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萧何把长安未央宫修得如此壮丽,旨在阻止迁都洛阳论

2016-04-19 13:22:38 | 歴史談話

把长安未央宫修得如此壮丽,旨在阻止迁都洛阳

 

   公元前200年,趁皇帝刘邦远征东方之际,丞相萧何在长安着手建造未央宫,用作皇帝的宫殿。据说在未央宫的外围也盖了众多建筑物。次年199年2月刘邦返回长安,见到如此恢宏的建筑,又惊又怒,立刻呵斥萧何道:

“天下匈匈,劳苦数岁,成败未可知,是何治宫室过度也。”

萧何当然是获刘邦的许可才开始建宫殿的,但是大约但其规模远远超过了刘邦的想像。据说萧何这样回答:“天下方未定,故可因以就宫室。且夫天子以四海为家,非令壮丽亡以重威,且亡令后世有以加也。”听到此话,刘邦才转怒为喜。

   笔者感觉,萧何这一回答纯属谎言。由于萧何无法吐露心声,只能敷衍搪塞,而粗心大意的刘邦也囫囵吞枣地信了,萧何当然松了一口气。                          

   只要想起阿房宫的结局,就足以见出萧何所言为谎话。秦始皇营造的恢宏宫殿,丝毫也没有起到卫秦的作用。曾任县吏的萧何比谁都心知肚明,只有施行令百姓安居乐业的政治,才能维护政权。他曾在长安缺粮时,建言将皇帝的庭园改为耕田,因此激怒了刘邦,被打入牢笼。

   另外,说省得以后再建,也是谎言。当然,何时建宫殿,就资金与建材来说是一样的,但百姓所付出的辛劳则大不相同。当时,长期的战乱结束还不到三年,当然农田荒芜,百姓忍饥挨饿。建设都城长安是旷日持久的,时期越晚,被召集来的百姓的辛苦应该越少。而且,同样劳动,如果是为了建水渠,垦荒等扩大农业生产的话,大家还能忍受,但是这次丝毫无益于自己的生活,而被驱着建皇帝的宫殿,人们的怨恨必定是相当深的。刘邦感觉过于奢华也是理所当然的,这才是普通的感觉。可是,生于贫困农民之家,有着正常感觉的刘邦结果也被萧何骗住,感到心安理得。如果有人说,你越奢侈,对世上做出的贡献越大的话,有谁会不高兴呢。连刘邦都会这样,生而为君主的人被赵高等人劝诱,享尽富贵荣华,结果遭到灭顶之灾,也是自然而然的了。问题是萧何为何要蒙骗刘邦而造大宫殿呢? 笔者认为这是为了彻底堵上刘邦的家臣团的嘴,不让他们提出迁都洛阳,从而使都城长安的地位安如泰山。

   公元前202年刘邦登基时,都城在洛阳。这是由于几乎所有的家臣都希望如此。可是,刘邦从未谒见过的娄敬(其后受赐刘姓,名为刘敬)却进言说,秦之都城关中才最适合为都城。听了娄敬的话,刘邦动心了,但由于众多家臣反对,就去征求张良的意见。张良赞同娄敬的看法,刘邦便当机立断,在关中的长安定都,史书上是这样写的。 

读到这一段,令我困惑不解的是,为何非要向张良征求意见不可? 定都何处本该征求丞相萧何的意见。问张良,不正说明刘邦心知萧何无法作答吗? 萧何确实认为唯有长安才适合为都城。其后的行动也证明了这一点。可是他并没有将这些说出口。这是为什么呢? 其实恰是因为他怕受到家臣们的怨恨。笔者认为,刘邦的家臣们非常厌恶住在函谷关以西的关中。历经长期战乱而活下来,并取得地位的他们所期望的无疑是安享清福。这一点,洛阳相当合适,而关中是不宜居住之地。关于其理由,另文再谈,反正他们仇视那些让他们搬到关中居住的人。丞相萧何不得不率领家臣团开展政治活动,他对迁都长安不置一词也是情有可原的。刘邦大约是想到了这一点才去问张良的。在刘邦的家臣中,张良地位特殊,不仅身份高,还无意于地位与财产,所以可以期待他说出公正且客观的意见。

张良没有辜负刘邦的期望,支持了娄敬的意见。但不能忘记的是,张良是在刘邦寻问之下才回答的。即使心里觉得对,但也没能主动说出来。从中可见家臣们的怨恨有多强烈。只有其后在刘邦征讨匈奴时唯一上奏劝阻而激怒他,被带上枷锁投入牢中的娄敬那样的汉子才有勇气说出口。娄敬是只要觉得对,即便冒着被砍头的风险也要说出来的那种难能可贵的人。 

