9月1日といえば関東大震災の日。
この出来事は災害と復興という視点からも重要な話だが、これは国際情勢から言っても非常に興味深いし、日本の歴史にとっても相当に重大な出来事だったんだろうなと思ってる。
あと、本当に江戸から東京になってしまったのはこの出来事のせいかもな、という観点もありかも、と思う。建物が壊れたのと、この大災害によってそれまで江戸から引き続き住んでいた人たちが大量に主に北関東に移動してしまったと言われているため。
江戸からの人口流出は戊辰戦争の時に、それまで江戸住まいをしていて、すっかり江戸の人になってた各藩の大名屋敷関係者が各地に散って、これで主に山の手方面側のブロックが入れ替わりになって、関東大震災で下町住人がばらけ、さらにその22年後、東京の空襲によって再びあちこちで人口の入れ替わりが発生する。
という具合なので、東京がアイデンティティを持ちづらい都市になっているのも無理はないところはある。むしろ、今言う首都圏という大枠が、大多数の人たちの3代から4代にかけての移動の軌跡からいえば、一つのホームなのかもな、などとも思う。
国際情勢から言っても非常に興味深い。
去年も書いたけど、私はこれをシベリア派兵というか介入戦争への入れ込み、通称シベリア出兵の問題を抜きにして語るのは、全体ピクチャーを見失うんだろうな、といった感じで見ている。
で、結果として1922年というのはこんな感じだったと思うわけですよ。
つか、明治政府って日露戦争あたりから後の統治に失敗してたんじゃないか、という視点を持って眺めるのもいいのではないかと最近思ってる。一つには産業構造の変化によって、貧しいが農民というポジションの特質として食べ物を自給できる可能性のあった人々を大量に、なんでもかんでも賃金次第にしてしまったため、物価動向によっては不満が暴発に代るポテンシャルを常に抱えることになった。これって、先進国がみんな通った道ですね。で、明治朝政府はこれを外に棄民していってみたり、なんだりかんだりしたんだが、結局これを最後まで解決できなかったんだと思う。
そっちの話はともかく、しかしながら、関東大震災を巡るある種の暴発の物語にシベリア出兵という大失敗という補助線を引いてみると、明治朝政府の特に陸軍が陥っていた混乱は通常考えられているよりずっと大きかったんじゃないのかな、と思う。
慰安婦合意の見直し勧告と関東大震災周辺のこと
といったところ。
で、タイムラインにしてみれば、
1917 いわゆるロシア革命、またはWW1 東部戦線大混乱
1918 1月 米ウィルソン大統領十四か条の平和原則発表
1918 11月 ドイツ帝国で革命、ヴィルヘルム2世が廃位、WW1終戦へ
1919 ベルサイユ会議 五四運動、三一運動
この中で、1918年の夏ごろからシベリアに兵を出す算段をしていって、こんなことになる。(wiki シベリア出兵)
日本では、寺内内閣のときにロシア革命への干渉戦争として始められたシベリア出兵であったが、1921年のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。会議のなかで、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。こののち内閣総理大臣となった加藤は1922年6月23日の閣議で、この年の10月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。
つまり、1923年9月1日に関東大震災が起きた時というのは、しぶしぶながら陸軍が沿海州から撤兵した後で、まだ樺太方面には兵が残っていたので最終的な撤兵まであと3年もあるといった時期。また、この間、1919年に関東軍が軍として独立した。
で、このシベリア出兵問題は、7万数千人の兵を出したのみならず民間人も引き連れて行っているので、これってつまり、日本が本格的に大陸で強盗集団になる一里塚と認識すべきだろうと思う。これ以降、本格的に居座りが始まる。
それは対ロシアでもあるが、しかしながら、対中国、対朝鮮でもあり、そして、前者というよりむしろ後者を通して日本の社会問題に結びついているのではないのか、と思う。
上海条約機構サミット、山東省青島で行われる
よくシベリア出兵で、ロシアに行って赤くなってきた奴らがいて、みたいなことが書かれてるけど、これは、ロシアに行ってマルクス主義お勉強してきたみたいなそんなあられもない話のわけはない。
そうではなくて、このへんで日本の中に、世の中には独立運動してる奴らがいるという事象を通じて、抵抗、階級というアイデアが入って来た、って感じじゃなかろうか。
えらい奴らが俺らを使って戦争して儲けやがる、という調子であり認識。
いや、一般の日本人がどれだけそうだったかはかなり怪しいところはあるんだが、少なくとも、明治朝日本というレジームを支配している支配層は、この動きをそう受け止めたんだろうと思う。ここが重要。
だからこそ、関東大震災時の怪しい動きを通じて、1925年の治安維持法制定にこぎつけ、人々の口を閉ざして、動きを制して、以降ほぼ100年にわたってこのレジームが運用によって続いている、という感じではなかろうか? 1945年に一回壊れたかのようなことになってるけど、いやぁ、運用の方が強かった、みたいな。
そして、こうやって考えた時、政権とか国に抵抗、いやそれどころか、多少の文句を言う人を見ると、左翼だ、と認識する人が日本にたくさんいるのもわかるというものではあるまいか。
