前回のブログで前田武彦が、吉本隆明の影響を受けた全共闘世代のマスコミ関係者達によって攻撃され、「バンザイ事件」を騒ぎ立てられて失脚したいきさつを述べた。しかし、前田武彦にも問題があった。彼はあまりにも敵が多く、味方がいなかったのである。人気スターとして勝手気ままにふるまっているうちに、孤立無援の状態に陥っている事に気付いていなかったらしい。
フジテレビの鹿内信隆が、「夜のヒットスタジオ」やその他のフジの番組から彼を降ろしたのは確かだろうが、民放テレビ局は外に四つもある。視聴率40%も取ったこともある前田武彦である。なぜ、フジが使わないならうちの局での声が出なかったのか。私は、全てのテレビ局の上層部と現場スタッフが前田武彦を嫌っていたからだと思う。彼の才能と実力を惜しんだのは、テレビ初期から共に働いてきた同世代の管理職クラスの人々だけだったのではないか。彼等が前田武彦を使いたいと思っても、上と下から反対されてはどうにもならない。テレビ局の現場で働く若いスタッフが前田武彦を嫌う理由は前回述べた。では上層部はなぜ嫌うのか。もちろん、前田武彦の日本共産党支持がその理由である。前田武彦は右と左から嫌われたのである。
日本共産党が政府自民党を攻撃するスローガンは、「対米従属、大企業優先」で数十年同じである。つまり大企業からもっと税金を取れ、労働者を保護させるために規制を厳しくしろと言い続けているのである。大企業にとって日本共産党は敵であるのは当然だろう。その大企業の多くは、民放テレビ局にとってお金を払って番組を制作させてくれる大事なスポンサーなのである。お金をいただいている旦那衆の悪口を言いふらしている連中の仲間になる芸人がどこにいるんだ。とテレビ局の上層部が怒っても無理はない。おそらく、前田武彦を使えば視聴率が上がり大企業のコマーシャルも多くの人々の目に入るので、結局は大企業の利益になりますと言われてしぶしぶ我慢していたのだろう。その我慢も「バンザイ事件」で吹き飛んでしまったのである。反共タカ派と言われた鹿内信隆だけでなく、民放テレビ局の上層部は「前田武彦を使うな」で一致していたのではないか。前田武彦には自分が「芸人」だという意識がなかったようだ。吉本隆明が暗に批判していたのもそこで、何を文化人面しているのか、お前は権力体制に媚びへつらう芸人だし芸人として生きてこそ存在価値があるんだ、というのが「芸能の論理」の主題だったと思う。
さらに彼にはテレビ界で反感を買いやすい面があった。仕事より私生活を優先させるのである。彼は立川談志の後をついで「笑点」の二代目司会者となった。なお今の笑点のテーマ曲には元々歌詞が付いていたのだが、その作詞者は前田武彦である。テレビの構成作家、タレント、作詞家、俳優と何でもこなしたのである。もっとも大橋巨泉や青島幸男も同様で、初期のテレビ界では才能のある連中が案外自由に何でもやったらしい。ところでその笑点の司会だが、前田武彦は一年ほどで辞めてしまう。立川談志のようにトラブル続きで降ろされたのではない。人気もあり視聴率も良かったはずなのに何故かというと、平日忙しくて会えない子供と日曜日にゆっくり遊びたかったそうである。それで人気番組の司会者を平気で辞めちゃうのである。さすがに前田武彦も後ろめたかったらしく、日本テレビも不愉快に思ったに違いないと自分で述べている。日本テレビには「ゲバゲバ90分」で一緒に働いた井原高忠がいた。彼は日本テレビ開局以来の仕事仲間で友人でもあった。前田武彦が干された時に井原高忠が彼を助けようとしても、笑点の恨みを忘れていない関係者から猛反対が出たはずである。
また、前田武彦が平気で番組を辞められるのはギャラがとてつもなく高かったからでもある。当時の雑誌に、大橋巨泉と前田武彦の年収は外のタレントと別格で桁が違うという記事があった記憶がある。前田武彦の趣味はボートで海を乗り回すことで、月数十万円のローンでクルーザーを購入したという。サラリーマンが自家用車を買うのも困難だった時代である。高収入のテレビ局社員からみても、前田武彦の暮らしは夢のようだったはずである。他局との視聴率競争で日夜激務に耐えていたテレビ局員達に、破格のギャラを貰いながら私生活を優先する前田武彦がどう思われたか想像がつくと思う。
前田武彦のギャラは全て彼の懐に入った。構成作家からタレントになった時に彼も芸能プロダクションに所属したようだが、売れ出すとそこを出て自分で芸能プロダクションを設立してタレントも抱えて売り込むようになった。つまり前田武彦は芸能界でも孤立無援だったのである。外の芸能プロダクションにとって前田武彦は商売敵である。商売敵が没落しようと誰も助けない。冷たく眺めているだけである。前田武彦がもし大手の芸能プロダクションに所属していたら、あらゆる手段を使って復活させてくれたはずである。いや、そもそも共産党の仕事など受けさせないだろう。前田武彦のマネジャーは、共産党の仕事を受けるかどうか前田武彦に聞いている。彼は素人ではなかったのか。プロの芸能マネジャーなら自分で断ってそれを伝えただろう。大事なタレントの将来にとって損か得かすぐ判断できないようではプロと言えない。前田武彦は確かにテレビ業界のプロだったが、製作のプロであり営業のプロではない。芸能界で長年飯を食って来た興行のプロ達にとって、素人のくせにしゃしゃり出て芸能プロダクションなど作った前田武彦は忌々しい存在だったはずである。小林信彦氏の「夢の砦」には、芸能界で権勢をふるう大手芸能プロダクションのやり手の男が出てくるが、そのじんわりした威圧感は裏社会の人間を思わせるものがある。素人が顔を出せる世界ではない。
こうして見ると、前田武彦がいかに孤立無援だったかがわかるであろう。彼の回りは、憎しみや反感や妬みがガスのように取り巻いていたのである。彼はそれに気付いていなかった。そして「バンザイ事件」というマッチに火を点けたのである。本来ならちっぽけな火である。そのまま消えてしまったはずである。ところがガスに引火して燃え上がり彼を火達磨にしてしまった。自分がなぜあれほど非難されたのか、前田武彦は最期までわからなかったらしい。