クリエーター情報なし | |
新評論 |
のびのびと学ぶための環境って何だろう。
3年前、化学基礎を担当した時の学習者はのびのびと、
そして生き生きとしているように見えた。
もちろん、
それ以前・以後に自分自身が関わった授業と
比較でしかない。
でも、
公開授業や個別に見学に来ていただいた先生方にも同様に映ったらしい。
何故、「のびのび」が可能だったのか?
誰からも、何の期待も要求もない授業を担当することをきっかけとして、
私自身のシフトチェンジが起こっていたことが一つ。
学習者のペースを優先させたことが、
「のびのび」を可能としたもう一つの要因だったと思う。
しかし、
体系化せず、学習内容を削ることでカバーしていたという
課題を残している。
「作家の時間」に求めたことは、
のびのびと学びに向かうためには?
自分自身を表現すること、表現を通して学習内容を深めるためには?
この2つの問いの手掛かりを得ること。
「作家の時間」では小学校での実践例が紹介されている。
小学校に比べたら、
中等教育では教科担当制で生徒との関係性が希薄、
発達段階も異なるうえ、
1年間で担当する生徒が200人以上になることも普通の状態。
そして基本的に私は「理科」の授業のみのお付き合い。
学習者にとっても、数多くいる教員の一人でしかない。
自分が置かれている状況とあまりにも異なるため、
ノウハウ本として読んだら最後だな、と思っていたのに、
意識しないとノウハウ本として読んでしまう習性が私にはあるみたい。
案の定、一回目の読書は「素敵な実践だけど、、、、、」で終了。
2回目はもう少しイメージを具体的に。
「のびのび」と「自分自身を表現」している、の間、を膨らませてみた。
創造的な活動をしている姿、
探究している姿、
そして他者の中で楽しんでいる姿。
浮かぶ姿は経過であって成果ではない
あぁ、一つ目の「溝」発見。
経過を見たいのに成果に焦点を当てている。
継続して実施している単元ごとのパフォーマンス課題。
そのものは学習の方向性として不適切ではない。
でも、現状のようにパフォーマンス課題を仕上げることが
最重要課題なのか?と聞かれたら、
最重要ではないはず、と答える。
最重要とすることでのデメリット、
「焦らせる」「せかす」に大きく影響している。
とにかく時間がないから、失敗できる場になっていない。
経過に焦点を当てることを考えた時に必要となる
「カンファランス」や「ピア・カンファランス」、
この辺りは、学年・年齢を越えて通用しそう。
うーん、もう一回読みたい。
二つ目の溝は、
身につけさせたいコンピテンシーが何なのか
授業の中で具体的に提示できてないこと、
そして自分の中にある優先順位に疑問がふつふつ。
そもそも、コンピテンシー習得のためのお作法レッスンがないことは、
今更ながらどうなんだろう。
「丁寧さに欠けるかも、、、」
そんなことは薄々感じていたけれど、やはりレッスンは大事。
では、理科の時間に必要なミニ・レッスンは何なんだろう?
結局、
いかに自分の言葉がふわふわしていて具体性がないか、
そして遂行目標になっているのではないか、
という、突き刺さるような現実に気づいただけかも知れない。
先は長いな・・・。