今からちょうど76年前の1942年2月15日に、英国領のシンガポールが陥落した。そしてそれが大英帝国没落の始まりだった。英国は戦争には勝ったが、日本軍に敗けてマレーとシンガポールを失ったという屈辱を拭い去ることは出来なかった。日本に勝ったのはアメリカであり、英国はビルマで反撃したが自力で植民地を取り戻せなかったからだ。アジアの人々が英国人を見る目が一変したのも当然である。彼等は英国人には勝てないと思っていたので反抗しなかったが、日本人が勝てたのなら自分達だって勝てると自信をつけたのだ。チャーチルも、一度落ちた権威を立て直すのは不可能だったと述べている。
そのマレーにおける大敗北は英国陸軍の無能が原因だった。英国陸軍上層部に賢明な人物がいれば、マレーもシンガポールも失わなかったであろう。陸軍の信じられないほどの無能、それはマチルダⅡ戦車をマレーに送らなかった事である。マチルダⅡ戦車さえあれば、英国はマレー北部で日本軍を食い止められたであろう。そして日本軍はガダルカナルやインパールのような悲惨な状況に陥ったはずである これに反対する日本人もいるだろうが、私だって日本人である。英国などより日本のほうが大好きである。でも事実はきちんと認めなければならない。ひいきの引き倒しでは判断を誤るのである 日本はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈して制海権を取ったし、日本の戦闘機は英国空軍を圧倒した。しかしデェンビェンフーの戦いを見ればわかるように、地上戦で敗けてしまえば取り返しがつかない。そしてマチルダⅡ戦車を配備された英国陸軍に日本陸軍が勝てたとはとうてい思えないのである。日本は英国陸軍のとてつもない無能さによって勝利したのである。英国陸軍は自分達の無能さを隠そうとして、チャーチルが対日戦に備える為に要求した兵力の増強を拒んだと述べている。しかし問題は兵力の増強よりその中身であった。日本との戦争が間近になっても英国陸軍はひたすら歩兵師団をマレーに送ろうとして、一台の戦車も送ろうとはしなかったのである。その理由は「ジャングルでは戦車は使えない。」なのだそうである。その思い込みで戦車を送らなかった。しかし日本軍はマレー北部のタイ領から多数の戦車を上陸させてマレー半島を進撃して最南端のシンガポールまで到達している。戦車はちゃんと使えたのである。マレー半島は中央に山脈があり東西に分かれていて環境が異なる。東側はマングローブ林が密集していて軍隊の通行は困難であった。だから日本軍は北のシンゴラとパタニに上陸したのである。西側に抜けるにはそれしか手段が無かったのである。もちろん英国側もそれを知っていて、日本軍が上陸したらタイ領に侵攻して反撃するマタドール作戦という計画も立てていたが、中立国タイに攻め込むのをためらってしまい、日本軍に先手を打たれて計画倒れに終わった。
マレー半島の西側はもちろんジャングルもあったが、疎林や耕作地があり人も多く住みついていて決して通行不能な場所では無かったという。マレーの特産品はゴムと錫であり、それを運ぶために鉄道や舗装された道路も南北に通っていた。シンガポールの港にむけてである。それを造ったのは英国である。それなのに調べもせずになぜ戦車が通行不能だと決めつけたのか。マレー戦で一台の日本軍戦車が破壊されて、搭乗員は全員戦死した。戦車長は陸軍少佐だったという。英国情報部が彼の経歴を調べたら、なんと戦争前にシンガポールで自転車店を経営していた男だったそうである。これは私が昔読んだ「シンガポール」という英国人の本に書かれていたことである。これが事実なら、日本陸軍は戦車将校を民間人に偽装させてシンガポールに送り込んでいたのである。その目的はもちろん、マレー半島を戦車が通行可能かどうかを調査する為である。彼は観光を理由にして頻繁にマレー半島を歩き回ったはずである。そして戦車が通行可能だと陸軍参報本部に報告したのだろう。ドイツのグデ-リアン将軍がアルデンヌ高原を調査して、機甲師団が通行可能だとマンシュタイン将軍に報告したように。 敵の日本軍が戦車は通行可能だと判断したのに、地元に駐屯していた英国陸軍が通行不可能だと決めつけていたのである。あまりの無能さに呆れるしかないが、日本人にとっては嬉しい限りである。馬鹿な敵ほど見ていて楽しいものはない。
では何で英国陸軍はそこまで無能な判断をしたのか。私は彼等が怠惰だったからだと思っている。軍隊を輸送するのには緻密な計画と膨大な資料が必要となる。一個師団は一万人以上もいる。それを毎日生活させ宿舎を与えトイレも必要である。一万人分のトイレである。計画通りにいかない戦場はしばしば糞まみれになるのである。思い出したくもないからか言う人は少ないが。それらを全て滞りなく準備するのが参報将校である。あらゆる資料を調べ緻密な計画を立てて文書にしてマニュアルを作成したはずである。一度歩兵師団のマニュアルを作ってしまえば他の歩兵師団にも使える。人数や装備が違っても変更を加えればいいだけである。ところが今まで輸送したことが無い戦車だとそうはいかない。とてつもなく重いから船から陸地に上げるだけでも大変である。戦車を受け入れる為には、全く新しいマニュアルを作成しなければならない。年中暑い中で汗まみれになって資料を調べ文書を作成しながら仕事に没頭せねばならない。マレーの英国陸軍参報将校達はそれが嫌だったのだろう。戦車は使えませんと言っておけば面倒な仕事をしなくてすむ。そしてマレーの司令部にも本土の参報本部にもそれを疑問に思う者が誰もいなかった。戦車が通れないはずのアルデンヌ高原からドイツ機甲軍の攻撃を受けて敗北したフランスの最期を見て、戦車が通れないと信じ込むのがいかに危険かと思い知らされたばかりだったはずなのに。
マチルダⅡは2890両も造られたそうである。しかし1942年前からドイツ軍相手では時代遅れとなり、アフリカ戦線には送られなくなっていた。そこで多数のマチルダⅡがソ連に援助として送られている。1941年からである。はるかに規模の大きいロシア戦線ではドイツ軍相手に使い道があったのである。残りの大多数は本国の倉庫で埃をかぶっていたのだろう。日本軍戦車を撃破し、動く堅固なトーチカとして歩兵を守り日本軍歩兵の白兵攻撃を撃退するために絶対に必要だったマレーには一台も送られなかったのである。1943年の9月から12月に東部ニューギニア(当然ジャングル地帯だろう)でマチルダⅡを配備されたオーストラリア第9師団が日本陸軍第20師団と戦い、第20師団は人員の45%の損害を出して敗走したそうである。マチルダⅡがいかに貴重な戦力であったかがよく分かる。しかし、そんな時期にそんな場所で勝ったって何の意味もない。1941年にマレー北部にマチルダⅡを幾らでも送れたのに一台も送らなかった、英国陸軍の無能と怠惰で英国の植民地は消えたのである。
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