ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

豊後竹田駅と竹田市街地(2002年6月22日)

2019年09月10日 00時00分00秒 | 旅行記

 2014年10月13日に休止(2015年1月24日に終了)するまで、私の「川崎高津公法研究室」には「待合室」のコーナーを設けていました。その「待合室」では、何回か竹田市を取り上げています。今回は、第57回として2003年7月12日〜18日に掲載したものを、若干の修正を施した上で再掲載します。2002年6月22日、豊後竹田駅と中心街の様子です。

 2002年に豊肥本線に入ったキハ200系です。鉄道友の会から1992年度のローレル賞を受けた気動車で、筑豊本線と篠栗(ささぐり)線で活躍していましたが、筑豊本線折尾・桂川(けいせん)間および篠栗線の電化とともに大分にやってきました。2003年からは久大本線でも活躍しています。また、2003年の時点においては香椎線、長崎本線、大村線、指宿枕崎線などでも活躍していました。 当時の自宅の最寄り駅(といっても、少し離れています)である敷戸駅から、上の写真の列車に乗りました。降りてまもなくの写真です。これから岡城址へ向かおうとしていました。

 豊後竹田駅です。今、このように風格のある駅舎も少なくなりました。大分県内の場合、無人駅、あるいは、早朝や夜間には駅員がいなくなる駅が多く、常時有人駅は、大分駅、別府駅、中津駅、日田駅など、数えるほどしかありません。豊後竹田駅も、豊肥本線では数少ない常時有人駅の一つです。風格という点では、他に、やはり杵築駅があげられます。ちなみに、豊後竹田駅の次の駅である玉来(「たまらい」。本数の少ない上り列車に乗ると着きます。竹田市の駅です)と朝地(下り。当時は朝地町、現在は豊後大野市の一部)は無人駅です。2013年5月23日に、仕事のために竹田市役所へ行った時は違っていたような気もしますが、この豊後竹田駅の場合、列車が到着すると(あるいは、その少し前から)、滝廉太郎作曲の「荒城の月」が流れます。今年は少年少女合唱隊の斉唱でしたが、この写真を撮影した日は男声独唱だったと記憶しています。 

 岡城址から駅へ戻る時に撮影した、竹田市中心街の模様です。ここは城下町として発展しましたが、2003年当時の人口は2万人を割っており、大分県内の市としては2番目に人口が少ない所となっていました。当時、日出町や豊肥本線の沿線にある三重町(現在は豊後大野市の一部)などの人口は2万人を超えていました。

 上の写真にある「100回忌」は、勿論、滝廉太郎の百回忌のことです。彼は、1879(明治12)年8月24日、東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれましたが、父親の仕事の関係で、少年時代の一時期をこの竹田で過ごしました。中心街の一角に、少年時代を過ごした家があり、今は記念館となっています。彼が弾いていたというヴァイオリンなどが保存されています。なお、滝廉太郎は、1903(明治36年)6月29日に大分市で短い生涯を閉じました。大分県庁の近くに記念碑があります。


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