濁泥水の岡目八目

中国史、世界史、政治風刺その他イラストと音楽

前田武彦バンザイ事件の原因

2016-07-28 14:04:21 | エッセイ

 前回のブログで前田武彦が、吉本隆明の影響を受けた全共闘世代のマスコミ関係者達によって攻撃され、「バンザイ事件」を騒ぎ立てられて失脚したいきさつを述べた。しかし、前田武彦にも問題があった。彼はあまりにも敵が多く、味方がいなかったのである。人気スターとして勝手気ままにふるまっているうちに、孤立無援の状態に陥っている事に気付いていなかったらしい。

 フジテレビの鹿内信隆が、「夜のヒットスタジオ」やその他のフジの番組から彼を降ろしたのは確かだろうが、民放テレビ局は外に四つもある。視聴率40%も取ったこともある前田武彦である。なぜ、フジが使わないならうちの局での声が出なかったのか。私は、全てのテレビ局の上層部と現場スタッフが前田武彦を嫌っていたからだと思う。彼の才能と実力を惜しんだのは、テレビ初期から共に働いてきた同世代の管理職クラスの人々だけだったのではないか。彼等が前田武彦を使いたいと思っても、上と下から反対されてはどうにもならない。テレビ局の現場で働く若いスタッフが前田武彦を嫌う理由は前回述べた。では上層部はなぜ嫌うのか。もちろん、前田武彦の日本共産党支持がその理由である。前田武彦は右と左から嫌われたのである。

 日本共産党が政府自民党を攻撃するスローガンは、「対米従属、大企業優先」で数十年同じである。つまり大企業からもっと税金を取れ、労働者を保護させるために規制を厳しくしろと言い続けているのである。大企業にとって日本共産党は敵であるのは当然だろう。その大企業の多くは、民放テレビ局にとってお金を払って番組を制作させてくれる大事なスポンサーなのである。お金をいただいている旦那衆の悪口を言いふらしている連中の仲間になる芸人がどこにいるんだ。とテレビ局の上層部が怒っても無理はない。おそらく、前田武彦を使えば視聴率が上がり大企業のコマーシャルも多くの人々の目に入るので、結局は大企業の利益になりますと言われてしぶしぶ我慢していたのだろう。その我慢も「バンザイ事件」で吹き飛んでしまったのである。反共タカ派と言われた鹿内信隆だけでなく、民放テレビ局の上層部は「前田武彦を使うな」で一致していたのではないか。前田武彦には自分が「芸人」だという意識がなかったようだ。吉本隆明が暗に批判していたのもそこで、何を文化人面しているのか、お前は権力体制に媚びへつらう芸人だし芸人として生きてこそ存在価値があるんだ、というのが「芸能の論理」の主題だったと思う。

 さらに彼にはテレビ界で反感を買いやすい面があった。仕事より私生活を優先させるのである。彼は立川談志の後をついで「笑点」の二代目司会者となった。なお今の笑点のテーマ曲には元々歌詞が付いていたのだが、その作詞者は前田武彦である。テレビの構成作家、タレント、作詞家、俳優と何でもこなしたのである。もっとも大橋巨泉や青島幸男も同様で、初期のテレビ界では才能のある連中が案外自由に何でもやったらしい。ところでその笑点の司会だが、前田武彦は一年ほどで辞めてしまう。立川談志のようにトラブル続きで降ろされたのではない。人気もあり視聴率も良かったはずなのに何故かというと、平日忙しくて会えない子供と日曜日にゆっくり遊びたかったそうである。それで人気番組の司会者を平気で辞めちゃうのである。さすがに前田武彦も後ろめたかったらしく、日本テレビも不愉快に思ったに違いないと自分で述べている。日本テレビには「ゲバゲバ90分」で一緒に働いた井原高忠がいた。彼は日本テレビ開局以来の仕事仲間で友人でもあった。前田武彦が干された時に井原高忠が彼を助けようとしても、笑点の恨みを忘れていない関係者から猛反対が出たはずである。

