ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その2) 

2017年05月17日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第433回として2011年8月6日から同月14日まで掲載したものです。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。〕

 世田谷区玉川2丁目にある二子玉川駅の周辺を歩いています。地元の長年の懸案であったという再開発事業も2011年3月で完成したようですが、今回は2010年の様子を取り上げます。

 2010年6月1日、二子玉川ライズのかなりの部分は完成していましたが、まだ仮営業の段階でした。完全なオープンは2011年3月19日です(当初は17日の予定でしたが、東日本大震災の影響によって2日間延ばされたのでした)。

 再開発の前の、どちらかと言えばひなびた雰囲気を知っていますので、この変化の大きさには驚きました。遊園地の二子玉川園の面影は完全に消滅しています。また、23区域にある自動車学校では最大の面積を誇っていた東急自動車学校も唐木田に移転しました。今目の前にある建物の場所はバスターミナルでした。ロータリー型になっており、その周りに交番、東急ストア、東急ハンズなどが建っていましたが、2階建てでした。また、そのバスターミナルから二子玉川園の正門の辺りまで、八百屋、中華料理屋、書店など数件の店がありました。たしか駄菓子屋かおもちゃ屋もあったと記憶しています。二子玉川園の正門は閉園後もほぼそのままで残されており、そこに目黒駅行と多摩川駅行のバス停がありました。この二つの系統だけはバスターミナルから少し離れたこの場所から発車していたのです。

 向きを少し変えます。柱などで大井町線の高架橋が見えにくくなっています。右側に、既に営業している店舗の案内が書かれています。この中には再開発の前からこの駅前で営業していた店もあります。ここまで変わると、以前どうなっていたかを思い出すことが難しくなります。溝口は覚えていますが、よく行っていたとはいえ、溝口より頻度が落ちる二子玉川については、それほどよく覚えている訳ではないのです。

 さて、駅の自動改札機を通り抜けてホームに立つこととしましょう。東急は、関東の大手私鉄の中でも早くから自動改札機を導入しており、二子玉川駅も、JR東日本が首都圏の各駅に自動改札機を大々的に設置した時期よりかなり前から自動改札機を導入していました。但し、花火大会の時は乗降客があまりに多くなるため、自動改札機を停止させていました。

 田園都市線上り電車が到着する4番線のホームに立ちます。多摩川の河原がすぐ目の前に見えるのは二子新地側、10号車のほうです。天気が良ければ富士山も見えるホームから、すぐ近くに目をやれば、御覧の通りです。下に細い道が通っており、兵庫島公園に向かうことができます)。私は、大学院時代、そして結婚してから、通学・通勤で二子橋を渡り、兵庫島公園のほうを電車の中から見ています。

 以前は富士観会館であった場所に高層マンションが建っており、その奥にもマンションが並んでいますが、中程に一軒家らしい建物も見えます。手前にかすかに見える道路が旧大山街道の二子橋です。

 兵庫島公園が見えます。写真の左手前側が兵庫島公園です。奥のほうに国道246号線の新二子橋が写っていますが、その辺りから二子玉川緑地となっています。上の写真にある水の流れですが、これは多摩川ではなく、野川です。野川は国分寺市にある源流を発し、調布市などを通って世田谷区に入り、ここで多摩川に合流します。つまり、野川は多摩川の支流です。兵庫島は、多摩川と野川の合流地点にあります。

 この名前の由来ですが、1358年といいますから室町時代の初期、南北朝の時代の武将で、新田義貞の二男である新田義興に関係します。義興は南朝方についていたのですが、足利家の策略によって謀殺されてしまいます(自害したと記すものもあります)。この時、新田軍の従者に由良兵庫助という人物がおり、兵庫助も死を遂げることとなりました。その死体が流れ着いた場所がここで、彼がここに葬られたので兵庫島と名付けられた、というのです。

 但し、この説については義興が謀殺された場所という問題があります。一般に矢口の渡と言われていますが、この矢口の渡の場所についていくつかの見解があるのです。最も有力なのは現在の大田区矢口付近であり、東急多摩川線には矢口渡という駅がありますし、その隣の武蔵新田駅は大田区矢口にあります。そして、武蔵新田駅の近くにある新田神社(駅名はこの神社に由来)は、新田義興を祀っています。

  しかし、そうであるとすると兵庫助の死骸が現在の兵庫島に流れ着くはずはないのです。理由は簡単で、兵庫島のほうが上流にあるからです。地図を見ればすぐにわかりますが、多摩川は、川崎市側で言えば多摩区、高津区、中原区、幸区、川崎区を通って東京湾に注ぎます。従って、東京都側で言えば調布市、狛江市、世田谷区、大田区を通って河口(大田区)に至るのです。兵庫助の亡骸が兵庫島に流れ着くためには、東京湾が満潮を迎えるなどして川が逆流するようなことがない限り、上流からでないと説明がつきません。

 そうすると、稲城市にある矢野口(JR南武線に矢野口駅があります)こそが矢口の渡の場所であると考えなければなりません。この見解も有力です。また、他にも説があるようです。

 なお、兵庫島といいますが、現在は島ではありません。かつては中洲であり、文字通りの島であったのですが、洪水などの自然現象により、陸続きになっています。


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