   据说张良在迁都长安后,称病闭门谢客。笔者认为,张良的这一举止是由于自己赞成迁都长安而在宫中树敌过多,因而采取的一种自卫措施。晚年的刘邦疑心重重,甚至怀疑起卢绾与樊哙,这都是由于听信谗言。可以说,在争讨皇帝的欢心,诬陷敌手,诽谤中伤不绝于耳的宫中求生是相当危险的。而对一个独处家中的人,就很难恶口中伤了。到了金枝玉叶的武帝,只要听人说“他在诅咒皇上”,也许会轻信,但历经千辛万苦的现实主义者刘邦就一定会嗤之以鼻了。

   另外如上所述,刘邦向娄敬赐“刘”姓,让他改名为刘敬。笔者认为,不管表面上的理由如何,一定是为了庇护娄敬不被家臣们欺负才这样做的。家臣们当然无法向皇帝发泄那种不得不住在讨厌的关中长安的仇恨,他们或许会向新进来的地位不高的娄敬发泄。无论他们对娄敬采取怎样轻蔑的态度,排挤他,都只是家臣们内部的争执。皇帝如果发话就有失体面。然而对刘敬又当别论。虽然没有血缘关系,但既然赐了刘姓,就是刘氏一族末端的有关的人。稍加轻蔑,就会被视为有辱皇族,反抗皇帝。笔者认为,刘邦正是为了告诉家臣们要是欺负了娄敬没好果子吃才让他改名为刘敬的。

像萧何那样的,认为只有关中才是适合于定都的土地的人,应该是非常感谢娄敬与张良两人挺身承担了家臣团的仇恨之事的。可是应该说,皇城长安的地位还不稳固。皇城是由皇帝刘邦裁决的,只要刘邦一过世,不免发生变故。萧何如果像刘邦期望的那样只建一个符合当时状况的小规模宫殿的话,刘邦死后会怎样呢? 许多家臣也许会提出将这个宫殿交给刘氏家族中的某人,将长安定为西方的副都,而将都城搬到洛阳。想到这些,萧何当然会忐忑不安。笔者认为,正是由于发生了一件令他的不安变为现实的大事件,才促使萧何着手建起壮丽的未央宫的。

   公元前200年10月,刘邦被匈奴冒顿单于的大军彻底包围,陷于九死一生之境。那就是著名的白登山之战。匈奴假装疲于奔命,实力虚弱,诱他钻进了冒顿单于的圈套。刘邦做出重大决定,将劝阻他出征的刘敬投入牢狱,并说凯旋归来后再处置你,可是这次他大丢面子。走在大军前头的刘邦的队伍,被大队骑兵隔离了七天,无法与自己方面的军队联络,处于孤立无援状态。虽然最后依陈平之计得以脱身,但这七天里的事在长安的宫廷中当然会引起哗然。这是皇帝被敌军包围,杳无音讯的大事件,当然会快马加鞭地传到长安。吕后一定也与萧何及其他家臣们一起认真地探讨了刘邦被俘或战死疆场时的对策。尽管很快得知刘邦无恙,这是虚惊一场,但萧何对于刘邦身后之事,尽管不情愿也不得不考虑起来。

   当然,最重要的课题首先是辅助吕后让皇太子即位,令东方诸国宣誓效忠,稳住政权。但是萧何也一定会担心,不管在新皇帝之下政权是否稳定,家臣们都会提出迁都洛阳论。那时拍板定都长安的刘邦已死,提出建议的刘敬也身陷囹圄。尽管无事归还的刘邦释放了刘敬,忍耻认错,但如果刘邦死去,结果就不得而知了。受人劝阻的事情,自己做后惨遭失败,在这种情况下,一般人不仅不会感谢劝阻的人,反而会恨他。正如官渡之战中惨败的袁绍杀了田礼一样。犯下了差点儿让皇帝战死疆场之大错的将军们,会释放狱中的刘敬,把他带回长安吗? 在吕后面前,或许只有刘敬会坦然承认自己愚蠢地犯下了错误。笔者认为,他们杀掉刘敬的可能性更大。萧何也应该想到,如果刘邦死去,刘敬也会从宫廷消失。没有了刘邦与刘敬,而张良也不出宫廷的话,宫中就没有了主张定都长安的人。如果家臣向吕后和新帝主张迁都洛阳,萧何是否能阻止得了? 笔者认为,正是因为缺乏这一把握,才将未央宫建成大宫殿的。

