数見隆生・吉田茂・鎌田雅子・橋本由美子・佐藤洋子『生きているってどんなこと?子どもたちと考える「生」「いのち」「死」』
この実践記録は、小学校教諭や養護教諭による、子どもたちの実感の伴う「いのちの学び」を取り戻すための授業の記録である。その第一章では「体温」や「からだのあな」といった身近な器官を新しい視点から教材化し、ヒトのからだの働きの精巧さ、しくみのすごさを友だちや自分のからだの中に発見して「生」=「生きているからだ」を実感させている。
著者の一人である吉田が小学3年生対象に実施した「いのちとしての体温を考える」授業では、「生きている証拠探し」の学習として、呼吸、体温、脈拍といったバイタルサインを見つけ出させた後、実際に自分や友だちのからだに触れてからだのあたたかさを感じ取らせている。部位によって温度が異なることや、自分と友だちのあたたかさを比較する体験を通して、子どもたちはからだの構造としくみに関して多くの気づきを得ていく。
どんなときにからだがあたたかくなったと感じたかを聞くと、「一生懸命考えたときに、頭があつくなった」「お風呂にはいったとき」「からだを動かした時にあたたかくなったよ」というような発表がされました。
—からだを動かすには、何を使うの。
「筋肉を動かす」
「足の筋肉を動かす」
—筋肉を使うと熱が生まれる。ほんとうにそうかどうか、筋肉をつかって遊んでみよう。
ということで、思いっきり遊ばせました。子どもたちは、大喜びで体育館中を走り回りました。
一番あたたかかったのは、おでこです。しんぞうがはやくドキドキしていました。走る前のしんぞうは、ふつうの音でドキドキしていました。なんではしるとしんぞうがはやくなるのかなあ、ふしぎに思いました。ぼくは、たいいくがおわったら、あつくて水を二かいものんでしまいました
生きている証拠である体温を感じさせた後、子どもたちとのやり取りを通して、自然な流れで熱を発生させている筋肉に着目させている。さらに運動して速くなった心臓の鼓動を体感させ、生きているときはどこか動いているからあたたかさが生まれることを実感として子どもたちに持たせているのである。子どもたちはこの授業を通して、これまであまり気にしてこなかった、または、疑問に思ってもそのままにしていた自分のからだで起こっている現象に向き合い、体温に対する新たな見方や考え方ができるようになった。からだは自律性体温調節により常に一定の体温で維持されている。小学3年生がこの恒常性の細かなメカニズムを理解する必要性は全くないが、体温を感じることから始まったこの取り組みの中で、子どもたちは当事者意識をもって取り組んでいたに違いない。
久保敏彦『教室に“学びのライブ”がやってきた!仮面・イメージ・表現のレッスン』
都立武蔵高校の「保健」の授業の中で、高校生たちが生きた「からだ」と「言葉」をよみがえらせる「レッスン=学び」を活写した実践記録である。その中で久保は、仮面(ペルソナ)を用いた授業を展開している。パーソナリティーはラテン語のペルソナに由来しており、もともとはギリシャ劇で使う仮面のことである。
「あの悲しそうな仮面をつけると、だれもが悲しく見えてしまうから、不思議だった。あの目でみつめられると、凍ってしまいそうになる。面というのは、普通の人の顔よりも、感情があらわれていると思う。(略)」
「おなじ面でもつける人が違えば、お面の表情も違う気がした。それで違うお面でもつける人がおなじなら、おなじ表情をしているように思われた。お面のしたの素顔が、お面の表情ににじみでているのではないかと感じた。」
仮面をつけて演じることにより、仮面が人にのりうつり、面のなかからは今まで自分が感じていた世界とは全く異なる世界が見えることを生徒たちは体感していく。そして仮面がひとの内面をえがきだしていることに気づいていく。さらに生徒たちはペルソナづくりを通して自分のこころと身体と対話し、内面の変化を感じていく。
「(略)日常生活のなかでは、あるひとつの仮面をかぶっていて、プレゼンテーションのときに仮面をかぶったときの状態が、仮面を脱いだ状態なのかも知れない。(略)人は内と外、裏と表というように、相反する『自分』を持っている。でも、どちらかの『自分』は、呼び起こされるのを待つべく、ひっそりと眠っている。その『自分』を外に出すには、もうひとつの『顔』が必要なのだ。その『顔』がペルソナではないか。(略)」
