大学鉱業博物館の駐車場から眺める久保田城跡。

広小路南の民間駐車場に駐車。大手門の堀に出ると濠の水は壮観だった。その先に城山の丘が見えた。

久保田城は、久保田藩20万石佐竹氏の居城である。1871年(明治4年)3月に久保田藩が秋田藩と改称されたため、「秋田藩、秋田城」とよばれることも多いが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。

久保田城は、雄物川の支流である旭川の左岸にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城である。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)とよばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭などの様式も採り入れられている。

神明山の最高所を均して本丸とし、ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所を置いた。周囲を多聞長屋と板塀で取り囲み、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口という5箇所の出入口を設けた。表門は一ノ門ともいい、そこから二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)があった。南西隅で岬のように突出した最高所の土地を「出し」と呼び、「出し御書院」「御出書院」という櫓座敷を設けた。

本丸東側の一段低い土地を二の丸とし、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などを置いた。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっており、4箇所の出入口を設けた。現在は松下門跡が千秋公園の正面入口になっているが、藩政期の正式な登城の道は黒門を経由するものだった。

久保田城表門。

久保田城本丸の正門で、一ノ門ともよばれていた。

本丸の玄関口として警備上から重要な地点とされており、南側には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」を置いて厳重な守りを固めていた。

この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万石久保田藩の正門にふさわしい壮大なものとなっている。

御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)。

久保田城表門礎石。表門の再建に当たっては現存していた本来の礎石を内側にずらして展示保存している。

本丸跡。

久保田城御隅櫓。

市政100周年を記念して復原された御隅櫓は本丸の北西隅に位置し、史料に記されている2階造りを基本とした設計で、最上階には展望台が設けられている。本来は2層2階の櫓であったが、望楼風の展望台を追加した3層4階建ての模擬櫓として再建されている。

久保田城御隅櫓から本丸跡。

 

二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり、重臣屋敷を置いた。本丸西側で内外堀に挟まれ島状になった西曲輪(捨曲輪)には、兵具蔵を置いた。

本丸・二の丸を内堀で囲み、三の丸を外堀で囲んだ。その他も北の丸の周囲、中通廓と亀の町廓・長野下の間(大堀)、亀の町廓と築地の間(上堀)、亀の町廓と楢山の間(下堀)などに堀を設けた。堀の多くは、旭川の旧河道である。

現在ではほとんど埋め立てられ、現存するものは南堀の一部、東堀の一部、西兵具蔵外堀の一部(穴門の堀)、南外堀の一部(大手門の堀)のみになっている。

1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、平野政吉美術館などが整備されている。

城郭に関する建造物としては、前述の大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)が現存する。

このあと、久保田城跡北東の高台に位置する秋田大学鉱業博物館へ向かった。

秋田市 国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡②遠賀川系土器