   一旦在长安建起只有皇帝才有资格享用的恢宏壮丽的大宫殿,谁都不会再提起迁都洛阳,新建宫殿等事了。因为那样的话太浪费了。萧何在白登山之战后,一待收割完稻谷,进入农闲期,就调动了大量劳力,投入所有资金与所有建材来建未央宫和其他宫殿。尽管让百姓吃苦有点于心不忍,但此外无计可施。他一定是这样想的,要让百姓安居乐业,和平是不可或缺的。要而维持和平,就需要政权稳定。而为了让政权稳定,皇城非在长安不可。对于刘敬与张良说出的事,无法说出口的萧何凭其丞相之职而付诸实现了。

萧何对刘邦撒谎,实在是由于他无法吐露自己的心声。如果他说:“那是为了皇上去世后仍把长安作为都城而付出的努力。”刘邦会做何感想呢?

他绝对不可能高兴地想“你竟然考虑到我的身后之事,谢谢你。”毫无疑问,他会怀恨在心,好小子你居然想到了我死后之事。作为萧何也只能这样说了。幸好刘邦不假思索地相信了。如上所述,没有人不希望奢侈。比起住在不起眼的宫殿中,刘邦还是喜欢住大宫殿的。不过他也会为了这种劳民伤财以换取一人奢侈的作法而难以摆脱良心上的呵斥。正是萧何为他除去了这一点,令他欣慰。

   上述说法纯属我个人推测与想像。2200多年前的萧何心里打什么算盘,这是谁都无法查明的事。然而我确信,萧何把长安未央宫修得如此壮丽,旨在阻止洛阳迁都论。

    如果有人提出过与我相似的结论,或哪里有这样的文章,希望您告诉我。因为我很想知道,在2200多年间究竟有多少人与我的想法相同。

 

 

 

 

長安未央宮を壮麗にした蕭何の本音は、洛陽遷都論封殺だった。 

 

 紀元前200年、皇帝劉邦が東方へ遠征に出かけている間に、丞相蕭何は長安に皇帝の宮殿として未央宮の建設を始めた。未央宮の外にも回りに数々の建物を築き始めたと言う。翌199年2月に長安に戻った劉邦は、そのあまりの巨大さに驚き怒り蕭何を叱りつけた。

「世の中がまだ治まらずに人民が苦しんでいるのに、なぜこのような贅沢な宮殿をつくるのか。」

蕭何はもちろん劉邦の許可を受けて宮殿の建設を始めたのだが、その規模が劉邦の想像をはるかに超えていたのだろう。蕭何の返事は、「世の中が治まらないからこそ、皇帝の宮殿を壮麗にしてその威厳を示すのです。それに今築いておけば、後で造らずにすみます。」であり、それを聞いて劉邦は喜んだそうである。

 私は、この蕭何の返事が全くの嘘であると思っている。蕭何は本音を言えないから、口からでまかせを言ったのだが、おっちょこちょいの劉邦がすっかりそれを信じ込んでくれたのである。蕭何はさぞやほっとしたであろう。                          

 蕭何の言葉が嘘である事は、阿房宮の末路を見ればわかるはずである。始皇帝の造った巨大な宮殿は、秦を守る為には何の役にもたたなかった。政権を守る為に必要な事は、人民を平和で幸福に暮らせるような政治をするしかなく、県の小役人だった蕭何は誰よりもそれをよく知っていて、長安が食料不足になった時に皇帝の庭園を畑にしろと劉邦に進言して激怒され、牢獄に放り込まれたほどである。

 又、後で造らずにすむと言うのも嘘である。確かにいつ造ろうと資金や資材は同じかもしれないが、人民にかける苦労は全く違う。当時は、長い戦乱が終わってまだ三年しか経っておらず、農地は荒れ果てて人々は飢えに苦しんでいたはずである。首都長安の建設はそれから後もずっと続くが、後になればなるほど動員される人民の苦労は少なくなったであろう。それに同じ働くにしても、用水路の整備や荒地の開墾などの農業生産の拡大に使われるなら我慢もできるが、自分達の暮らしに何の利益にもならない皇帝の宮殿を造るために扱き使われる人々の不満もはなはだしかっただろう。劉邦が贅沢すぎると感じたのも当然で、そちらの方が正常な感覚である。しかし、貧しい農民出身で正常な感覚を持っていた劉邦も、蕭何の言葉にころっと騙されて満足してしまう。貴方が贅沢することが世の為人の為と言われれば、そりゃ嬉しいだろう。劉邦でさえそうなのだから、生まれながらの君主達が趙高のような連中の煽てに乗って贅沢三昧のあげくに国を滅ぼすのも無理はない。では、なぜ蕭何は劉邦を騙してまで大宮殿を造ったのか。私は、劉邦の家臣団の中にあった洛陽遷都論を完全に封殺して、首都長安の地位を磐石のものにする為だったと思っている。

