歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

風が吹いた

2015年01月13日 | 日記
息苦しいな…

なんなんだこの閉塞感は…



大学を卒業して、神奈川に越してきてからそんな事をよく思う様になった。

もともと私は田舎の中でも田舎と呼ばれるほどの山奥で育った生粋の田舎者である。

子どものころに過ごした環境は、自分で意図していなくとも生涯自分につきまとう。

いい意味でも悪い意味でも。



18歳までを携帯電話の電波も通じないような場所で育てば、都会に憧れを抱くのは必然だ。

「東京に行かなければ自分の人生は始まらない」なんていう単純思考。

私はその頃東京が日本だと思っていた。



今思えば田舎に住んでいた頃はそのときで、親元にいることや田舎独特の囲い文化に嫌気がさしていた。

高校生までの私はまだ何かに出会う方法を全くと言っていいほど知らなかった。

それゆえに若者が田舎で暮らす事の限界を自分でつくってしまっていたのだと思う。

それはあまりにも世間知らずで、知った人の中で守られてきたからである。

私は覚えていないのだけど、高校を卒業するときに母にひどい事を言ったらしい。

その話を後になって聞いた時は胸が痛かった。



しかし今は街の喧噪に閉塞感を感じている。

無い物ねだりなのか、やはり育った環境か。



去年の春から夏にかけて、新潟の越後湯沢にて派遣ではあるが仲居の仕事をしていた事がある。

歩いた一歩先が山という環境に身を置くのは、高校を卒業して以来である。

仕事の合間はいつも寮の脇に置いてあるぼろぼろの椅子に座ってぼーっとしていた。

晴れの日も、雨の日も、旅館で浸水事件が発生した日も、いつもそこでコーヒーを飲んでいた。

厨房のおじさんはその前を通る度「こんな汚い椅子に座るのお前だけだぞ」とか言っていたけど、

本当は自分も座ってみたかったのだと思う。

大変な仕事だったけれど、木々に囲まれゆったりした空気に触れることで田舎の心地よさを思い出した。



私が育った家は中も外もないような開け放たれた家だった。

いつも風が吹いていて、吹き抜けの高い位置にある窓からは日差しが差し込み昼間は電気がいらない。

犬のソクラテスが出たり入ったりするものだから、床は基本的に泥の痕が絶えなかった。



都会の人は窓を閉めたがる。

排気ガスとか、外に音が漏れないようにとか、家に虫が入らないようにとかいろいろと理由があるらしい。

それでも私は家の窓をあける。

隣の家のおじいさんが庭で作業している音が聞こえる。

音楽家の逆隣の家から聞こえるのはレッドツェッペリンのギターリフ。

遠くの方で誰かが誰かを呼んでいる。

それだけで、閉め切られた部屋で勝手に凝り固まった自分がじわじわと氷解し、冬の澄んだ空気に馴染んでいく。

そこでなっているニール・ヤングのハーベストとさっきいれたばかりの熱々のホットチョコレート。



そして、風が吹いた。



それが一番大事。



散歩をしていたらだだっ広い空き地を発見。
コメント
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