
また新しい相棒がやってきた。
祖母の家にあった備前の花瓶。
「これは人間国宝の花瓶。
もし好きなら、私が死んだら持って行きなさい」
祖母が亡くなって6年、
故あって、私のもとへとやって来た。
共箱がないので、本当に人間国宝の作なのか、
誰の作かすら分からないのだが、
たいへん良い景色だ。
備前でこの景色を生み出せる人は、そうそういない気がする。
祖父を支え続けて、祖父が出世して、
家にこうした焼き物がやってきた。
それは祖母にとって、誇りだったのかもしれない。

私が茶器を集めだしたのは、高校時代。
初めて買ったのは、修学旅行先の奈良で出会ったこの茶碗。
一目惚れして、持ってた小遣いをはたいて買った。
友人たちに「なぜ修学旅行で茶碗?」と笑われた。
大学生になって全国の陶器の里を訪ね歩き、
その旅の中で知り合ったおばさまに、
「若いのに珍しいわね」と喜んでいただき、
さらに茶碗を頂いた。

常滑焼。
いただいた当時、私にはこの美しさが分からなかった。
「地味な茶碗だなあ。くれるならもらっておくか」
ぐらいの感じだった。
しかし、今はよく分かる。
光にかざすと浮き上がる、鈍色。
極薄手で均整のとれた作りは、
作者の腕の素晴らしさを物語っている。
頂いてから10年して、
ようやく良さがわかるようになったころ、
そのおばさまが亡くなったことを聞いた。
おばさまに、私の感じた良さを伝えておきたかった。
そんな後悔が、鈍色の模様に滲んでくる。
茶碗は、長生きだ。
ときどき茶碗が静謐に見えるのは、
長きにわたって、いろんな人の気持ちを
汲み取って来たからなのかもしれない。