大事小事―米島勉日記

日常起きる小さな出来事は,ひょっとして大きな出来事の前兆かも知れません。小さな出来事に目を配ることが大切と思います。

NHK女子アナの声が甲高くなった-少なくとも3度~5度高くなり、聴いていてくたびれる

2013年07月31日 10時30分30秒 | 教育問題

かつてNHKの女子アナの声はおしなべてアルトに近く、しっとりとして落ち着きがあり、長時間聴いていても疲れることはありませんでした。
例えば、昭和天皇ご不例の折に、その報道に任じていた中年のアナウンサー(確か広瀬さんと云いましたか)は、実に落ち着いた声で、あるときには沈痛さを適切に表現していました。
その声調の系譜は、その後の森田美由紀さん、高橋美鈴さんに継承されたと認識しています。
ところが、近年耳にせざるを得ない-半ば芸人の民放女子アナなぞ論外なので-NHK女子アナまでが、甲高い声でがなり立てるようになり、聴きづらくて疲れます。
甚だしいのは、アニメのマンガ声で得意そうに喋り続けるので、思わずスイッチを切らざるを得ません。
NHKの報道すら聴けないのでは、公共放送としての存在意義自体危ういのではないでしょうか。
かかる憂うべき傾向は、この数年日本国中を席捲しているAKB(わたくしは、「アカンベー」と読んでいます)とやらの幼稚な子供集団の影響かもしれません。
NHKは、放送の内容ばかりかアナウンサーの声まで大衆迎合主義に走っているようです。媚中親韓、意識的原発反対、新型輸送機オスプレイ配備反対と、大衆迎合主義のオンパレード、公共放送のあるべき姿から逸脱しつつあるNHKです。
NHKを実質上牛耳っているのは労働組合、すなわち放送労連でしょう。しかし、その放送労連を支配下に置く民主党どころか、社民党、さらには共産党がかなりの影響力を持っているかと推察されます。三宅民夫と云う一見朴訥そうな外見のアナウンサーがいましたが、この人物は要注意です。いまは現役から退きつつあるようですが、その偏向ぶりはいまだ無視できません。監視を続ける必要があります。
しかし、先の都議選と参院選で民主党、社民党は敗北して、哀れ消滅の危機に瀕しており、共産党だけが自民党のカウンターパートと云う単純な発想から多少生き残っただけなのに、NHK労組はその変化に気付いていないようです。
こんな公共放送とも思えないNHKは早々に解体改組すべきでしょうが、その前に取り敢えずAKB紛いの甲高い女子アナの声だけは先行して無くして欲しいものです。


本物の警察官が「こち亀」では困る―20年前に警告したのに

2012年08月02日 19時20分54秒 | 教育問題

「こちら亀有公園前派出所」という長い題名のマンガが流行っています。多くの人は「こち亀」と呼んでいるようですが,ともかく長い間読まれているようで,なんと亀有駅周辺には銅像まで建てられ,名所になっているようです。
私がこの,いわゆる「こち亀」を最初に目にしたのは20年以上前でしたか,子供が読んでいました。以来,今日まで続いているらしいのです。
亀有公園前派出所という,一応は架空の設定の派出所内で繰り広げられるドタバタナンセンスが主題でしたが,陰気な顔つきの主人公(最近は絵柄も変わってきていますが)がやたらと派出所内でピストルをぶっ放すやら,組織暴力団(五所川原組)と付き合うやら。
およそ正常な警察官にあるまじき行動を主題にしていたのには驚きでした。

心配になったのは,こんなマンガが流行すると,戦後生まれの現役警察官に,マンガと現実の見境がなくなり,「こち亀」程度のことはできるんだ,しても構わないんだと,いずれなんらかの事件に結びつくのではないか,と云うことでした。
そこで,老婆心ながら,というか余計なお世話ながら,警視庁の防犯担当部署に文書で投稿したのです。20年以上前のことですから,現在のような進歩したインターネットもなく,パソコン・メールもありませんでしたから,たしか封書かファックスで送付したと記憶しています。
結果は,勿論何の反響もなく,受理したという返事もなく,無視されました。

