日々のできごと。生物準備室より

理科教育、生物教育に関して考えたことをぼちぼち更新。たまに授業実践報告をします。

eポートフォリオも目的次第。

2017-11-22 16:04:57 | 学習評価に関すること
教育分野におけるeポートフォリオ (教育工学選書 II)
クリエーター情報なし
ミネルヴァ書房

高大接続の改革期、ということで、
勤務校にも訪れた「eポートフォリオ」。
(正しくは研修案内)

教育観のパラダイムシフトによって、
当然、評価方法も変わってくる、変わらざるを得ないでしょう。
当然、のはずですが、
何だか時間はゆっくり流れています。

紙媒体のポートフォリオを含め、ポートフォリオを活用した学習に必要な要素は
1)リフレクション
2)ドキュメンテーション
3)コラボレーション/メンタリング
であり、ただただ記録していけばいいんじゃないのよー、と
基本的なところから掲載されています。
(語調は違いますが)

最近、気になっていたティーチング・ポートフォリオの位置づけも、
この本を読んですっきりしました。

やはり、何のために作成するのかは、学びの再構築する際に重要です。
また、構築の部分だけに着目し、
学びの蓄積(学習のエビデンス)がないと、薄っぺらいものになってしまいます。

昨年、教職大学院の課題として、教育実践のポートフォリオを作成しました。
紙媒体でしたが、もちろん、↑の要素を含んでいました。
現場に戻ると、1)2)は何とか頑張ったとしても
3)はなかなかできません。
メンター、伴走者ってなかなか得られないものです。
修了してから価値に気づくなんて、なんてバカなんだ、、、と後悔。
でも、あとから気づくものの方が多いのかもしれない、とも思いました。


eポートフォリオは昨年度の授業で、
maharaを体験。
何といっても、履修者同士の相互閲覧、相互評価によって、
異様なまでのモチベーションアップを体感しました。
恐ろしい効果。
授業前日、夜な夜なmaharaを開く現職教員集団。
大半は若くない集団なので、恐ろしい効果なのです。


「e」がはいるだけで取り組むことができる内容がどっと増えます。
特にコラボレーション/メンタリングの部分は絶大です。
でも、「e」にはモノが必要です。
そうなんです、ないものはない、です。はい。


いつかこの投稿を読み返したとき、
モノに飢えていた時期もあったなぁ、と懐かしむ日が来るはずです。


モノとマインドは同時に準備していかないと、と思う一方、
そうならない仕組みも分かってきました。

何事も折り合いをつけることが必要だなぁ。
とりあえず必要な章だけを読みましたが、
各種ポートフォリオにこれから関わろうかなぁという方には
おすすめの一冊です。

 


ゲノム編集の倫理

2017-11-19 19:32:20 | ワークショップ・研修に関すること

今日はこの講演を聞いてきました。
ゲノム編集の説明は、ほんとにさらっと、切ってはるぐらいの感じ。
「倫理」がメインだからそんなものですかね。

ヒトの多様性の重要性を考えたら、
ゲノム編集によって「クリーニングされた社会」になることは、どうなのか?
そんな話が途中でありました。


病気か否かは、人間が決めている。
手を入れることが可能な技術と禁止する技術も、
生と死も、人間が決めています。
治療とエンハンスメント(能力の強化と訳していた)の境目、
これも人間による線引きです。


各国の取り組みの差について話が及んだとき、
ドイツは過去の歴史から慎重であること。
だから進まないが、結局、近隣の国で遺伝子関連の医療を受けている現状だそうです。
歴史、とは、かつての優生思想のことを指していると思われます。
考えるべき要素が複数あることだけが、
この時間に得たものでした。


生命倫理の関する問題を解決するためには、
医学、科学、政策、そして当事者の共同的な働きが必要。

そんなようなまとめがなされた時、

あ、教育ってここでは挙がらないんだなぁ、と
違う目で現実を見たような気がしました。



高校生物で扱うのは、あくまでも「ヒトの遺伝」。
「人間の遺伝」を法や歴史から考える時間ではないのです。

(もちろん考える時間を設けることは問題ないのですが、
授業時間数という大人の都合で躊躇します。)

もし、教科横断的な時間割を組むことができるのならば、
真っ先に取り組んで見たい題材です。


 


 

 

 


対話型授業検討会(その2)ポスト体験?