 紀元前202年に劉邦が皇帝となった時、首都は洛陽であった。ほぼ全ての家臣達がそれを望んだからである。しかし、劉邦にまだ謁見もしたこともなかった婁敬(後に劉の姓を与えられ劉敬となる)が、秦の都であった関中こそ首都にふさわしいと進言した。劉邦は婁敬の言葉に心をうごかされたが、多くの家臣達が反対するので張良に意見を求めた。そして張良が婁敬に賛成すると、ただちに決断して関中の長安を首都に定めたと史書は述べている。 

私がこれを読んで疑問に思ったのは、なぜ張良に聞いたのかということである。首都をどこにするかなら、まず丞相の蕭何に意見を聞くべきであろう。それを張良に聞いたのは、蕭何が答えられない事を劉邦が知っていたのではないだろうか。蕭何が長安こそ首都にふさわしいと思っていたのは確実である。後の行動がそれを示している。しかし、それを口には出せなかった。なぜか。家臣達の憎しみを浴びるからである。劉邦の家臣達は函谷関の西にある関中に住むのが、嫌で嫌でしょうがなかったと私は思っている。長い戦乱を生き延びて地位を得た彼等の望みは、一生安楽に暮らす事だったはずである。それには洛陽こそふさわしく、関中は住みにくい土地であった。その理由は別の機会に述べるが、ともかく彼等は自分達を関中に住まわせた人間を憎み続けたはずである。家臣団をまとめて政治をやらねばならない丞相の蕭何が、長安遷都を口に出せなくても無理はない。劉邦はそれに気付いて張良に聞いたのであろう。張良は劉邦の家臣の中でも別格で、身分が高い上に地位や財産に興味もないので、公正で客観的な意見を言ってくれるだろうと期待したはずである。

 期待どうり張良は婁敬の意見を支持したが、張良が劉邦に尋ねられて始めて答えた事を忘れてはならない。正しいと思っていても、自分からは言い出せなかったのだ。それほど家臣達の反感が強かったのだろう。後に劉邦の匈奴討伐を唯一人諫めて激怒させ、首枷を付けられて牢獄に放り込まれた婁敬の様な男だからこそ言えたのである。婁敬は、正しいと思った事は命がけで言える類希な人物であった。 

 長安遷都後に,張良は病気と称して自宅に引きこもり誰とも会わなくなったという。私はこの張良の行為が、長安遷都に賛成して宮中に敵を作りすぎた為の自己防衛だと思う。晩年の劉邦は、盧綰や樊噲までも疑う猜疑心の塊になるが、それは全て讒言によるものであった。皇帝に取り入り、敵を落とし入れようとして誹謗中傷の飛び交う宮中にいるのは危険すぎると思ったのであろう。自宅で一人ぼっちの男には悪口の言いようがない。坊ちゃん育ちの武帝なら、「彼は陛下に呪いをかけています。」と言われて信じるかもしれないが、苦労人で現実主義者の劉邦なら鼻で笑うだけだろう。

 又、先に書いたように劉邦は婁敬に「劉」の姓を与えて劉敬と改名させた。私は表向きの理由はともかく、家臣達の苛めから婁敬を守る為にそうしたのだと思う。嫌な関中の長安に住まねばならなくなった恨みつらみを、皇帝には何も出来ない家臣達が、新参者で地位の低い婁敬にぶつけかねないと思ったはずである。婁敬にどんなに無礼な態度をとっても無視しても、それは家臣達の内輪もめにすぎない。皇帝が口を出すのはみっともない。ところが、劉敬となると話が違う。血の繋がりは無くても劉姓を与えた以上、劉氏一族の末端に連なる男である。ちょっとでも無礼な態度をとれば、皇族への侮辱であり皇帝への反抗とみなされる。劉邦は家臣達に、婁敬を苛めたら承知しないと知らせる為に劉敬にさせたのだと思う。

 蕭何の様に関中こそ首都を置くべき土地だと思っていた人々は、婁敬と張良の二人が家臣団の恨みを背負ってくれた事にさぞや感謝しただろう。しかし、首都長安の地位はまだ固まっていなかったはずである。皇帝劉邦の決断で定められた首都は、劉邦がいなくなれば変更されかねない。蕭何が劉邦の望むような、当時の状況に見合った小規模な宮殿を建てた後に、劉邦が死んだらどうなるだろう。多くの家臣達は、この宮殿を劉氏一族の誰かに与えて長安を西の副都に定め、首都はやはり洛陽にすべきだと言い出しかねない。それを考えると蕭何は不安だったはずである。その不安が的中する様な大事件が起こり、それによって蕭何が巨大な未央宮を造り出したのだと私は思っている。