 また、前田武彦が平気で番組を辞められるのはギャラがとてつもなく高かったからでもある。当時の雑誌に、大橋巨泉と前田武彦の年収は外のタレントと別格で桁が違うという記事があった記憶がある。前田武彦の趣味はボートで海を乗り回すことで、月数十万円のローンでクルーザーを購入したという。サラリーマンが自家用車を買うのも困難だった時代である。高収入のテレビ局社員からみても、前田武彦の暮らしは夢のようだったはずである。他局との視聴率競争で日夜激務に耐えていたテレビ局員達に、破格のギャラを貰いながら私生活を優先する前田武彦がどう思われたか想像がつくと思う。 

 前田武彦のギャラは全て彼の懐に入った。構成作家からタレントになった時に彼も芸能プロダクションに所属したようだが、売れ出すとそこを出て自分で芸能プロダクションを設立してタレントも抱えて売り込むようになった。つまり前田武彦は芸能界でも孤立無援だったのである。外の芸能プロダクションにとって前田武彦は商売敵である。商売敵が没落しようと誰も助けない。冷たく眺めているだけである。前田武彦がもし大手の芸能プロダクションに所属していたら、あらゆる手段を使って復活させてくれたはずである。いや、そもそも共産党の仕事など受けさせないだろう。前田武彦のマネジャーは、共産党の仕事を受けるかどうか前田武彦に聞いている。彼は素人ではなかったのか。プロの芸能マネジャーなら自分で断ってそれを伝えただろう。大事なタレントの将来にとって損か得かすぐ判断できないようではプロと言えない。前田武彦は確かにテレビ業界のプロだったが、製作のプロであり営業のプロではない。芸能界で長年飯を食って来た興行のプロ達にとって、素人のくせにしゃしゃり出て芸能プロダクションなど作った前田武彦は忌々しい存在だったはずである。小林信彦氏の「夢の砦」には、芸能界で権勢をふるう大手芸能プロダクションのやり手の男が出てくるが、そのじんわりした威圧感は裏社会の人間を思わせるものがある。素人が顔を出せる世界ではない。

 こうして見ると、前田武彦がいかに孤立無援だったかがわかるであろう。彼の回りは、憎しみや反感や妬みがガスのように取り巻いていたのである。彼はそれに気付いていなかった。そして「バンザイ事件」というマッチに火を点けたのである。本来ならちっぽけな火である。そのまま消えてしまったはずである。ところがガスに引火して燃え上がり彼を火達磨にしてしまった。自分がなぜあれほど非難されたのか、前田武彦は最期までわからなかったらしい。

 

 


「前田武彦バンザイ事件」と吉本隆明

2016-07-21 14:21:55 | エッセイ

 今から43年前の1973年に前田武彦は、いわゆる「バンザイ事件」によってテレビ界から長期間干されたが、彼がそのような目にあったのには吉本隆明が深くかかわっていた事は全く知られていない。私はそれを詳しく説明しようと思う。 

 そもそも「バンザイ事件」とは、1969年12月21日に毎日新聞で宮本賢治と対談して以来日本共産党の催しに出続けて来た前田武彦が、1973年6月17日に大阪の参議院補選で共産党公認候補を応援して、当選したらテレビで万歳しますと言ってしまい、本当に翌日の「夜のヒットスタジオ」で両手を上げてバンザイの恰好をしたというものである。しかし、番組終了直前ですでに音声も消えていたそうである。だから視聴者の大多数には何の事か分からなかったはずだし、苦情が出たわけでもない。本来なら忘れ去られたはずのこの行為が、前日の発言と合わせて「テレビを使って共産党支持を叫んだ前田武彦」という凄まじいバッシングの嵐を巻き起こして、彼は1980年代前半になるまでテレビ界から追放されたのである。

