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秋田県能代市 国史跡・檜山城跡 檜山安東氏の本拠地

2023年10月20日 09時48分46秒 | 秋田県

国史跡・檜山城跡。本丸跡。秋田県能代市檜山霧山下。

2023年6月5日(月)。

大潟村の道の駅で起床。6月4日の行程の終盤として秋田県男鹿市脇本の続日本100名城・国史跡・脇本城跡を見学したが、本日は同じく檜山(ひやま)安東氏の本拠地であった能代市の檜山城跡見学から始めることにした。

事前に余り情報がなく、結局リーフレット類も入手できなかった。檜山城跡発掘調査事務所があると分かっていたので、見学前に立ち寄ろうと思ったが、8時過ぎには現地付近に着いたので、現地情報に頼って見学しようとした。本丸跡方向への舗装自動車道は狭いが、二の丸跡・三の丸跡への入口付近まで自動車は乗り入れできる

現地での案内板はほぼなく、本丸跡に調査区があるだけだった。

能代市檜山地域センター「檜山崇徳館」駐車場から檜山城跡。

能代市檜山地域センター「檜山崇徳館」。案内板。

見学後、北西の麓にある能代市檜山地域センター「檜山崇徳館」に立ち寄った。ここにはある程度情報はあり、出土陶磁器の展示コーナーもあった。檜山城跡発掘調査事務所に、その後立ち寄ったが、何の情報も教えてくれなかった。

三の丸跡。日本海や能代山本地域を一望することができる。

檜山城跡の所在する能代市は、日本海に面し、米代川河口部に港をもち、下流域に開けた能代平野に都市域が広がり、河川流域に集落が点在する。檜山城跡は能代平野に接して檜山川の発する丘陵部に位置する。現在の檜山集落の裏山のようなかたちで見下ろす霧山にあったのが檜山城で、霧山城とも呼ばれていた。現在公園となっている部分が古城(ふるしろ)と呼ばれる場所にあたる。

檜山城跡の立地は、米代川河口からは約12km内陸に位置し、標高は最高所の将軍山が約165m、古城地区の通称「本丸」が約146mほどである。

檜山城檜山安東氏の本城として室町時代から江戸時代初期にかけて長期間使用された大規模な蝦夷館式馬蹄形の山城である。

安東氏は、鎌倉時代に得宗御内人(みうちびと)として津軽十三湊に栄えたが、嘉吉年間(1441〜1443)盛季の時南部氏に追われ蝦夷地(北海道)にのがれ、茂別館を築いている。

康正2年(1456)政季の時南下に成功、「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季・忠季父子が滅ぼして安東氏がここに本拠を構え、出羽檜山一帯を領した。政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したとされる。以後、尋季(ひろすえ)、舜季(きよすえ)、愛季(ちかすえ)、実季(さねすえ)まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。愛季は晩年檜山城を嫡男に譲り、男鹿半島の脇本城に移って居城とした。

その後檜山安東氏は湊安東氏と対立し、天正17年(1589)檜山安東実季は湊安東道季の攻撃をこの城に受けて大規模な籠城戦(湊合戦)が戦われた。実季は檜山城に150日間籠城し、わずか300挺の鉄砲で10倍の数の湊安東軍に防戦しながら勝利した。檜山安東氏の勢は強大になり、湊安東氏を併合して、檜山を拠点とした。

1598年(慶長3年)、実季は土崎(秋田市)の湊城に移り、檜山城は大高相模守康澄の代官地となった。

関ヶ原の戦い後の1602年(慶長7年)、秋田氏と改めた安東氏は常陸宍戸に転封となり、かわりに佐竹氏が秋田に国替えとなった。佐竹氏は小場義成を檜山城の城代とするが、1610年(慶長15年)には小場義成を大館(現在の大館市)にうつし、かわりに多賀谷宣家が城代となり檜山1万石を受けた。多賀谷氏は大規模な城の改築を行ったものの、江戸幕府の一国一城令により、1620年(元和6年)、檜山城は廃城となった。しかし、多賀谷氏は代々この地にとどまり、檜山は廃藩置県までこの地方の政治や文化の中心となった。

檜山城には米代川に面する丘陵上にいくつかの支城的役割をはたす館が設けられていたと考えられ、その中の大館、また南方の備えである茶臼館、そして本城及び安東氏菩堤寺の跡である国清寺跡が一括して檜山安東氏城館跡として史跡指定されている。

檜山城の北西に大館、西に茶臼館が配され、いずれも標高50m前後の丘陵末端部を数本の堀、土塁で区分した簡潔な構造であるが規模は大きい。大館、茶臼館は構造上の共通点の他、ともに正面が羽州街道に面しているという立地上の共通点がある。

本丸跡周辺地形図。能代市檜山地域センター「檜山崇徳館」。

檜山城は、周囲との比高差128m東西1500m、南北900mの大規模な山城であり、西方には羽州街道が縦走する。標高145mの山頂からのびる2本の尾根を中心に霧山およびその山麓の馬蹄形地形を利用して構築され、平場、堀切をもうけて要害としている。

