濁泥水の岡目八目

中国史、世界史、政治風刺その他イラストと音楽

師匠なしで漫才をやれるのは吉本興業のおかげである

2017-08-31 14:26:28 | 芸能

ビートたけしの師匠としては深見千三郎が有名であるが、別に漫才師の松鶴家千代若・千代菊の二人がいる。なぜ師匠が三人もいるのだろうか。しかも、二人の夫婦漫才はほのぼのとしていて、たけしの芸風とは全く異なるものなのである。芸を学ぶにしては不自然すぎる。おそらく当時の漫才界では、師匠に付かずに漫才をやると他の漫才師達から激しい抗議を受けたからだろう。今でも落語家は師匠に付かずになることは不可能である。だが現在では誰でも自由に漫才師になれる。いつ誰が変えたのか。それは吉本興業が漫才ブームの時に変えたのである。
 漫才ブームが起こると漫才師への需要が増加すると共に、漫才師志願者の数も激増したはずである。それまでは、今いくよ・くるよや島田紳助が島田洋之介・今喜多代の弟子だったように師弟制度をとっていた。ただし、西川きよしや松本竜介には漫才の師匠はいなかった。どちらか一方に師匠が必要だったのだろう。とにかく、全く師匠のいない二人が漫才をすることは出来なかったはずである。吉本興業としてはそれでは間に合わなくなったのだろう。吉本興業は1982年に吉本総合芸能学院(NSC)を設立して若手芸人の養成を始めるのである。そしてNSCから師匠のいない漫才コンビが次々出るようになった。漫才師達は今までの師弟制度を破られても、相手が吉本興業では何も言えない。こうして師匠なしでも漫才がやれるルールが出来上がり、それが東京の芸能界にも広まっていったのである。


「恐いおばさん枠」のマツコ・デラックスさんと「恐かった」董卓

2017-08-24 14:09:56 | エッセイ

このブログで前に述べたように、テレビ局が埋めたがっていた「恐いおばさん枠」に見事な巨体がピッタリはまり込んで当分抜けそうにないマツコ・デラックスさんにぜひお願いしたいことがあります。大変失礼で、非常識で、怒られてもしょうがない申し出なのですが、長年にわたり可能かどうか知りたくてどうしようもなかったことなので思い切って言います。
 もしマツコさんがお亡くなりになったら、葬儀前の通夜を何日も引き延ばして体の脂肪が溶けるのを待ち、溶けたらお臍にローソクの芯をのせて火が付くかどうか試していただけないものでしょうか。そう、三国志で殺された董卓の遺体はそうやって燃え続けたと史書にあります。それが可能かどうか試せる体をお持ちになりお願いできるのはマツコさんしかいないのです。歴史好きの人に言わせると、マツコさんは戦国武将なら太りすぎで馬に乗れなかった竜造寺隆信だそうですが、三国志ならやはり董卓でしょう。もちろん性格や行動のことではありませんよ。でも、駄目ですかねえ。やっぱり駄目でしょうねえ。


笑福亭鶴瓶は許されて戻ったらブレイクしたが、前田武彦は目立たずに終わった

2017-08-17 14:05:05 | 芸能

 1973年バンザイ事件 1975年鶴瓶男根露出 1977年鶴瓶肛門露出
「君は僕よりずっと酷いことを二度もしたのに、何故なの?」
「貴方は大物だったので使いにくかったんですよ。私は使いやすかった。テレビ局は私に人の嫌がることを何でも命令できた。自ら男根や肛門をさらけ出した男が「そんな恥ずかしいこと出来ません!」なんて言えませんからね。それに私は人に憎まれてはいなかった。貴方は憎しみ合っていた連中の一方に付きましたよね。」