 ネットでこの件を調べると、前田武彦を追放した張本人はフジテレビのオーナーだった鹿内信隆になっているが、それはあまりにも表面的な見方である。そもそも鹿内信隆は、一般の視聴者と同じく「バンザイ事件」の事など何も知らなかったはずである。大騒ぎになってから始めて前田武彦の行為に怒りを燃やしたのであろう。じゃあ誰が前田武彦のささいな行為を騒ぎ立てて大問題にしたのか。私はそれが全共闘世代だったと思っている。彼等が前田武彦を憎んで忌み嫌い、引きずり降ろそうとしてそれに成功したのである。そして、彼等の前田武彦に対する憎しみを煽ったのが吉本隆明だった

 それについて述べる前に、今では忘れ去られている当時の情況を説明しておきたい。それは全共闘世代(1941~1949年生まれ)の中における、全共闘支持派と日本共産党支持派との間における凄まじい対立と憎悪である。この両派は大学紛争当時に各大学で罵りあい嘲りあっただけでなく、流血の乱闘沙汰を数限りなく繰り返していた。後に新左翼各派による百人を超える狂気の内ゲバ殺人抗争によって目立たなくなってしまうが、「バンザイ事件」が起こった背景にはこの両派の対立がある。その憎しみを示す会話を読んだことがあるが、ある雑誌の全共闘世代達の対談で、その中の一人が有田芳生について「ろくなもんじゃない!」と全否定する発言をした。おそらく面識もない相手をなぜそんなに憎むのかというと、「あいつは立命館の民青だったんだ。」と言う。民青とは民主青年同盟の略称で日本共産党の下部組織である。共産党支持派の全学連の幹部の多くが民主青年同盟員だったのでそう呼んだのである。立命館大学の共産党支持派の学生組織は精強で、立命館で優勢を誇っただけでなく京都の各大学の共産党支持派の応援に出かけて、全共闘支持派の学生達に殴り込みをかけてさんざん打ち破ったそうである。発言者はその恨みが忘れられず、自分や仲間をボコボコにした連中の中にあいつがいたんだと有田芳生を罵ったのである。実は有田芳生は1952年生まれで、全共闘世代より若いはずだがなんと1970年に18歳で共産党員になっている。民青より各上のエリートだったのだから戦闘部隊の隊長になっても不思議ではない。本当はどうだったのかは知らないけれどね。

 しかし立命館は例外であり、全体的には共産党支持派は劣勢であり孤立無援の状態に追い込まれていた。世間的にもそうであり、全共闘系の学生を支持する空気が強かった。それを象徴するような出来事がテレビ業界で起こっている。「お荷物小荷物」(1970年10月~1971年2月)、「お荷物小荷物カムイ編」(1971年12月~1972年4月)という大阪のABCで製作されたTBS系列のドラマ番組があった。とても斬新的で評判になったのだが、あるトラブルが起こったという文章を雑誌で読んだ記憶がある。最近記憶力の低下が著しくて雑誌の名前は忘れました、すいません。ドラマの出演者に全共闘系の若者の雰囲気を出している役者がいたのだが、彼がアドリブで「民コロ」と言ってしまいそれが放送されたのである。「民コロ」とは先に述べた民青のことであるが、全共闘支持者達は憎しみと軽蔑と嘲りをこめて「民コロ」と吐き捨てるように言うのが普通であった。当然、TBSは民主青年同盟から猛抗議を受けて謝罪に追われたそうである。言った当人は、