マルクスが何かを言ったその話とか、資本主義の進展に伴う国内矛盾を解消するための再配分の話じゃなくて、オーソリティーに抵抗する者こそ左翼だ、という認識の仕方が日本では優れて強い。これはフランス革命という読んだことしかない話から来るよりも、もっとビビッドに、上記の歴史の残滓ではなかろうか、と思うわけです。
■ 怪しい動きと弱い抵抗
上で怪しい動きに下線を引いたけど、怪しいというより、震災時に軍と内務省が動き、そこから警察が動いたことは知られている事実関係なんだから、関東大震災時の混乱において当時の日本国政府は国家的に関与していた(したがって相応の責任がある)という問題に争いはないと思う。
が、去年2015年に日本国政府は、関係ねーよ、と閣議決定してる。
関東大震災「朝鮮・中国人虐殺」の政府関与「見当たらず、遺憾の意表明予定なし」 政府答弁書閣議決定
政府は12日、大正12(1923)年の関東大震災の際に起きたとされる朝鮮人、中国人の「虐殺事件」への日本政府の関与について、「調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」とし、「遺憾の意を表明する予定はない」とする答弁書を閣議決定した。
民進党の有田芳生参院議員が質問主意書で、平成20年に政府の中央防災会議の専門調査会が過去の災害教訓をまとめた報告書に、日本政府が「朝鮮人虐殺」に関与したことを示す記述が含まれていることを指摘し、事実関係をただした。
そりゃあんた、調べ方が悪いんちゃうの、といったところでもあるし、あっても認めないんだろうなとかも思うけど、こういうのをこのままにしておくのは、もちろん政府が悪いんだが、でも、学者、ジャーナリズムも弱いと思う。
前から何度も言ってるけど、シベリア出兵という大きな出来事を日本国内での米騒動のついでの話にしか登場させないできた、つまりインパクトをきれーーーーに抜いて歴史を語って来たのが日本の歴史学者さんたち。これはもうものすごく反省してもらわないとならない。
で、ようよう100年が経とうという時になって、日本史学プロパーでないところから出版されたのがこのご本。
シベリア出兵 - 近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書) | |
麻田 雅文 | |
中央公論新社 |
よくぞ書いてくださいましたと大変喜んでいる私ですが、それでも、日本史学会やら日本のジャーナリストを含む書き物業界の人たちの文の中の第一次世界大戦あたりの認識が変わるところまでは行っていないようだ、というのが今日の現状ですね。
でまぁここを乗り越えないと東アジアの私たちというアイデンティティを隣近所との調和のうちに立てられない。(だからこそ、反対する人たちもいるわけなのでしょう)
■ オマケ:圧制と抵抗
関東大震災の混乱を書き留めた多くの人々の文を読むと、とてつもない軽薄な悪者もいる一方で、立派というか普通というか、良識的、常識的な人々がそれらの、「朝鮮人」という記号に反応して群れをなして獲物を狩ろうとするかのごとき野蛮人に眉を顰め、なんとか知恵を絞ってあたりの被害を最小限にしようとする人々がいることに安心させられる。
証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人 (ちくま文庫) | |
西崎 雅夫 | |
筑摩書房 |
そして、書き残した人々もまた立派。彼らはこれを誰かに知らせなければと思うからこそ書き留め、発表したのだろうと思う。
これは一つの抵抗だと思う。記憶し続ける、忘れないことは不愉快な権力に対する抵抗の証というべきだもの。
でもって、そうであればこそ、どうにかしてこいつらの口を閉ざし、脳みそひっかきまわさな、という圧制派、専制派を活気づけたんだろうなぁとかも思う。そのピークが、上から一斉に同じ思想を強制する仕組みの完成形が、文部省が「国体の本義」を書いて時なのかも(1937年)。遠いようだけど大震災からわずか14年。
さてしかし、そうであればこそ、例えば宮澤喜一みたいに、何が何でも自由を奪われたことが問題だったとなんのかんのと抵抗しまくる後の人が出て来る。戦後の自民党はおおむね半分はこの線を理解していた人たちだと思う。あれはさすがにいかんかった、と。
また、1910年の大逆事件を受けて、徳冨蘆花の名高い謀叛論が来て、
諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
この東大で行われた講演を聞いた or 刺激された人たちの中に南原繁がいたとかいなかったとかで、その南原が戦時中にもかかわらず丸山真男に日本を研究するよう課題を出す、という系譜も抵抗の系譜かもしれない。
しかし、やっぱり口を塞がなと安倍が来た、と。次は誰かいるだろうか?
いやマジで、この虐殺パターンって後のバンデラ主義者あたりの虐殺の前駆って感じ。
しかも自警団の中の多くの部分は在郷軍人だとすれば(そうだと思いますが)、これは上から扇動している。
単なるヘイトを超えた問題だと思います。実行力を伴うヘイトと、ただのヘイトは区別されるべき。
ということはこれはホロコーストスタディーズに資料提供した方がいいくらいでは?
数が限定的で済んだのは、軍、特に海軍の中に冷静な人間がいたことが非常に大きいとも思います。リンチが発生したら実力組織しか戦えないですから。ここは褒めたい。しかしここだけ見て褒めるのは話の矮小化。