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歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

倫理崩壊と頑固おやじ

2018年04月09日 | 空想日記
高校生の頃「倫理」という選択科目があり、私はそれを選ばなかったけれど、今更その内容が気になっている。

わざわざ高校の授業で学ぶ倫理とはなんだったのだろうか。



大人になって年を重ねれば重ねるほど世界のいろんなことがわかっていくのだろうと思っていたが、

少しずつ年を重ねてたくさんの知識と思しきそれらに触れれば触れるほど益々わからなくなっていく。

自分でも信じられないくらい何にもわからない。

荒れた大海で思考の渦にはまってしまったとでもいうのか。

それとも灼熱の砂漠で方向が定められた直線上をおぼつかない足取りで歩いているのだろうか。

どちらにしても嫌だな。



昼のワイド番組で弁護士が「あなたはそれが正義だと思っているのですか?」と誰かを問い詰めていた。

セ、せ、正義!?

勝手にその言葉はもう効力を持たない過去の遺物だと思っていたから、不意をつかれた。

言葉とは意味を辿っても終着地点がない不思議な生き物だ。

それをみんな無自覚に理性をもって、最大公約数として認識された意味を意味として認定してる。

もちろん「意味」は時間を経て変化もするし認識に多少のズレはあるだろうけど、修正可能な範囲内だ。

しかし倫理を扱う言葉は非常に繊細で取り扱いが特に難しい。

最大公約数がないといっても過言ではない。

それだけに皆使うのを避ける。

そういう意味ではあの弁護士はすごいのかもしれない。

自分の中にある正義を信じている。

正しいかそうでないかは横に置いて結局はそれしかないのかもしれない。



システムを理解する能力ばかりが上達して、その代わりに自分の考えが薄れていき、無機質になっていく。

そしてぼんやりと大きな何かに同化していく感覚だけが残る。

私の倫理観は多分結構崩壊している。



家のトイレに私の好きな押井守監督の『凡人として生きるということ(2008、幻冬舎新書)』という本を置いている。

トイレでしか読まないからまだ半分くらいしか進んでいないけれど、結構面白い。

内容が面白いというよりは、押井守の頑固おやじ感が面白い。

うたい文句はこうだ。

ーーーー
世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。
が、5%のために世の中はあるわけではない。
平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。
しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな“嘘”が“常識”としてまかり通っている。
嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。
自由な凡人人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。
ーーーー