「だって、僕の周りでは皆そう言ってるもん。」

と答えたそうである。おそらく彼には共産党を批判する意思など無くて、流行語のつもりで言ってしまったのであろう。つまり若い役者達の間では、共産党支持者を「民コロ」と罵るのが日常的になっていたのである。さらに付け加えれば、テレビ関係者の間でもそうだったはずである。そうでなければ大勢いたはずの製作スタッフ、ABCの編集スタッフ、ドラマを流す前に確認したTBSの関係者が誰も気付かなかったなどという事が起こるだろうか。彼らは「民コロ」という呼び名が、言われた側にどれほど差別的で屈辱的であるかなどと全く気付かなかった。それほど日常的に飛び交っていたのだろう。60年代後半から70年代前半の一時期には、テレビ界だけでなくマスコミ業界全体がそうであった。そしてそんな風潮を生んだのは、大学を卒業してからマスコミ業界になだれ込んでいった全共闘世代だったのである。日本共産党もそれを認めていて、マスコミの一部に「急進主義礼賛の毒草」がはびこっていた時期だと、いまいましそうに述べている。そんな風潮に対抗するために、共産党が大金を払ってまで味方にしようとしたのが前田武彦だったのである。

 先に書いたように1969年12月21日に、毎日新聞紙上で宮本賢治日本共産党書記長と前田武彦の対談が全面広告の形でなされた。この日は日曜日であったので、より多くの人々に家庭で読んでもらおうとの意図があったのだろう。この対談で二人は全共闘派の学生達を激しく非難した。

宮本 

「・・・あの暴力学生は、共産主義運動からみれば異質の反対の存在です。かれらの一番のスローガンは「反共」です。日本共産党反対、社会主義国反対、そこを政府が利用している。・・・」

前田

「・・・ぼくなんぞ、もっと極端に、御用右翼のほうが、むしろ無邪気であって、それよりもっと国民を愚ろうした、もっと卑劣な手先機関だと思いますね。・・・」

という会話を読めば、前田武彦が全共闘派の学生達を全否定しているとしか思えない。注意しなければならないのは、後に新左翼各派は互いに「権力の手先」「政府の犬」と罵りあうようになるが、この頃には批判はしてもそこまでは言わなかったということである。唯一言っていたのが「トロツキスト暴力集団」と呼んで非難していた日本共産党なのである。前田武彦は自分で共産党シンパではないと述べているが、全共闘派否定の立場では共産党と同一と見られても仕方のない発言である。そして、この二人の対談に猛烈に噛み付いたのが吉本隆明だった。

 前田武彦にとって運の悪いことに、吉本隆明の家では当時毎日新聞を取っていたそうである。二人の対談を読んで腹を立てた吉本隆明は「芸能の論理」という文章を書いた。これは雑誌「文芸」に載り1970年に「情況」という本の巻末に納められた。この「芸能の論理」は吉本隆明の文章の中でも特別なものといえる。読みやすくて、分かりやすくて、面白いのである。特に「インテリまやかしの芸能人」として、 

 1 青島幸男  

 2 前田武彦 

 3 永 六輔

 4 野末陳平

 5 大橋巨泉  

 6 野坂昭如

 

の六人を一覧の表にしたのは吉本隆明にしては珍しい読者への大サービスである。なお上の順番は【馬鹿さ加減】である。外にも「つまらなさ加減」、「毒性」「嫌ったらしさ」「芸人的才能」「女ったらし」「知識性」「ラジカリズム」「(まじめ)さ」「きざったらしさ」などで六人の順番がつけられている。先日この中の御二人が亡くなられて、野末陳平さんだけになってしまったが、とにかく当時の売れっ子有名人を切りまくった文章はさぞや当時の若者に喜ばれただろうと思う。それが前田武彦の不幸となった。「芸能の論理」の前半は宮本前田対談の抜粋とそれに対する批判である。新聞紙上の発言なら、当時は後に残らない。図書館にでも行って調べるしかないからだ。ところが人気のある本なら多くの人々に後々まで読まれ続ける。前田武彦の全共闘否定発言は、吉本隆明の本によって多くの全共闘支持者達の怒りをかったのは間違いないと思う。

