3日前の3月1日、韓国では1919年3月19日から2カ月ぐらいの間にあった、三一独立運動を称える式典が行われていた。
北朝鮮に関する英語の記事を読んでいたらコメント欄にリンクがあって文大統領のスピーチに繋がっていた。開けたのでざっと読んだ。結構長い。
最初の一文が素敵。
「100年前の今日、我々は一つだった」
One hundred years ago today, we were united as one.
https://english1.president.go.kr/BriefingSpeeches/Speeches/128
今日にとってはこの一文が一番重要なんじゃないかという気がした。そして、これは結構、通りますよ、世界中に、などとも思った。
日本語環境ではどうなっているのかと思って検索したら訳があったのでリンク。
[全訳] 第100周年3.1節記念式 文在寅大統領演説(2019年3月1日)
https://www.thekoreanpolitics.com/news/articleView.html?idxno=2685
そこかい、とずっこけたのはこれ。
自民、三・一式典「7500人殺害」言及の文大統領に批判相次ぐ
https://www.sankei.com/politics/news/190301/plt1903010039-n1.html
自民党は1日、外交部会や国防部会などの合同会議を党本部で開いた。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が「三・一独立運動」の100周年を記念する式典で行った演説に対し、出席議員からは厳しい批判が相次いだ。日本政府にも韓国側に強く抗議するなど毅然とした対応を求める意見が出た。
7500人という数字には問題があるんだろうとは了解するけど、しかし、何もなかったということはないだろうし、10人や100人で済んでいたともあまり思えない、などとも思う。なぜなら、時間的に2カ月ぐらいデモが続いており、当時の日本の当局者が黙って見過ごすと考えるのは難しい。
wikiによればこんなスケール。三・一運動
3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。
この運動は、独立を誰かが思いついてふと沸き上がったといったものではなくて、1917年にロシア革命があり、その前からレーニンが民族自決をいい、1918年にウィルソン大統領が民族自決をいいだして、その上でベルサイユ会議があって、そして高宗の葬儀があってと、かなり激動の、しかしちょっとふわふわした新しい時代への胎動が見えるような、不安が見えるような、人々がかなり感情のボルテージをあげていた時に起こったとみるべきなのでしょう。だから、長続きもする。
前にも書いたけど、これと中国の五・四運動は、今日を形作る上で非常に重要な展開点だったと思う。そして、日本の歴史学会はここらへんを正面から捉えていない。どうするのよ、まったく。
11月11日はWWI停戦の日
さてしかし、文大統領の話は、1919年にはとどまっていなかった。中央日報が日本語記事を書いていたので引用させていただく。
文大統領は「日帝は独立軍を『匪賊』とし、独立活動家を『思想犯』として弾圧した。ここからパルゲンイ(=赤い奴、共産主義者)という言葉も出てきた」とし「思想犯とパルゲンイは本当の共産主義者だけに適用されたのではなかった。民族主義者からアナーキストまですべての独立活動家に烙印を押す言葉」と話した。
文大統領は「左右の敵対、理念の烙印は日帝が民族の間を引き裂くために使った手段だった」とし「解放後にも親日の清算を阻む道具になった。良民虐殺とスパイ捏造、学生の民主化運動にも国民を敵にする烙印として使われた」と語った。
https://japanese.joins.com/article/776/250776.html
大日本帝国は、独立軍(とまで言えるか不明だが、訳の問題もあると思う)を『匪賊』と言って追いたてて、そのおかげで満洲やソ連側に朝鮮人が逃げることとなり、これがつまり今日の北朝鮮を作るに功あった人々のベースみたいになった。
そして、大日本帝国は、独立活動家を「思想犯」とし、赤呼ばわりした、と。ただ、その時期は1919年よりも若干下がるんじゃないかとは思いますが。
さてしかし、ここは実はかなり興味深い。
だって、韓国も中国も、self-determination(民族自決)というコンセプトに鼓舞されたわけだけど、そのきっかけは、1917年のレーニンの「平和に関する布告」というより、むしろ、1918年のウィルソン米大統領の十四か条の平和原則に触発されている、とも言える。
これは赤なのか?あるいは、では赤って何?