城の中核である本丸、二の丸、三の丸は南側の最頂部に位置する。北側の緩斜面にも多数の曲輪や腰曲輪があり、江戸期の絵図には本宮堂、鉄砲場、星場など多数の施設が記載されている。本丸以下の南側とこれら北側緩斜面の間の尾根には櫓跡がある。

なお、古城地区には「館神」、「御料場」、「古寺」、赤館地区には「鉄砲場」、「背中あぶり」という地名が今も残っている。

上部への舗装道横の三の丸入口と標識。

三の丸跡。秩父宮記念碑。

二の丸跡。本丸へ登る坂道から。

本丸南東の曲輪跡。本丸へ登る坂道から。

本丸跡。東屋。公園として整備されている。

本丸跡。本丸跡の標柱。

本丸跡。発掘調査現場。

本丸跡から東方向。枡形虎口跡から将軍山方向。

能代市檜山地域センター「檜山崇徳館」。出土陶磁器。

 

このあと、大館市の秋田犬会館へ向かった。

秋田県男鹿市 続日本100名城 国史跡・脇本城跡


80's JPOP PSY・S(サイズ) Angel Night

2023年10月20日 07時14分55秒 | 音楽

PSY・S(サイズ) Lemonの勇気  1987年

PSY・S(サイズ)  Angel Night〜天使のいる場所〜  1988年

PSY・S(サイズ) 薔薇とノンフィクション  1988年

PSY・S(サイズ) Parachute Limit  1988年

PSY・S(サイズ) ファジィな痛み  1989年

PSY・S(サイズ) Wondering up and down〜水のマージナル〜   1989年

PSY・S(サイズ)は、シンセサイザー・作曲担当の松浦雅也とボーカルのCHAKA二人組テクノポップ・ユニット。1985年にデビュー。1996年に解散した。1980年代後半の活動当初から、当時最先端の電子楽器であるフェアライトCMIを駆使し、1990年代のJ-POPを先取りしたような、非常に先進的なポピュラー音楽を展開していた。

松浦雅也はのちにゲーム音楽で活躍、CHAKAもジャズボーカルなどで活躍中。

CHAKAの透明で力強いハイトーンは印象的で、抜群の歌唱力に圧倒される。曲調はスピード感のあるキャッチーなメロディーで満ち溢れる。洒落た歌詞。現在でも色褪せない数多くの名曲を残す。残念ながら、一般的には知られていない。この時代を代表する文化的資産を享受しないとは、もったいないことだ。

 

興味を持ったのは、NHK-FMの音楽番組でテーマ曲として流れている曲が斬新だったから。それが、どの曲かは、思い出せないが、「.Angel Night〜天使のいる場所〜」(1988年4月)「薔薇とノンフィクション」(1988年7月)、「Parachute Limit」(1988年10月)のうち、「Parachute Limit」だったような気がする。

番組も、毎週月曜日 - 金曜日の22時台放送の「サウンドストリート」は1987年3月20日に終了しているので違うようだ。19時30分からだったような気がするが、帰宅できる時間でもないし、そのうち判明すると思う。アニメ『シティーハンター2』のオープニングテーマから知ったわけではない。

 

聴きだしたころに、「ファジィな痛み」 (1989年7月)が発売されたので、知ったのはそのころかもしれない。当時、ファジィは流行語になりかけていたときで、歌詞にも感心した。

とにかく、そのFM番組では上記の曲や「.Lemonの勇気」 (1987年9月)がよく流れており、エアチェックやレンタルCDからカセット化して車で聴いていた。音楽雑誌で記事を読むと、カレッジチャートでは有名ということが分かった。大学生などの限られた層で人気があるということだ。そのため、キー局のテレビ番組に出演することはなく、映像で見る機会はなかった。

 

しかし、「Wondering up and down〜水のマージナル〜 」(1989年12月)が発売されたころ、出張で東京へ行き、深夜、ホテルに帰ってテレビを付けたら、テレビ神奈川の音楽番組で、「Wondering up and down〜水のマージナル〜 」のスタジオ録画が放映されていた。

感動したのは、数人のバックダンサーの女性のうち一人が私好みの美人で、しかもダンスの動きに一人だけキレがあって、明らかに他の女性とは違っていたことだ。しばらくのちに、それが振付師の南流石であると知り、以来、南流石に注目するようになった。

当時は、米米CLUBがテレビによく出ていたが、バックダンスのシュークリームシュも、よく見ると、一人だけ、ダンスのキレがいい女性がいるな、と思ってみていた。

YoutubeでPSY・Sを見るときは、南流石の振り付けとダンスを見ることができて二重にうれしい。

 

関係ないが、韓国人が英語名で、崔をPSY、文をMoonとしたり、統一教会事件のとき、文鮮明がMoon Sun-myungと名乗っているのを知ったが、美称すぎる。