 紀元前200年10月、劉邦は匈奴の冒頓単于の大軍によって完全に包囲されて、絶対絶命の状況に陥ってしまった。有名な白登山の戦いである。匈奴が疲弊して弱体化していると見せかけた冒頓単于の罠にまんまと嵌り、止める劉敬を牢獄に放り込んで、勝利して帰ったらお前の処分を決めてやると大見得を切った後の大失態である。全軍の先頭にいた劉邦の本陣は、騎兵の大部隊によって味方の大軍から遮断されて七日間も孤立状態になった。陳平の計略で無事に脱出したものの、この七日間の事態は長安の宮廷でも大騒ぎになったはずである。皇帝が敵に包囲されて連絡もつけられないなど大事件であり、すぐに早馬の伝令で長安に知らされたはずである。呂后は蕭何やその他の家臣達と、劉邦が捕虜になったり戦死した場合の対策を真剣に練っていただろう。劉邦の無事がすぐ知らされてその心配は杞憂に終わったが、蕭何は劉邦が死んだ場合の事を、嫌でも思い知らされたはずである。

 もちろん、まずは呂后と共に皇太子を即位させて東方の諸国に忠誠を誓わせるなどの、政権の安定が最重要課題である。しかし、新皇帝の下で政権が安定するやいなや、洛陽遷都論が家臣達から噴出すのではないかと蕭何は危惧したはずである。首都長安を決めた劉邦が死に、進めた劉敬は投獄されている。無事に帰還した劉邦は、劉敬を釈放して恥を忍んで自分の過ちを認めたが、劉邦が死んでいたらどうなっていたかわからない。止めなさいと言われた事をやって大失敗したら,止めた人間に感謝するどころか恨むのが凡人である。官渡の戦いで敗北した袁紹が田豊を殺した様に。皇帝を戦死させるという大失態を犯した将軍達が、牢獄の劉敬を釈放して長安に連れて帰るだろうか。呂后の前で、劉敬だけが正しくて自分達は愚かでしたと侘びを入れるだろうか。私は彼等が劉敬を殺してしまう可能性のほうが高いと思う。蕭何も劉邦が死んだら劉敬も宮廷から消えると思っていたはずである。劉邦と劉敬がいなくなり、張良は宮廷に出てこないとなると、長安を首都にした人間が宮廷から消えてしまう。呂后と新帝に家臣達が洛陽遷都を主張したら、蕭何はそれを止められただろうか。その自信が無かったから未央宮を大宮殿にしたのだと思う。

 長安に、皇帝しか使えないほどの壮麗な大宮殿を造ってしまえば、洛陽に遷都して新たに宮殿を造ろうなどと誰も言えなくなってしまう。あまりに無駄な事だからだ。蕭何は白登山の戦いの後で、穀物の収穫が終わり農閑期に入るやいなや人民の大動員を行い、全ての資金と全ての資材を投入して未央宮やその他の宮殿を造らせたのだろう。疲弊した人民に苦労させるのは心苦しかっただろうが、外に方法は無かった。人民を幸せにするには平和が欠かせないし、平和を守る為には政権の安定が必要である。そして政権を安定させる為には、首都は長安でなければならないと考えたはずである。劉敬と張良が口に出して言った事を、口に出せない蕭何は丞相の職務を使って実行したのだ。

 劉邦にたいして蕭何が嘘を言ったのは、さすがに本音は言えなかったからだろう。

 

「陛下がお亡くなりになっても、長安を首都のままにする為です。」と言ったら劉邦はどう思うだろう。

「俺の死んだ後の事まで考えてくれたのか。ありがとう。」と喜ぶはずもない。こいつ俺の死んだ後まで考えてやがる、と根に持つのは確実である。蕭何としてはああ言うしかなかったのだろう。劉邦があっけなく信じ込んでくれたのは幸いだった。前にも書いたが、誰でも贅沢はしたい。劉邦もちっぽけな宮殿に住むより、大宮殿に住むほうがずっと嬉しかったはずである。しかし、自分の贅沢の為にこんなに国費や労働力を使っていいのか、という良心の呵責に囚われたのだろう。それを蕭何が拭いさってくれたので喜んだのである。

 以上の説は、全て私の思いつきであり想像である。二千二百年以上前の蕭何が何を考えていたかなど、誰にも調べようのない事である。しかし、私は確信している、

長安未央宮を壮麗にした蕭何の本音は、洛陽遷都論封殺だった。