建交労長崎県本部

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満州で「生き地獄を体験した」Hさんの手記!

2015年08月12日 15時59分54秒 | 戦争被ばく体験記録

 戦後70年、戦争・被爆体験を後世に残すことが大事になっています。建交労長崎県本部も体験した組合員からの手記をまとめ始めました。被爆体験に引き続き、壮絶な満州での体験を大瀬戸町在住のHさんに寄せていただきました。相手を殺さないと自分が殺されると必死で引き金を引いた時の感情、女性たちの無残な自害など、戦争とはいかにむごいものであるかが書き記されています。

はじめに

 建交労九州支部西彼北班のHさんの壮絶な戦争体験は、第2次安倍政権が戦争法案を国民の声を無視し成立させようとしている時だけに、多くの人たちに知っていただきたい内容です。Hさんは安倍政権に対し激しい怒りを表明されました。8月5日に電話でお話ししたところ「安倍政権に、自分の言葉が届かいないことが腹立たしい」「日本がアメリカと一緒になって戦争をやれば、日本が戦場になってしまう」「中国や北朝鮮などを敵国にすれば日本にミサイルが飛んでくる危険性が高まる」と語られました。Hさんは、大瀬戸中学校2年1組の生徒に6年間戦争体験を語ってこられました。また、町内の平和集会でも戦争体験を語られました。以下は平成20年に作成された原稿を組合に提供してもらいました。戦後70年、被爆70年の大きな節目に、安倍晋三首相の祖父であるA級戦犯岸信介氏が暗躍した満州の地で、地獄の体験を強制させられた廣田さんの渾身の思いです。 

 第2次大戦が終結して早や60年の歳月が過ぎ去った。日本人の脳裏からはもう、あのいまわしい戦争の記憶も薄れかけているころであろうか。だが、その戦争のために、一生拭い去ることのできない思い出を、また心の古傷を背負って生きている人の多数居ることを私達は忘れてはならない。そして、そのような人々こそ切実に真の平和を願っているのである。

  昭和3年私が生まれた時から日本はすでに動乱の時代に入っていた。間もなく(昭和)6年には関東軍の暴走による柳条溝の鉄道の爆破による満州事変が始まり、更には12年の盧溝橋事件をきっかけに勃発した支那事変がいつ果てるともなく続く中で、当時の日本は全く異常な様相の時代でした。

 国中のどこかで毎日のように死を覚悟で戦場に出ていく軍人を、村中、町中の人々が日の丸の旗を振り、バンザイを唱えながら見送る風景が見られ、その軍人達が私たちの父でありまた兄であったのです。

  そんな時代に私達は骨の髄まで軍国主義をたたき込まれ、軍人でなければ男でないとまで云われ、国のためなら死を恐れるなと教育された。国民総動員令が施行され、「欲しがりません勝までは-」のスローガンで戦争遂行に国中が一丸となって邁進した、全く無謀極まるものであった。いつ終わるとも知れない戦禍の中で当時の日本は、軍備拡張のために国中が耐乏生活を強いられ、食糧不足、生活必需品の欠乏極限状態に陥った。そこで当時の軍部は、その食糧不足の対策を旧満州大陸に求めた、いわゆる移民開拓団である。

 日本各地の農村から百万戸、五百万人の大陸移民の構想を打ち出し、当時の内閣に建白書を提出して議会を通過、国策としてその手始めに武装移民が誕生した。農家の次男、三男を対象に満蒙開拓青少年義勇軍が結成され、八年間にわたり八万六千人の若者が大陸に送られ、食糧増産にはげみながらソ満国境の守備に当たった。私もその中の一人であった。

  行き度かった中等学校への夢を父の反対によってはばまれ、失意のどん底にあった私は、小学校を通じて募集していた義勇軍に国のためだと云ふことで、何のためらいもなく応募した、時に私は14歳で当時の村からたった一人であった。

 大陸に渡った私を待っていたものは、想像を絶する過酷な生活であった。広漠たる大平原に朝な夕なオーカミが吠え、冬の零下三十度の酷寒と、夏の摂氏四十度の猛暑の中でシラミと郷愁にさいなまれながら戦争に勝つためにと鍬を振るい、ひたすら開墾を続けた。

 やがて二十年の終戦、私たちが終戦を知ったのは、二週間も過ぎてからのことであった。

  ソ満国境に近い小與安あたりからソ連軍の砲声が聞こえるようになり、多少の不安がつのる中、隣の移民開拓団がヒ賊(中共ゲリラ)の襲撃を受け全滅の危機にさらされているとのことで、一人の団員が血まみれになって助けを求めてきた。