しかし,20年以上経た今日,この危惧は現実のものとなってしまいました。
テレビを見ても,新聞を開いても,毎日のように警察官の不祥事が報道されています。
今のところ見られないのは,警察官を犯人とする殺人ぐらいなものかも知れません。ひとつひとつ取り上げるのもおぞましいような事案(このごろこの言葉が警察ばかりでなく,国会議員の間でも頻繁に使われますが,あまりにも官僚的なニュアンスで,好ましくはありません。)が多すぎます。
暴力団との癒着はつい最近もありましたし,もっと下世話な女性警官に対するセクハラまで,およそ犯罪あるいは犯罪まがいの,警察官が関わる事件が毎日明らかになっています。
それらが全部が全部「こち亀」の影響だとは云いませんが,よく考えると「こち亀」が源流と云えないこともありません。
一番怖いのは,近年の若者の間には,マンガと現実の見境が無くなっているのでは,と見られることです。マンガで許されることは,現実でも許されるのだ,ととんでもない勘違いをしている向きがあるのです。
勿論こう書けば,マンガ作家は「表現の自由」を持ち出すでしょう。それは確かにそうかも知れません。しかし,とんでもないインモラルな表現がマンガの上では通用してしまっています。指摘すると,決まって「表現の自由」を持ち出す。
作品が社会に,若者に及ぼす影響なんか知ったことではない,と云うのでしょうか。
なるほど嘗ての大戦前には,表現の自由は圧殺されてきました。しかし,その反動としての無制限の,無自覚な表現の自由は団塊の世代止まりで結構なのではありませんか。
「表現の自由」が及ぼす影響も考えられない作家と称する人種が無責任にひろげた表現が,とんでもないところに飛び火して,大火となるのではありませんか。
20年前に,一市民が抱いた危惧は,今日現実のものとなってしまった,と考えるのは見当違いでしょうか。


生徒の染髪と脱色の区別に拘る中学校長―こんな校長が生徒を殺す

2012年07月16日 07時47分21秒 | 教育問題


もう20年も前になりますか。東京23区内でも進学校の多い区の,進学校の一つに接したところに住んでいました。区立中学校でした。
こんな進学校でも,その頃は荒れていて,暴走族の仲間もいて周辺を荒らしていました。
なかでも,盗品じみた(小型バイクではなく)オートバイを乗り回している生徒がいて,フェンスに囲まれた校庭にいる生徒に見せつけるように,周辺に爆音を轟かせていました。
あまりうるさいので,この進学校の校長に電話したのです。
校長が言うことに,「どんな生徒ですか」 と訊くものですから,「茶髪の生徒だ」と応えたのです。
すると,「当校には茶髪に染色した生徒はおりません」と断言するのです。「いや,間違いなく茶髪で,しかもおたくの生徒だ」と云うと,「茶髪はおりません,脱色した者ならばいますけれど」とあくまでも染髪を否定するのです。
「脱色でも,染髪でも,茶髪じゃありませんか」と云うと,「いや,脱色です」と脱色に拘り,最後まで染髪を認めようとはしませんでした。
そこで思い当たりました。なにか文部省(当時)の通達に,統計上染髪は禁止するが,脱色は容認する,とでも文言にあるのかも知れない。茶髪と認めなければ,学校長としてペナルティを科されないのかも知れない,と。
その後20年経っても,この校長のことは忘れませんでした。あまりにも奇妙な校長の拘り方でしたから。
そして,この事件の1年ほど後に,この校長は無事?何処かへ転任したらしく,皮肉にも校長が交代した途端に,この進学校は静穏になりました。もしかすると,この進学校が荒れた原因は,件の校長にあったのかもしれません。
今回大津市の公立中の生徒が自殺する,という残念な事件が発生し(昨年9月),その処理のまずさが,警察の介入を招いています。(これも泥縄式ですが。)
ところが,最近ようやくマスコミに姿を現した中学校長は,「いたずらと,いじめの区別が甘かったようだ」,と薄笑いを浮かべながら云うではありませんか。
そこには全く慚愧の念も悔悟の念も見られませんでした。
この大津市の校長の発言は,私に20数年前の茶髪騒動の校長を思い出させました。
「脱色した生徒はいるが,茶髪にした生徒はいない」と頑なに云い張った東京都区内の中学校長と同じでしょう。いや,生徒を死に追いやっただけ悪質です。
そこに見られるのは,典型的な事なかれ主義,文科省に目を付けられない,という事なかれ主義です。
「先生と,云われるほどの馬鹿でなし」と云われますが,もともとは学者馬鹿を皮肉った言葉でしょうが,今日では意味が変わってしまったようです。まさに馬鹿,それも救いようのない馬鹿が,先生,特に中学・高校のごく当たり前の先生の間にいるようです。
これも,日教組という異常イデオロギー集団の存在が真因かも知れません。なにしろ,国歌も歌わない連中ですから。日教組から成り上がって校長になっているのでしたら,許せないことです。