ちなみにこの原則は、19世紀後半には知られたものとなっており、それを20世紀になって原理原則化し、上記のように2つの大きい国の首長がいい、さらにその後ルーズベルトとチャーチルによる大西洋憲章にも含まれ、それを経て国連憲章に含まれ今に至る。
大日本帝国の主張を是とするのなら、我々は皆、赤の体制に住まわされているというべきか。あははは。
多分、いつのころからか右派はこのへんを、それはみんなユダヤ人の考えで、共産主義者とはユダヤ人のことだとか、米とソの間にユダヤ人を入れることで両者が重なっていることの理由としてきた感じがする。特にヒトラーはそうでしょう。
だがしかし、これはユダヤ人の問題ではない。もっとずっと以前のウェストファリア体制あたりからの要するにnationの覚醒みたいなものの帰結として、それぞれのnationがくっついたり、わかれたり、喧嘩したり協力した結果として大体こんな感じに分かれられる、であればそこに主権を、と多くの人が思いました、の果てだと考えてみても別に不思議ではない。
英語版のwikiも、なんとなくそんな感じに読めなくはないことを書いている。wiki
最低限控えめに言っても、唐突に誰かが持ち出した新しいアイデアというのとは違う。
もちろん、これを使って欧州側の帝国を分解すると俺らの利益となる、と思った英米の思惑というのは大きいし、そこで思想をふりまわすところに必ずいたと言いたくなるようなユダヤ人が自己の利益を見ていたことも嘘ではないでしょう。第一世界大戦によって、オーストリア・ハンガリー、ロシア帝国という少数民族がたくさんいる帝国を分解するのに大変都合のいいアイデアではあったんだから。
また、植民地主義をやってた英仏独などの欧州列強というのに対置する仕組みを作ってもっと手広く商売をしたいという思惑を持っていた、アメリカ人というよりアメリカ覇権を作ろうとしていた人びとにとって都合がよかったと言い方でもいい。
そこらへんの欧州史から見た話はいいとして、私が非常に興味深く思うのは、当時の日本において、民族自決を言う人、植民地解放を言う人を「赤」ととらえるこの捉え方は、どうやって生じたのだろうか?というあたり。
植民地を持つ、獲得する、侵略行動を起こすことに抗する、反対するというのは、果たして「思想」の問題なのだろうか。見ず知らずの人間たちが武力持ってやってきたら普通反対しませんか? また、そうやって獲得したって統治たいへんやんと結果を心配して反対する、道義的に反対する、暴力を伴うから反対する、今金ないから反対する、と反対理由はいくつもあるだろう。
その前に、赤というのは、近代においてはフランス革命の頃そんな旗が多数振られていたような錯覚に陥るが、決して主要なアイテムであったわけではないと思う。むしろ、赤いフリギア帽をかぶるなどして連帯を示したと言われているのが赤いアイテムとして有名ではなかろうか。フリギア帽はそもそもリバティー、自由の象徴なので共産主義とは全然関係がない。事実今でもこの帽はアメリカの議会とかいくつかの国の紋章になってる。
赤い旗というのは、既に中世において、城の籠城などで徹底抗戦を示すものとして認識されていたらしい(多分白旗がその反対)ので、そこから、革命において赤い旗をあげるという形式が出て来たんだろうか。ある意味わかりやすいですけどね。赤は血の色、血をかけても屈しないぞというわけなんでしょう。
と、よく考えればこれは共産主義を一意に示す色では全然ない。単に20世紀においては変革といえば多くの場合共産主義がかかっており、わけてもソ連が赤い旗の国旗を作ったから赤または赤い旗が共産主義を言い表すこととなった、と言うことなのか。
が、しかし、1919年において、朝鮮人は独立すべきという人のどこが赤なのか?
いうまでもなく、独立と共産主義は同一ではない。
どうしてそう思ったんだろう? よく考えると不思議だ。
1917年ロシア革命が起こる前に既に朝鮮は併合されており、その時にもきっと反対派の人はいたでしょうが、その人たちは赤とは呼ばれてないでしょ?
多分、レーニンが、民族自決権の行使を革命と結びつけたあたりから、民族が独立しようとすることと社会主義を目指す革命がわかちがたくなってきた、ってこと? このへんの書物をしかし、一体どれだけの人が知っていた?
しかし、いやその前に、シンプルに、上で書いたように民族が他の民族の支配をはねつけるための実行行為は、いずれにしても大変革、すなわち革命となることは大ありだとは思うが、それを社会主義の実現とか帝国主義との闘争ととらえる必然性はないでしょ?
レーニンがその時々の事情をそのように解釈し、かつ欧州情勢としてはロシア帝国を崩したい(&ポーランドを独立させたい)人たちもいただろうから法外に受けたかもしれない。が、そんなこと間に受ける必要はないでしょ?
何を言ってんだいと思って聞き流せばいいじゃないか(笑)と私は思うわけだが、大日本帝国は聞き流せなかったようで、これを赤の「思想」ととらえ、もって、赤色分子とみると目をつりあげ、まったく不要不急の敵を作っていったということだろうか。
というか、現象として見た場合、大日本帝国みたいな異論が大嫌いな仕組みにあっては、実のところ異論を述べる者を排除する理由となるなら赤でも黄色でもなんだっていいんだろうなとは思う。そもそも自由主義を嫌いまくってたわけだし。今でも思想的なリベラリズムは嫌いまくってるからここは一貫性があるのかもしれない。が、日本の近似的一党独裁の政党名は自由民主党、リベラル・デモクラティックだ。そしてここが保守派。なにそれ?
こうなってくると、思想の整理もないし、何を根拠にそんな名前を持つのかについての深刻な考えというのもない。
そして、時流にまかせて、ついには戦況をいぶかしがる自国民を赤扱いすることとなるという意味不明な使用例もあった。戦況をいぶかしがることは思想に基づくのだろうか(笑)。
いずれにしても、1918年から1923年あたりというのは日本にとっては本当に暗黒の時代だと思う。三一独立運動、五四運動があり、日本の当局者はいずれの場合もインパクトに恐れをなして潰しにかかり、そして、その間にシベリア出兵という、実に壮大なスケールの無駄で迷惑な欲望の発露のような行動を取り、それが失敗に終わった直後に関東大震災が来る。
ここをしっかり開けないで、周辺との関係を良好にといっても限界があると思う。そして、他者との関係のうちに自己を見られないのだとしたら、それは偽りの自己を語っていることにしかならないだろうとも思う。
いやしかし、日本のデタラメさってすごい。
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関東大震災←五四&三一&シベリア出兵
紅旗征戎我がことに非ず・・てことわざもあるし。
その元は一つは漢の旗。
劉邦・劉秀の漢の旗でしたか。
だから日本の保守はもっと紅旗を掲げてしかるべきなのですが。
て保守派が自国民を赤呼ばわりするのは、自分たちが反日本勢力であることの証明。
ってひねくれた話。
ではまた。
アカとレッテル貼るのもそう、トロツキストというレッテルもそう。
寧ろ、敵集合のうち味方につけられる部分を切り崩して敵の本体を孤立させる事こそ最善の戦いかたであり、それが徹底されれば、敵の本体にたいして教育的指導の名目のもと、死者ゼロで勝利を収められる可能性もある。
結局、日本の支配階層の連中という奴等は血に飢えた変人なのかもしれない。