
(14)
しばらくは身じろぎもせず、眠ったふりをして耐えているしかなかった。
誰なのかわからないが、この家?には久美子を知ってる人がいて、お坊さんに、久美子の事を話してくれたようだった。
やっと、久美子は、ほっとした気持ちになった。
「今夜は、ここで、ゆっくりと眠るんだよ!」
お坊さんが言った、明日、誰か、大人のひとに、頼んでお母ちゃんのいる病院に連れて行ってもらうからね!
「とてもやさしい口調で言った。」
久美子は少し、うとうとしたあと、もう我慢できずに、起きだして、ひとりで出かけようとした時に、めったに会う事もなかった、父の兄である、伯父さんが迎えに来てくれた、急いで走るように伯父さんについて歩いて、久美子は、伯父さんと、母のいる病院に着いた。
母の病室に入った時、父は、ぼんやりと久美子を見て!
『母ちゃんはもう・・・』
そう言ったが、久美子には、父がなにを言っているのか、
『分からなかった!』
『理解出来なかった!』
病室には、ベットに寝たままの母と、そのそばについていて、ぼんやりしている父がいるだけで、姉たちは何処へ行ったのだろうと、不思議に思った!
そのあとの事は何も覚えていない、ただ、普通ではない怖さで、どうしたらいいのか、
『母の声が聴こえない、母のそばに行きたい!』
大変な事が起きていると思いながらも、母のそばに行きたいだけだった。
幼かった私は、そのあとの事は何もおぼえていないし、わからなかった。
「母の最期の姿を何ひとつ覚えていない!」
母が亡くなった事を理解出来たのは、ずっと、ずっと、後のこと、私には長い時間が必要だった!
母は、何一つ、良い事もなく、楽しい事もなく、幸せだった事も無く!
「三十七歳の若さで、亡くなった!」
「十七歳で結婚して、初めての子供は生まれて直ぐになくなった、その後、立て続けに、姉ふたりを生んで、何年か後には私を生んでくれたが、なれぬ外国暮らしをして、やっとの思いで、日本に引き揚げて来ても、生活破綻者の夫に、何ひとつ文句も言わず、従い、そして、暴力に耐えた。
母は、あまりにも幸せの薄い人生だったと、久美子は、ずーと思っていた。
けれど、幼かったあの頃には、分からなかった、母の気持ちを久美子は、成人してから、少し、母の想いや、何が幸せで、人生や、幸福とは、いろんなかたちがあり、他人には、はかり知れない事なのだと思う。
母の短い人生にも、ほんのわずかな、小さな幸せを感じた時期があったのだろうと、思ったりもする。
「久美子も、又、誰にも理解せれぬ愛を生き抜く!」
母が亡くなって、数年は、父も、人並みに、残された家族を守り、働いて、お金を得るようになった。
けれど、上の姉が、母が亡くなった後は、私や、家族の母代わりになって世話をしてくれて、母が亡くなった時、上の姉、ミキは、十六歳、下の姉、鈴子、は十五歳だった。
そして私は、良く覚えていないけれど、たぶん、六歳か七歳の頃に母は亡くなった。
姉ミキが二十歳になった時、突然、結婚して、姉のお婿さんである、義理の兄が出来た。
そして、その頃には、姉、鈴子は松本に出て、就職していた。
だから、父は、又、元の生活破綻者に戻っていた。家を預かる、義理の兄がいて、姉がいて、何の心配もないと考えた父は、以前にも増して、ダメな人間になっていた。
母のいない寂しさが、なお、無情でダメな人間にして行った。
時には、ひと月も家に帰らず、何処で、なにをしているのかもわからぬ、放浪して歩く人間になっていた。
父がどんな人間であれ、義兄は、働き者で、姉はその点だけでも、幸せだった、私は、性格的に、父と似たところがあり、特に母が亡くなってからは、とても気むずかしい子供になったようで、姉を困らせていたようだった。
学校が大嫌いで、行きたがらず、手を焼いていたと、大きくなってから話してくれた。
特に体が弱い、よく熱を出し、お腹も壊しては、食べ物も贅沢をいった、好き嫌いの激しい子供だったようだ!
その頃は、どこの家庭でも、肉よりは魚をよく食べた。
それも、川魚が主だったから、私は、あの魚の生ぐさい臭いがとても嫌いだった。
その頃の贅沢品は、缶詰だった、肉を甘辛く煮たものが好きだった。
私はその缶詰を、お腹を壊すと、決まって、
「肉の煮たのを食べたい!」
そう言って、義兄の仕事帰りに買ってきてもらう事が、決まりのようになっていた。
今思えば、牛肉ではなく、鯨の赤身だったようだが、その頃では、贅沢な食べ物で、特に、田舎での事、義兄が町に出て、働いていたから、出来た事だった。
つづく