柴田には、興味の展開に加減を知らないと言う悪いところがあって、それは昔から言われて来た。大学の時も、1つの研究課題に集中せずに、興味が発散する事が致命傷だと注意を受ける事、度々であった。研究室を持ってからは、押さえる人が居ないのを良い事に、もう発散どころが迷走を続けている状態と思われている。
で、柴田自身がどう持っているかと言うと、それほど無茶なことしているつもりはなくて、きちんと勝算を見込んでやっているつもりなのです。基本的にチャンスはOKと言う訳ですが、現実的な努力で何とかできる範囲だと思っているのです。本人は、決して無謀だと思っていないのです。
しかし、この挑戦を成功させるための努力は、それほど半端ではなくて、これを担当する学生さんには、非常に大きな苦労を強いているようだ。迷惑に思って、逃げてしまう学生さんも居るし、何とか我慢してくれている学生さんも居る。どうも、自分の学生の頃と比較して、まだマシじゃない?と思ってしまうのだ。
大学生の研究室のころは、朝8時に研究室に入り夜10時に帰ると言う14時間勤務で、昼と夜は研究室の仲間と食事をしていた。これを月から土まで続け、何もなければ日曜も研究室に居た。で、これが異常かと言うと、大学の研究室と言うのはそれが普通で、皆そう言うものだと思っていた。
これを3年も続けると20台でもさすがにガタが来て、医者から改善命令が出て、朝9時からよる8時までの11時間勤務に縮小した思い出がある。皆、研究成果が出せず、ゼミの資料が作れず、いつも徹夜ばかりで、追いつめられる事が常であったが、落ち込んでいる暇もないほど、皆忙しかった。
あれを思うと、今のまだまだ楽な方だと思えてしまう。あれだけ背伸びをさせられたので、今でも余程の事まで耐える自信がある。何度も絶対絶命のピンチを経験したが、何とか落としどころを作って、何とか仕上げると言う自信がついたと言っても良いと思う。今になって思えば、貴重な経験だった。
学生最後の学位取得でも、無理に無理を重ねて、公聴会はふらふらになりながら準備を進めた。体が完全に弱り切って抵抗力がなく、指の爪のさかむけが化膿して、どんどんひどくなり、指示棒が持てないほど腫れ上がってしまった。しょうがないので、包帯をしてそこに指示棒をガムテープで巻き付けて発表をした。
今になって思えば、壮絶な公聴会だった。準備の段階から、あまりの緊張に痛みを忘れるほどであった。今思うと、あれがハイテンション体質の始まりだったのかもしれない。あれから、がむしゃらに走ってきて岐阜高専で12年になるけど、その加速度は増すばかりである。
柴田が尊敬する先生の中で、H先生は重い病気を抱えながらも研究に全力で当たり、あるゼミの最中に容態が悪くなり、亡くなられたそうだ。柴田はこの先生の1万分の1ほどの人物だが、そう言う人生を送りたいと思っている。別に、無謀になると言う事ではなく、何事も全力でぶつかると言う事である。
人生は、長く生きることが目的ではなく、良く生きることが目的であると思う。その良くと言うのは、まずは自分で自信を持てる人生である事、つぎに社会を改善する何かを成しと遂げる事、最後に歴史に名前を残す事、であると思う。1リットルの涙の亜也も柴田よりずっと短い人生でしたが、ずっと大きな人生だったと思うのです。
で、柴田自身がどう持っているかと言うと、それほど無茶なことしているつもりはなくて、きちんと勝算を見込んでやっているつもりなのです。基本的にチャンスはOKと言う訳ですが、現実的な努力で何とかできる範囲だと思っているのです。本人は、決して無謀だと思っていないのです。
しかし、この挑戦を成功させるための努力は、それほど半端ではなくて、これを担当する学生さんには、非常に大きな苦労を強いているようだ。迷惑に思って、逃げてしまう学生さんも居るし、何とか我慢してくれている学生さんも居る。どうも、自分の学生の頃と比較して、まだマシじゃない?と思ってしまうのだ。
大学生の研究室のころは、朝8時に研究室に入り夜10時に帰ると言う14時間勤務で、昼と夜は研究室の仲間と食事をしていた。これを月から土まで続け、何もなければ日曜も研究室に居た。で、これが異常かと言うと、大学の研究室と言うのはそれが普通で、皆そう言うものだと思っていた。
これを3年も続けると20台でもさすがにガタが来て、医者から改善命令が出て、朝9時からよる8時までの11時間勤務に縮小した思い出がある。皆、研究成果が出せず、ゼミの資料が作れず、いつも徹夜ばかりで、追いつめられる事が常であったが、落ち込んでいる暇もないほど、皆忙しかった。
あれを思うと、今のまだまだ楽な方だと思えてしまう。あれだけ背伸びをさせられたので、今でも余程の事まで耐える自信がある。何度も絶対絶命のピンチを経験したが、何とか落としどころを作って、何とか仕上げると言う自信がついたと言っても良いと思う。今になって思えば、貴重な経験だった。
学生最後の学位取得でも、無理に無理を重ねて、公聴会はふらふらになりながら準備を進めた。体が完全に弱り切って抵抗力がなく、指の爪のさかむけが化膿して、どんどんひどくなり、指示棒が持てないほど腫れ上がってしまった。しょうがないので、包帯をしてそこに指示棒をガムテープで巻き付けて発表をした。
今になって思えば、壮絶な公聴会だった。準備の段階から、あまりの緊張に痛みを忘れるほどであった。今思うと、あれがハイテンション体質の始まりだったのかもしれない。あれから、がむしゃらに走ってきて岐阜高専で12年になるけど、その加速度は増すばかりである。
柴田が尊敬する先生の中で、H先生は重い病気を抱えながらも研究に全力で当たり、あるゼミの最中に容態が悪くなり、亡くなられたそうだ。柴田はこの先生の1万分の1ほどの人物だが、そう言う人生を送りたいと思っている。別に、無謀になると言う事ではなく、何事も全力でぶつかると言う事である。
人生は、長く生きることが目的ではなく、良く生きることが目的であると思う。その良くと言うのは、まずは自分で自信を持てる人生である事、つぎに社会を改善する何かを成しと遂げる事、最後に歴史に名前を残す事、であると思う。1リットルの涙の亜也も柴田よりずっと短い人生でしたが、ずっと大きな人生だったと思うのです。