2017-11-17 18:06:34 | ワークショップ・研修に関すること
先日の研修会&授業公開時に、
自らの授業で参加できなかった同僚でランチタイムに集結。

研修会参加の同僚にも協力をお願いして、
対話型授業検討会の追体験を実施しました。

もともと、ランチタイム20分でできる事は限られています。

パワポ資料だけでは、伝わらない情報もたくさんあります。

そんな状況でしたが、


やっぱり、もう少し時間が必要だね、

に加えて、

繰り返しが必要だね。

と話が出てきたのが、素直に嬉しい時間でした。



特別な空間ではなく、
日常に落とし込む。



次の段階には殆ど進めませんでしたが、
校風通り、のんびりのびのびと。
校風にはないけれど、しなやかに。



3日で終了!!夏休み自由工作2017@登呂遺跡

2017-11-16 14:38:11 | 自由研究ネタ

この夏はアップしていませんでした、このネタ。

材料費は、
娘2人分合わせて900円+消費税。
全てダイソーで購入しました。

登呂遺跡にある博物館で、
竪穴式住居の作り方が学べます。

午前中に見学&お買い物。
午後にお制作。
後日、提出用にレポートを書いていたみたいです。

長男と違って、自分たちで進めるのがラク。
だんだん子育てに力を抜いている感じです。

良くも悪くも。




教科会でホワイトボード・ミーティング(WBM)

2017-11-15 20:29:27 | ワークショップ・研修に関すること

K市の中学校に実験助手として勤めていた頃、
金曜3限あたりに、理科会のコマが時間割に組み込まれていました。
2つある実験室の使用調整や、進度確認、試薬の発注などの打ち合わせ、
時には実験方法の伝授等に費やされていました。
教科内OJTですね。
その頃、そんな横文字は使っていませんでしたが。 


その後、3校経験しましたが、理科会は皆無。
学期に1回、集まる程度でした。

K市の中学校の理科会でやってきたことは、
そんなに難しいことではないハズ。



ということで、
(どういうことだ?)


今年度はチャレンジしています。

毎週の理科会で各自の取り組み(やその他)を共有します。
共有のために活用しているツールが、
ホワイトボード・ミーティングです。 

授業者の振り返りに特化している訳ではないので、
授業の検討に最適だとは思いません。

でも、その場でのフラットな関係性作りには最適なツールだと思います。
(実際にはベテラン2名の大きな愛が前提ですが)

発散 → 収束 → 応用 

という基本的な流れは、
様々なところでしっくりきます。

とにかくまず、発散させないと、
その先が薄っぺらいのです。

物化生地に分かれる高校において、
科目の専門性にこだわりすぎると、
互いに補う?刺激し合う?ことは難しいのでしょう、きっと。


改めて説明する必要が無いかも知れませんが、
授業は専門知識を伝授する場では無いのだから、
いいんですよ、「理科」というゆるいつながりだけでも。

不安なまま、
5月からWBMの進捗会議を続けてきました。
そろそろ次の段階に行けそうです。 



 


「対話型授業検討会」を研修会で実施(その1)

2017-11-13 23:22:36 | ワークショップ・研修に関すること

その2以降があるか分かりません。

研修会の企画・運営・終了後のインタビューを通して考えたことを、表にしてみました。

もちろん、表に偏りがあります。

先に言い訳してみました

まだ、何となく、ですが、
何が目的で、他者の実践に関わるか、
また、他者に関わってもらうか、
明確に意識しているかどうかが大切なのではないかな、
と思います。

とりあえずアップ。






 


対話型授業検討会

2017-11-05 14:06:20 | ワークショップ・研修に関すること

対話型授業検討会をテーマとした研究協議会を見学させていただきました。
昨年、共に学んだ学卒院生の皆さんが企画に携わる会で、
東京都高等学校国語研究会の主催です。
授業公開はもちろん、協議会のなかで行われる模擬授業もオール国語の授業。
余計なことは考えられない状態で、
生徒の役割をわざわざ演じなくとも、
ありのままででノープロブレムでした。

今回見学させていただいて、
対話型授業検討会の強みは、
今、まさにここで起こっていることに着目し、
その時の考えや感情に焦点を当て、
よりナラティブであること、だと思いました。

教材開発・研究をする上では感情の部分はそぎ落とし、
より一般化することを目指します。
しかし、一般化されている森だけを見ていると気づかないことが山ほどあります。
視点を森と木の間で行き来することで、
自分が何を当たり前としているかに気づきやすくなるのではないか、と思いました。

 

検討会では、授業者・学習者双方のwant,do,think,feelに着目します。
授業者フルボッコ会では勿論ありません。
アドバイス会でも、べた褒め会でもありません。
修造もバンデューラも登場しません。