久保の実践の特徴は、一貫してからだを文化として認識していること、生徒たちを表現者として育てようとしている事である。生物としての「ヒト」だけでなく歴史や文化の中で育まれる「ひと」として、からだの感覚や所作を文化として認識し表現する営みが授業で起こっている。ペルソナを通した活動から、生徒たちは「ヒト」のみならず「ひと」としての当事者意識持っていたのではないかと考える。
藤原和博『世界でいちばん受けたい授業2』小学館 2002年
のちに都内初の民間人校長となる藤原が、足立区立第十一中学校で実施した[よのなか]科の実践記録である。[よのなか]科とは、中学3年生に生きた社会科を学んでもらうために、ハンバーガー店の店長になって出店計画をたててみたり、法定で裁かれる少年の弁護人になってみたり、シミュレーションやロールプレイングというゲーム手法を応用して、身近なものから[よのなか]との関わり方を学んでいく授業である。女装家(三橋順子さん)をゲストとして招いた「差異と差別を考える」授業では、生徒それぞれが「あなたの男女度チェック」を行い、クラスメートの男らしさ・女らしさを分析、自分の中のマイノリティ性に気づかせている。
私たちは、三橋さんを一種の“触媒”にして、差異があることと差別があることを生徒たちと確認した。そしてマイノリティというものについても、マジョリティとの対比として位置づけた。軽視されている歴史とか差別されているかわいそうな現状とかに一切言及せず、あくまでも、生徒たちの体験の中にあるマイノリティ性を引っ張りだす努力をした。
その結果、恥ずかしいと思っていた自分の中のマイノリティ性は、実は“個性”だという三橋さんのメッセージは生徒たちにストレートに伝わった。
マイノリティ性は集団の中で浮かび上がる特徴であり、各自が自身のマイノリティ性をすべて認知している訳ではない。また補助的に用いる言葉が生徒を思わぬ方向へ感化することもあり、私にとっては授業での扱いを難しく感じる内容である。この実践では、『マイノリティもまた個性なのだ』と明るく導く女装家に上から下への視線はなく、同じ視線で生きる態度を生徒たちに育ませている。続いて、『どこまでイジくる?ヒトのカラダ』というテーマで、医療技術の進展によって可能になった「人間の体に手を加えて、弱点を直したり、矯正したり、機能を増強したり、入れ替えたりする行為」について議論を進めている。ここで特徴的なことは、マイノリティ克服のための行為の例が、正解か不正解か断言できないものであることである。また、『1)ファッションのため髪をそめる』『2)耳に穴をあけて、ピアスをする』から『11)妊娠中絶をする』『12)スポーツで勝つため、興奮剤を飲む』まで、抵抗感が低いと思われるものから高いと思われるものまで段階的に設定されている点も。
自分か自分の家族が何らかの“弱点の補強や克服”をしたり、せざるを得なかったりする現実的な局面で、自分自身の問題として、このことが想起されるときは必ずやってくる。
自分に関係があるかないか白黒はっきりする設問でないため、思考停止に陥ることは殆どないと思われる。もともとは社会科の授業がベースであるが,「ひと」である自分が集団に依存した価値観の中で自分の個性を認知し、「ひと」である自分や家族が技術進歩のスピードにどのようについていくのかを当事者として考えるための工夫が随所に見られる実践である。
「ヒト」を身近に感じるための工夫
「生物に関する疑問を挙げてください」と高校生に投げかけると、圧倒的に多い回答が「ヒト」に関するものである。「ヒト」は私たち自身であり、生物担当者も「ヒト」を扱えば生徒は身近さを感じ、興味関心をもつだろうと予測する。しかし、「ヒト」には「ひと」の面があるだけに、果たしてその目的は達成できているのか疑問である。私はこの3冊の実践記録を読み、児童・生徒が「ヒト」であることを実感し、からだと向き合うことで「ひと」の内面を表現し、集団の中での「ひと」が変化することを可能なことを知った。「ヒト」が身近にあるからこそ、「ヒト」と「ひと」が身近に感じるための工夫が必要だと再認識することができた。
生きているってどんなこと?―子どもたちと考える「生」「いのち」「死」 (健康双書―全養サシリーズ) | |
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農山漁村文化協会 |
教室に“学びのライブ”がやってきた!―仮面・イメージ・表現のレッスン | |
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世界でいちばん受けたい授業〈2〉 | |
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