ある日、私は都内の大通りで自転車を走らせていた。その目的は区立図書館のスポーツ新聞で求人欄を見ることである。私は働いてそこそこ金が貯まると辞めて読書や映画、漫画と酒を楽しむ日々を繰り返していたのだが、その金が尽きかけていたのである。その場合スポーツ新聞の求人欄で探すのが常であった。自分の住んでいる地域の図書館には望ましいものが無かったので区立図書館ならあるかもしれないと思ったのだ。私は節約を心掛けていてスポーツ新聞を買う金すら惜しかったのだ。なぜなら金は私にとって最も大事な「自由な時間」を与えてくれるものだからである。そうやって歩道のそばを走っていると車道との境界である縁石のそばに新聞が山積みになって置いてあり、しかも真新しいスポーツ新聞であると分かった。私は慌てて自転車を止めると降りて確かめてみると、当日発売されたスポーツ新聞が全てそろっている。私は大喜びで車道を背にして縁石に座り、つまり歩道側に向いたままひたすら求人欄を調べていた。
ところが何やら人の気配を感じたので顔を上げてみると、一人の中年男性が私を見下ろしている。中肉中背で服装も目立たずにどこにでもいるような普通のおじさんである。おじさんは物柔らかな声で「お兄ちゃん仕事探しているの?」と聞くから「ええそうです。」と答えると「お兄ちゃんいい体してるねぇ、肉体労働やれる?」と言うので「ええ体には自信があるんです。」と答えると「じゃあ俺が紹介してやるよ。」と言い出した。私は驚いたが悪くも無いと思ったのは、私が最も望んだのが自転車で通える所に集合場所のある飯場だからである。もちろん早朝に集まって、そこから都心や郊外の現場に行くのだが自転車で通えるのを探すのに苦労していたのである。そこで「お願いします。」と言うとおじさんは「じゃあ待っててね。」と歩道のちょうど正面にあるビルに向かって歩き出した。その時私は愕然とした。誰もいなかったはずのそのビル前には数人の男達がずらっと並んでいた。しかもその風体が尋常じゃないヤバそうな連中ばかりである。「ここは組事務所の正面だ!」と初めて気付いた。私は組事務所の正面にどっかりと座り込んでいたのだ。スポーツ新聞は毎日組が買って回し読みした後で廃品回収業者に引き取らせていたのだろう。サラリーマンが日本経済新聞を読むように彼らはスポーツ新聞に目を通すのも仕事なのだろう。よく見るとおじさんの入っていったビルの入り口には監視カメラが付いてあった。当時はとても珍らしかったのである。それでも私は縁石に座って待っていた。おじさんは親切そうだったからである。組員たちもやがてビルの中に入って行きしばらくすると、やはり中年のおじさんが「君が職探しの人?」と近づきながら声をかけて来たので建築関係の会社の人だと分かった。彼は「事務所に挨拶するからちよっと待ってて。」とビルに入ったあとすぐに出て来て、私を喫茶店に誘って仕事の説明をしてくれた。
仕事は土工でありたいして技能はいらないし、飯場も自転車で通える所にあったので私は喜んでそこで働いた。金が貯まるまで2年足らずもいたかなぁ。ある時、作業員をバンで送り迎えする運転手、背は低いが肩幅が広く両手は長くて太く蟹みたいで決して喧嘩したくない人、が「お兄ちゃんかい、行動隊長(確かそう言った)の紹介でうちに来たのは。」と言ったので、あのやさしそうなおじさんが行動隊長なんだなぁと思った。今ではその組事務所も消え失せてどこに行ったのか分からない昔の話です。