大事小事―米島勉日記

日常起きる小さな出来事は,ひょっとして大きな出来事の前兆かも知れません。小さな出来事に目を配ることが大切と思います。

朝青龍問題の結末―どう幕を降ろすか

2007年08月08日 19時47分52秒 | Weblog
 精神科という分野が未熟で,人によってどうとでも云える分野であることを朝青龍問題は明らかにしました。曰く,神経衰弱状態,抑うつ状態,うつ病一歩手前,うつ病になるとは限らない,急性ストレス障害などなど朝青龍のお抱え医師から日本相撲協会の指定医,テレビ出演の無責任医師まで,云うことがみんな違います。しかも,注意して聴いていると,出てくる医学用語が共通しておらず,医師ごとに微妙に差があるのです。これは,用語定義が医師によって違っているからです。
 それはともかく,朝青龍の問題は,この「大事小事―米島勉日記」に書いてきたとおりの筋書きで推移してきました。政治がらみ,資源がらみ,あげくは皇太子殿下まで巻き込んでしまったような展開です。
 さて,それではこの問題にどのように幕を降ろすか。提案をします。
 ここまで弱みをさらけ出してしまった朝青龍を来年の1月の初場所に期待する観客はもはやいないでしょう。しかし,日本相撲協会もここで引退を迫ることは資源国モンゴルとの関係において政治的,資源経済的に得策ではない。多分,陰に陽に各方面から圧力があるはずです。
 したがって,日本相撲協会としての処分の形骸化を避けるため,あと1,2週間経過してから「人道的見地」においてモンゴルに帰国させる。その際,必ず「引退を約束する」誓約書を朝青龍から取っておく。公表する必要はありません。そして,初場所の番付編成会議前に,モンゴルから朝青龍自身に引退声明を出させる。曰く,「横綱の地位を全うする気力も体力もなくなった」。断髪式なんて必要ありません。日本にいないのですから。
 これで,モンゴル政府やモンゴル国民を刺激することなく,モンゴル英雄としての虚像を残したまま消え去る。いかがでしょうか。



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やはり東条英機は許せない

2007年08月08日 19時07分02秒 | Weblog
 古来日本人は,死者を裁かない,とされてきました。その背景は仏教あるいは儒教というよりも武士道に由っているのではないか,と思われます。しかし,極端な話として,それを逆手にとれば,言葉は悪いが,ともかく死んでしまえばこっちのもの,という逃げの臭いもふんぷんとしてきます。(「切腹―日本人の責任の取り方」(光文社新書),あるいは「武士と世間」(中公新書)いずれも山本博文著)
 さて,私は,いわゆる太平洋戦争後の極東裁判において有罪とされたA級戦犯は,その大部分が日本人にとってもA級戦犯であったのではないか,という疑問をもってきました。なるほど,極東裁判は戦勝国の報復であったかも知れません。しかし,占領軍の言論統制下にあったとはいえ,当時の日本人が極東裁判の結果に抗議した,とか水面下で密かに異論を唱えていた,ということは当時中学生となった私は聞いたことがありませんでしたし,新聞はほとんど何も書かずに死刑執行の事実だけを伝えていたように記憶しています。
 第二次大戦末期までの最高戦争指導者であった東条英機首相は,戦犯容疑で逮捕される直前にピストル自殺を図りましたが失敗しました。東條が自殺し損なったおかげで,天皇に戦争責任が及ぶことを防いだかも知れませんが,それは結果論であって,東條が本当に死ぬ気でピストルを心臓めがけて発射したのであれば,本人は訴追を免れるために自殺することだけが念頭にあったわけで,その時点で天皇の戦争責任を身をもって防ぐことを考えていた,とは到底いえないわけです。ですから,映画「プライド」に見られるような上記の考え方は後知恵としか思えません。東條自身が,自殺し損ねてから天皇の訴追を免れようと意図した,とだけはいえるかも知れませんが。
 天皇は,東條の馬鹿真面目さを高く買っていた,といわれていますが,その東條の日本国民に対する最大の責任は,「戦陣訓」を公布して捕虜になることを事実上禁じ,その結果として民間人までもが捕虜になることを肯んじずに自決していったことです。もちろんこの点も異論があり,戦陣訓を案出したのは今村均大将であったとも云われます。しかし,それを公布したのは,あるいは公布されることを認可したのは最高責任者である東條英機です。
 異常な猜疑心の持ち主だったといわれる東條の戦争指導の無能さは勿論ですが,それは国家としての日本に対する責任で,それとは別に戦陣訓が与えた兵士,国民への重圧は,想像を絶するものであったと思います。当時小学生であった我々世代でも,「死して虜囚の辱めを受けず」は叩き込まれていました。
 かつて,米国の写真誌ライフが発行した第二次大戦写真集で見た,三八式歩兵銃の銃口を喉に当て,引き金を足の親指で引いて自決した日本兵の写真は,いまだに私の目に焼き付いています。
 東條,梅津らの陸軍の指導者,インパールから芸者を連れていち早く逃げ出した牟田口中将,ノモンハン事件以来陸軍参謀本部で戦争を画策して多くの兵隊を犠牲にした服部卓四郎,辻正信らの中級参謀らは死んでも絶対に許すべきではないのです。
 戦前,父の経営していた小さな会社の工員に「玄(ゲン)さん」という人がいました。新潟出身の日本人で,なになに玄治といった名前だったのでしょうが,当時のことでしたから,玄さん,もしくは玄どんなどと呼んでいました。この人が格別私をかわいがってくれて,当時の社員旅行みたいなものにも手をつないで連れて行ってくれました。江ノ島へ行った記憶もあります。
 第二次大戦が始まり,壮年の玄さんも当然のように徴兵されて満州に出征しました。
幸い無事帰還しましたが,父のところへは帰還後報告に現れたきりで,そのまま故郷に戻っていました。
 ある夜,父が沈痛な面持ちで帰ってきてひと言,「玄が自殺した」といいました。
父の重い口から理由を訊くと,田舎のことだから,捕虜になっておめおめ帰還したことで村の人たちから陰口を叩かれて神経衰弱になり,先祖の墓前で西洋剃刀で割腹自殺した,というのです。敗戦で,みんな捕虜になったわけですが,田舎では通用しなかったのでしょう。たぶん,村からは戦死者もたくさん出ていたのでしょうし。
 この事件は私に,「生きて虜囚の辱めを受けず」の重さをいやというほど感じさせました。
当時私は,この戦陣訓が東條の手になるものとは知りませんでした。てっきり,兵隊の持つ小さな手帳(たしかピンクか赤色の表紙の,「ひとつ軍人は,…」で始まる)に明治時代から記されていたものと思っていました。
 しかし,その後いろいろな文書を読み合わせると,東條が公布したものと知りました。
温厚な玄さんの記憶は,ますます東條を許し難いものにするのです。
(ブログ「しゃべろう,書こう,みんなの意見」に5月23日掲載したものを,8月15日を前にして再掲しました)