 だがそれで何かが起こったわけではない。前田武彦は赤旗祭りなどの共産党の行事に高いギャラをもらって出続けていたし、彼に忠告する人もいなかったのだろう。ただ全共闘支持者達の前田武彦に対する憎しみは増していったはずである。そしてそれが爆発するきっかけとなる事件が起こるのである。1972年の連合赤軍事件である。これが世間に与えた衝撃は凄まじかった。特に陰惨なリンチ連続殺人は、全共闘運動にたいする見方を一変させてしまった。学生運動は衰退し、新左翼各派は少なくなる縄張りをめぐって共食いのような内ゲバに狂奔するようになる。全共闘支持者にとっては悪夢のような失望の日々である。一方、大喜びしたのが日本共産党だった。暴力集団の末路はあんなものだと宣伝してまわった。自分達の傷口に塩をすり込むような共産党に,失意の全共闘支持者達は憎しみをつのらせただろうし、それは仲間とみなしていた前田武彦にも及んだはずである。

 そして1973年1月1日に、ありえないような偶然が重なって前田武彦の運命を決めるのである。朝に赤軍派の森恒夫の自殺が発見されて、正月の特番中に司会を勤めていた前田武彦に知らされる。前田武彦が思わず「この連中は死ぬときまで嫌味だねえ。」と口走る。そしてそれを吉本隆明がテレビで見てしまったのである。吉本隆明が毎日新聞を読んだのを運が悪いと言ったが、前田武彦はよくよく不運な男である。怒りに燃えた吉本隆明は、前田武彦に嫌味だと言う権利が絶対的にある、と言いつつ「芸能界の寄生虫である分限を忘れさせた」という凄まじい罵声を投げかけている。「芸能の論理」では政治などに口を出さずに庶民を楽しませる芸人の勤めを果たせ、という忠告めいた論調だったがもう全否定である。

 この文章は「試行」の情況への発言に載せられたが、この「試行」の発行日は1973年6月1日である。そして「バンザイ事件」が起こるのが1973年6月17日と18日なのである。私は前田武彦を「バンザイ事件」によって引きずり落としたのが、この「芸能界の寄生虫」という文章を読んだ全共闘世代のマスコミ関係者達であると確信している。前にも述べたが、一般の視聴者は前田武彦の発言など知らないし知っていてバンザイを見ても怒る理由がないのである。ああ約束を守ったな、ぐらいであろう。彼等と全く異なり、共産党を応援する前田武彦を「芸能界の寄生虫め!」と憎しみの目で見ていたマスコミ関係者が絶対いたはずである。そしてバンザイをするという発言をとらえて、実際にやるかどうか虎視眈々とうかがっていたのであろう。そしてやったとわかったとたんに、仲間達と協力しあって前田武彦非難を炎上させたのである。この攻撃がごく一部の人々によって行われたために、外部の人々にはその真相がよくわからなかったようである。たしか小林信彦氏の「テレビの黄金時代」だったと思うが、巻末の年表の1973年に、前田武彦が理由もなく降板とポツリと書いてあったような記憶がある。

 

  参考文献

・   マエタケのテレビ半生記 いそっぷ社

・   吉本隆明全集11    晶文社  

・   吉本隆明全集12     々

 


2016年東京都知事選 川柳

2016-07-14 14:33:17 | 川柳

立てば知事座らず歩く百合の花

 

党議会かかってらっしゃい腕まくり

 

なりたくて無理に先だし嫌なだけ

 

地味なのにネットでボロクソお気の毒

 

信じてた正義が汚れ売国奴

 

都政よりひたすら勝てる駒選び

 

フワフワと近寄り消えたプチ・ルーピー

 

出がらしも煮詰めりゃ濃いとしぶったが

 

年越えて又々選挙だけは嫌

 

勘違い顔が売れてもMX

 

あいつらが嫌いと言うぞそれだけだ

 

役所では青島ノックでもやれた

 

発明で選挙道楽止めさせろ

 

泡沫に泣いてる家族きっといる