建交労長崎県本部

全日本建設交運一般労働組合(略称:建交労)長崎県本部のブログです。
労働相談は、095-801-8800まで。

壮絶な大先輩の人生!故 竹尾一夫さん

2017年05月02日 09時44分06秒 | 組合紹介

建交労長崎県本部の大先輩、竹尾一夫さんが4月28日に亡くなられました。享年92歳でした。竹尾さんは、亡くなられる前に「青春の記録」と題した小冊子を書き残されましたので、ご紹介します。

竹尾さんは1924(大正13)年11月、職業軍人だった父の長男として北朝鮮で生まれました。しかし、父親は竹尾さんが小学校5年生の時にがんで亡くなられ、郷里の島原に帰りました。そして、父と同じ職業軍人をめざし、中学校4年生で陸軍予科士官学校に入学され、卒業と同時に18歳でインドネシアのスマトラに赴任します。そこから、竹尾さんの壮絶な戦争体験が始まります。

18歳の竹尾さんは、将校として部下を連れ、北ベトナムの最前線で激戦を体験され、タイのチェンマイで終戦を迎えられました。終戦後の1946(昭和21)年5月、イギリス軍から要員として30人残すよう命令が下り、マラリアが治ったばかりで体力が消耗していた竹尾さんは、上官から日本に帰還するよう説得されましたが、部下が残るのに自分が先に帰還することはできないと、断りました。大隊長は「竹尾すまん」と言って泣かれたそうです。そして、同年暮れに30人は無事に日本に帰還されました。

その後、島原で九州配電島原営業所(現 九州電力)に就職され、壮絶な労働組合運動を闘われました。当時の電気産業組合(電産)は、最も先進的な労働組合でした。竹尾さんは、戦争の悲惨な体験から何のための戦争だったかを考え、戦争に反対していた日本共産党のことを知り、自ら共産党に入党されました。しかし、その後レッドパージで職場を追放されますが、竹尾さんは節を曲げず、果敢に組合員の先頭に立って奮闘し、仲間たちは竹尾さんを支え続けました。

しかし、竹尾さんは職場で労働者の権利を守るためにビラを配布したり、朝鮮戦争に反対したという理由で公職追放令違反と占領政策批判の罪で逮捕され投獄されました。そして、今度は壮絶な法廷闘争を展開されます。竹尾さんは「日本人なら、この起訴状一つ読んだだけでこれがいかに不当な弾圧事件かわかるはずだ・・・・これは、日本国民の基本的人権が、日本の裁判所で守られるかどうかという重要な事件である・・・・重ねて言うが、この事件は日本国民全体にかかわる重要な事件だ。裁判官がそのことを考慮に入れて公正な審理を行うことを求めたい」と裁判官に迫りました。裁判官は「それは公正にやっている」と小声でしか答えられなかったそうです。

出所してから竹尾さんは、島原市の失業対策事業で働き島原自由労働組合(建交労の前身)をつくり、奮闘されます。圧巻は、市長交渉で賃金を引き上げさせたり、年末手当を勝ち取るくだりです。電産での経験や裁判闘争で培われた権利闘争が見事に生かされたのです。

その後、共産党の専従者としても筆舌に尽くしがたい苦労をされ、1963(昭和38)年大村市議会議員に当選、12年間の議員活動を経験されました。この間、県下で最初に老人医療費の無料化を実現したり、香焼革新町政と肩を並べるもっとも福祉の進んだ市になったのでした。大村市民から絶大な信頼を得ていた竹尾さんは、議員を降りるとき市民から「やめないでほしい」と懇願されたということです。

竹尾さんは、小林多喜二と同様、母親や弟さんをとても大事にされた方です。そして、とりもなおさず奥様の俊子さんを愛し続けてこられました。

竹尾さん、本当に長い間お疲れ様でした。私たちも竹尾さんの遺志を引き継ぎ、国家機密保護法、戦争法、そして共謀罪法案など、憲法をなきものにしながら戦争できる国づくりにまい進する安倍政権を打倒するため、頑張ります。安らかにお眠りください。

この冊子は、500部ほど作成されておられるそうです。読んでみたいと思われる方は、当方にご一報ください。

建交労長崎県本部執行委員長 中里研哉

 

 



最新の画像もっと見る