彼は若さこそ価値があるなんてデタラメだ!そんなデマに扇動されるな!と言い切る。

独断も独断で、明確な根拠がないのが斬新だ。

強いて言えば、理屈の根底には押井守の人生がある。

だから読んでいてとても人間臭い。



最近の傾向として何でもかんでも条理をわきまえ過ぎているのかもしれないと思う。

現実的であろうとするし、中立的であろうとする。

それは物事をより正確に捉えようとする努めだが、そのせいで「正しく」なりすぎる。

「根拠ある正しさ」を武装した戦士は一見強いが、鎧のクッション性が足りず思わぬ攻撃にあい一瞬で粉砕してしまう。

案外強いのは理不尽な人間臭さだったりして。

今こそ救世主頑固おやじ戦隊の活躍どころだ。


道端の花。

静かな黄昏時

2018年03月29日 | 空想日記
頭の中をすっきりさせたくて、体を伸ばす。

電気もつけず暗いまま、少し涼しくなった風に当たると気持ちがいい。

窓から低い橙色の日が差し込み、部屋に長い影を落とす。

こういう時間帯には非日常的な物語の気配を感じる。

音楽をかけるならフジコヘミングが奏でるショパンのノクターンがいいだろうか。

ゆっくりと静かに、いつの間にか日は暮れる。

こんな時間が毎日あったことを、なんだかちっとも思い出せない。














姿勢問題

2018年03月23日 | 空想日記
日本人は姿勢が悪いらしい。

噂程度の情報だけど、周りを見渡すと確かに男女問わず猫背が多い。

実際に私も猫背だ。

昔近所の和尚さんが成田空港での人間観察の話をしてくれたことがあったが、

胸を張って堂々と歩く海外勢に混ざると日本人は姿勢が悪くて相当目立つらしい。

農耕民族であった名残だともいうけれど、内気な国民性も原因ではなかろうか。

個人的にはそのしょぼくれた感じも嫌いではないが、

都合よく自分だけは姿勢よく格好よくありたいと思うのはしょうがあるまい。



姿勢を正すときによく使われるアドバイスが、

「頭のてっぺんから糸で吊るされているようなイメージ」というやつ。

私は以前からこれに違和感を感じている。

糸で矯正できるほど猫背は甘くない。

多分一本の糸では人間の重さに耐えきれず早々に切れてしまうだろう。

では世界最強の強靭な一本の糸ではどうだろうか。

これもだめだ、一本の糸である以上位置が定まらないのでフラフラしてしまい心許ない。

では無数の糸で固定してみるか。

これもやっぱりだめだ、糸の数だけ集中力が分散してしまう。



「あくまでイメージの話だから」と思うかもしれないが、

イメージの話だからこそとことん検証して自分の信用できる方法を探さなくてはならないのだ。

イメージに穴があると、思い込みの力が薄れてしまう。



そこで考えたのが「神様に上から頭を引っ張ってもらう」というイメージ。

神様の力強い腕で引っ張ってもらえれば、猫背どころか体全体が伸びて骨盤の歪みまで治ってしまいそうだ。

この場合きっと神様は「わしゃこんなところで何をやっとるんだ。」と自問自答するだろうね。

それに相当暇じゃないと話にならない。

あと皆がこのイメージトレーニングを取り入れてしまったら、神様の数が足りなくなる。

世界中の宗教の神々、神話の神々ではあき足らず、

挙げ句の果てには日本全国に点在している八百万の神々まで引っ張ってくる事態になりかねない。

とりあえず今のところまだ私一人だから選びたい放題だけど、

しばらくは「神様」という抽象的なイメージに頼っておこう。


ツギハギのハリボテ

2018年03月13日 | 空想日記
子どもの頃、私はもっと確実なセカイに暮らしているのだと思っていた。

セカイなんていう認識も持たぬまま、掌に収まるほど小さい意識の中で目の前にあるものだけを見ていた。

いつから私の中のセカイが奥行きを持ちはじめ「世界」になったのか定かでない。



あの頃信じて疑わなかった全てのきちんとした世界は、

実際のところ想像よりずっと曖昧な地面の上に建っていた。



大人に従順な子どもだった訳ではないが、それでも大人という存在をどこかで信じていたような気がする。

子どもと大人は明確な線が引かれた全く別の存在だと認識ていたわけで、

だからこそ飽きもせず毎晩のように大人になることを恐れて枕を濡らしていたのだろう。

大人は涙なんか絶対に流さないと思っていた。

伝統を重んじるどこかの部族のように危険を伴う通過儀礼を経ていれば明確な大人になれたのだろうか。



大人だけでない、私は「日本」という構造体を必要以上に完璧な物だと思い込んでいた。

不明瞭な道具をかき集め夢想した末にできあがった抽象的な「日本」を無責任に信じていた。

その「日本」が何なのか考えもせずに。

3.11で「日本」を覆っていたヴェールがはがされ、それが想像よりずっと出鱈目な存在だということを知ったのだ。

いや、紛れもない現実を突きつけられて初めて「信じていたかった」だけなのだということを思い知ったという方が近いかもしれない。

そこで見えたはずの現実もほんの一部に過ぎないということをすでにみんな知っている。

そう、みんな知っている。

ところが「知っている」という免罪符は存在しないのだ。

それは自分自身に対する心の保険くらいにしかなり得ない。



私は煌びやかなテレビの世界が合板で作られていることを知っている。

セットの裏はむき出しの木材だということを。

しかし私はそれに目をつむって、あるいはそれを忘れて心から番組を楽しむことができる。



こんなことを考えるのは小説『ルー=ガルー』で京極夏彦のまどろっこしい文章を読んだせいかもしれない。

世の中のあらゆるものが数値化されたハイテクな近未来を舞台とするSF小説の中で彼は以下のように語っている。

「社会とか全体とか、なんとよぶのかよく解らないけど、

何か大きな、とてもしっかりしたものが中心にあって、

自分たちはそのしっかりしたものにどこかで繋がっている。

そう思うことで安心している。安定を保っている。」



子どもの頃はそれが親であったし、成長するに連れてそれが社会や国になったりするのだろうか。

ツギハギのハリボテな「日本」では、セカイが世界に変わったところで何ら変わりないように思う。

セカイは結局セカイのままで、今も目の前のものだけを見ている。


二次元に潜む寝そべり怪人

2018年03月06日 | 空想日記
じわじわと背中から伝わる熱、

幾度となく視界をまたいだ何者かの股、

目線の先にある白い天井。



3月に入り随分暖かくなったとはいえ、まだ寒い夜もある。

私の家では数年前から冬にこたつを出すのをやめた。

こたつの魔力に勝てず、何もできない長い冬を毎度のように悔いてきたからだ。

その代わりに購入した電気カーペットではあったが、今そこに寝そべり天井を眺めている。

寒さから逃れるために暖かい床に張り付いているというわけだ。

これはもしかしたらこたつよりタチが悪いかもしれない。

イス・テーブルスタイルの部屋で床にへばりついている姿はなんとも奇妙だ。

その姿はまるで床という二次元に潜む寝そべり怪人。



床から垂直にイスやらテーブルやらが伸びている。

この部屋を立体的に、なおかつ縦横無尽に移動できる夫は三次元の住人といったところか。

行動範囲が広くて羨ましいこと。


川崎のソリッドスクエア。建物内に水が張ってある不思議な空間。