黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

謀反は難しい

2016-02-07 23:54:57 | 思索系
大河ドラマ「真田丸」。このたびの話題は、真田家、
徳川家などが「本能寺の変」にふりまわされるといった
話。時代は1582年、幸村16歳、信之17歳である。
ウィキペディアの滝川一益の項によると、一益が事変を
知るのは5日後の6月7日、このたびの段階ではまだ
知りえていないことになる。一方、ドラマを見て察するに
ドラマでは上杉氏は事変を二、三日で知ったことになるが、
同氏は実際そんなに早く事変を知ったのであろうか??
同氏と戦っていた柴田勝家が事変を知って北ノ庄城へ撤退
するのが「6日の夜から」となっているだけに、疑問が残る
(ウィキペディアの勝家の項を参照)。いずれにしても、
このたびの「本能寺の変」により旧武田領は空白地帯と
なり、無事逃げ帰った徳川家康や上杉、北条といった
大大名から真田などの武田遺臣、地元の国人衆に至るまで、
少しでも多くの土地を得ようという奪い合いになるのである。
これを「天正壬午の乱」というそうであるが、ウィキペ
ディアの昌幸の項を見ると、実際の当時の昌幸が最初にした
ことは上杉氏に接近することではなくて、近隣の武将を
少しずつ自分の家来にしていく事だったように見受けられる。
そして、同項によると昌幸がそうした動きを見せるのは
遅くとも6月10日、忍者と縁が深いとされる真田家とはいえ、
やはりドラマほど事変を早く知りえたのか、まだ疑問は残る。
まあ、「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、
ドラマのように次なる主君を選んでいるよりは(道は遠くても)
大名としての独立を目指しているほうが面白かろう。

しかしながら、ドラマで父・昌幸に織田家へ忠義を貫くよう
説く信之の「律儀さ」には違和感を覚える。『決定版 
真田幸村と真田一族のすべて』の著者もむしろ私の想像に
近いであろうが、想像するに、当時の信之もまだ乱世に生き、
父親の背中を見ているだけのもので、後世の信之の徳川に
対する「律儀さ」はむしろ、そのころの信之が唯一の
処世術として後天的に身につけた性質であるように思える。

ちなみに、ドラマのなかで滝川一益が奥州についてちょっと
言及していたのでちょっと述べるが、実は伊達政宗は真田
幸村と同い年。晩年の政宗がこれに気づいていた可能性は
低いかもしれないが、幸村の娘が片倉という政宗の重臣に
生け捕られ、その縁で他の子女も世話になったりしたのも
何かの縁であろうか。伊達政宗は、現代人からはしばしば
「もう少し早く生まれていれば天下取りに名乗りをあげ
られていた」みたいに言われたりするようだが、真田家に
関しては(やはり結果論ではあるが)まず天下を狙うには
身上が小さすぎるし、まして父親の昌幸ならいざしらず、
幸村などは結局自らが真田家当主として領国経営をする
経験を得られぬまま死なねばならなかったので、幸村の
天下取りなど夢のまた夢であったように思えてならない。
やはりいくら頭が良くても、実務が無いとなるとそれは
大きなハンディであったような気がしている。

一方、かつて某歴史番組で「芸能界のナンバー2」を
自称していた西村雅彦さんが演じる室賀正武についてで
あるが、『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』によると
室賀氏は真田と所領を接していて仲が悪かった家の一つと
される。かつて、昌幸の父・幸隆の時代の真田家はたしか
当時所領を接していた村上義清と仲が悪かったと記憶して
いるが、この義清の子の国清は1584年ごろ、彼の主君と
なっていた上杉景勝によって海津城代を辞めさせられる
こととなり、これによって村上氏は事実上滅亡すること
となる。


「裏切りが良いことではない」という点では私も同感で
あるが、理由は「倫理的にヒドいと思うから」ではなく、
むしろハッピーエンドに導くことが難しいからである。
裏切ろうと思うなら、裏切ることによって失うもの、または
新たなリスクの大きさを事前によく考え、裏切った後は
これに対処せねばならない。思うにこれは、裏切りの
スケールが大きければ大きいほど困難な作業である。
まず、消極的な動機のみでの裏切りではハッピーエンドなど
不可能に近いだろうし、明智光秀のように目算が甘くても
結局はうまくいかない。しかし、晩年の徳川家康のように
よほど慎重にすすめていけばハッピーエンドも夢ではなく、
その倫理面もいくらでも正当化できる。したがって、
穴山信君の横死に「裏切り」への因果を求めることには
必ずしも共感できない。彼の横死はただ単に運が悪かった
だけかもしれないのである。


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