昨日の参加者の中に、
「自分は、どうしたらいいか教えてほしい方です」
と改善方法を求めている方がいらっしゃいました。
教授・伝授型の授業研究会に慣れてしまうと、
もしかしたら、教授・伝授型の学びに慣れてしまうと、
教員自身がアクティブラーナーになれないのかも知れません。
一方、上から目線であれやこれや言われたくない、
と思うケースも多くあると思います。
授業者本人が問題だと思っていないことをあれやこれや言われても、
余計なお世話、でしょう、多分。

生徒の学びと同じく、
授業者も自ら
why?が出てこなければ学ぶことはできないと思います。

自らの授業を振り返り、自ら問いをもつ、
このチャンスを検討会を通して得られる
と思います。


その先の解決策を検討する段階になって、
初めて専門家の知見や他者の経験談が必要になります。
生徒も教員も多分、このあたりは同じような気がします。
 

この検討会でのキーは「対話の成立」だったと思います。
私が見学した分科会では、
上から目線での教授・伝授が始まるシーンはありませんでした。
参加者の関係がフラットだったのです。

任意の研修会なので、そもそも負のオーラを発する参加者はいません。
しかし、参加者の職業上?、教えることに抵抗がない集団です。
特に同じ教科同士なので
「ここはこうした方が良いのでは?」のような発言がでるのではないかと、
ひやひや(少しわくわく)していました。

検討会の後も、
何故、フラットな関係をあの時間だけでも築けたのかということが話題になりました。
授業見学や模擬授業中に、
「生徒の役割」を果たし
「生徒の視点」を意識してきたことで保てたのではないか?
という結論に至りました。

では、フラットな関係を保つためにはどのような意識が必要なのか?が次の疑問でした。
私が検討会に参加し、「生徒の役割」を果たそうとしたら、
まず、邪魔になるのは、大半の生徒にはないであろう自分の経験や価値観、
当たり前だと処理している認識だと思います。
それは授業方法であったり、進行方法であったり、
同分野であれば教科の知識であったり、いろいろあると思います。

目の前で起こったことに対して自分の
want,think,feelが動いたとしたら、
何かしら自分の内側にある経験や価値観などにアクセスされているのではないかと思います。
この自分の前提を自覚した上で話すか否かが、
価値観の押し付けになるか、
授業者も見学者も共に学習する場になるかも分かれ道ではないか、と思いました。

フラットな関係って、
相手の認識を尊重するだけでなく、
自分の認識を自覚することも大切なんです、きっと。


フラットな関係を築いた上で対話を深めるために必要な要素は?と話題になったとき、
「発散」というワードが浮かび上がりました。
そこから先は、
ホワイトボードミーティングで習得(しようと)した「発散」「収束」「活用」の流れと、
オープンクエスチョンの有効性が浮かんで、
別のもやもやが出てきそうなところで韓国料理のお店へ。

トッポギ、美味しかった
 


教育の哲学×教師の哲学

2017-11-03 07:45:01 | 最近読んだ本
問い続ける教師―教育の哲学×教師の哲学
クリエーター情報なし
学事出版


どう読むか、だなぁ、というのがいちばん最初に浮かんだ感想です。
「ノウハウ本」として読むと、
言っていることは分かるけど、状況が違うからなぁ、で終わる気がします。


帯には「実践知X哲学知の融合」とあります。
カリスマ的な小学校教師である多賀さんを
教育哲学者である苫野さんが解いていく流れです。


教育哲学とは、
「そもそも教育とは何か?」
「どうあれば『よい』と言えるのか?」という問いに、
共通了解可能な”答え”をとことん見出すこと、とのこと。


苫野さんは別の書籍で、
教育は、すべての子どもが、「自由」に、つまり「生きたいように生きる」ための”力”を育むためにある、
と記しています。

また、
自分自身が「自由」に生きるためにも、他者の「自由」を認め、尊重できる、つまり、「自由の相互承認」の感度を育むことが、教育の役割である、
と記しています。

 

苫野さんの本をふむふむ、ほーっと読んでいても、
自分に落とし込むことには遠すぎてイメージが難しいところが、やはりあります。
その点、多賀さんの実践を通してイメージされやすくなった感じがしました。

他人の実践を疑似体験?妄想体験?

明日の授業に即、役立たなくても、
何かどこかに深みを持つことができるのかも知れません。
でもそれは、ノウハウ本のような即効性はなく、コスパは悪いでしょう。 

 

結局、タイトルにすべて集約されている感じです。
「問い続ける」ことの大切さ。
でも、問いを持つことは難しいのです。
続けることはもっと難しいのです。


自分自身を学習者と思えるか思えないか、
分かれ道だなぁ。