 私たちの村は義勇軍開拓団で兵役前の若者が多数居て、五十人程が小銃を持って応援に出かけた。雨で増水した谷を渡ってその村に近付くと、四・五百人とも思われるヒ賊の集団が、土塀に囲まれた満順開拓団を二重・三重に包囲していた。

賊の背後から急襲攻撃で囲みを解き、ようやく土塀の村に入ったら驚いた。塀の中は女性ばかりで、男は老人と子供ばかりであった。男達は兵役に取られ、四十才台の団長だけがかろうじて戦いの指揮を取っていた。

 そのような状態の中で、団員の奥さん達が数十人、日の丸の鉢巻をしめて銃を取り蒼白な顔をして戦っていた。

  土塀の中には銃眼が有って、銃眼の穴から銃を突き出して、外の敵を攻撃していた。私も衛兵所の側の銃眼から銃を構えて応戦したが、何しろ実戦は初めてである。訓練中の軍事訓練は毎日のことであったが、実際に敵と向き合って戦うのは簡単な事ではなかった。恐さと緊張感で手足が震え、顔が引きつって歯がガチガチと鳴った。

 ふと塀の上を見上げると、ヒ賊の一人が塀をよじ登って私に銃口をむけているではないかー。 

 私はとっさに構えた銃を上に向けて「チクショー」と叫びざま引き金を引いた。「ギャーッ」と云う叫び声と共にその男は塀の向こう側に転げ落ちた。とたんに私の震えが止まり、後はもう無我夢中で撃ちまくった。

 何時間経っただろうか、突然「ビューン」と弾丸が耳元をかすめ、左耳の上あたりに焼け付くような痛みを感じた後、戦闘帽の顎紐が目の前にぶら下がって来た。何と外からの銃弾が私の戦闘帽の顎紐の金ボタンをかすめ取ったのである。すんでのことで私は頭を撃ち抜かれるところであった。

  長い夜が明けて、ヒ賊も攻めあぐんで夜明けを待ったかのように退散したが、この戦いでこの村の団長と、老団員二人が戦死をして更に私たちの仲間一人が右大腿部貫通銃創の重傷を負ったのである。

 ヒ賊は退散したが、いつ又攻めてくるかも知れない。しかし、それよりもやがてソ連軍が進攻してくるだろう。「ロスケ」に捕まれば大変なことになるぞー」と皆が云った。忍び難い事だが村を捨てて、若者の多い私達の村と合流して海倫の街まで下ろうと云うことになり、最少限の衣類と食糧を背負い、共用物と銃器弾薬を馬車に積んで住み馴れた村の住家に火を付けて出立の準備中に団長夫人が見当たらないとのことで、数人が団長宅に向かったが時すでに遅かった。

 子供をみごもり出産間近の団長夫人は、村を捨てて南下する団員たちの足手まといにならないようにと、燃えさかる我が家に戻り、昨夜の戦いで戦死した夫の遺体の前で拳銃自殺をしていたのである。

 移民開拓団の運営に命をかけ、亡び行く村と運命を共にしたこの団長夫妻の行動は惜しんでも余りあるものであった。

 やがて私達の村も焼き払い、他の二ヶ所の移民団とも合流して、四十数キロの道程を馬車で海倫の街まで行く途中でソ連軍の捕虜となり、武装解除され、元海倫農学校の収容所に連行された。

 噂に違わずソ連兵は横暴であった。収容所の私達の宿舎に毎日やって来ては「金を出せ」「物を出せ」と強要する。無いと云うと情容赦なく殴られた。時には「女を出せ」と要求した。こんなこともあろうかと女性達は村を出る時子供に至るまで髪を切り戦闘帽をかぶっていたがやはり女の子は女に見える。平常時には起こり得ない出来事が、戦争になればいとも簡単に起こり得るのです。

 語りたくもない出来事で被害を受けた彼女達が、最後にせめてもの日本人としての誇りを失いたくないと、青酸カリをあおって自殺を遂げて行くさまを目の当たりにしながら、「ごめんなさい。この収容所の数百人の邦人の安全のためにも、貴女達を助けることの出来なかった私達男を許して下さい」と我が身を責めて泣いたのを、今でも忘れたことはありません。

 難民生活から解放され、集団生活も出来なくなって、己一人で一年有余ハルビン市内で放浪の生活を続け、三国人の迫害を受け、飢えと寒さに耐えながらも、「生きて祖国の土を踏むまではどんなことが有っても死んでたまるものか」と心に誓いながら帰って来ました。

 戦争体験はいくら語っても尽きませんが、想いで話だけでは戦争防止にはなりません。今、私が一番気になるのは日本の有事法案です。

 今の我が国に、いかに大きな防衛力が有ろうとも、売られた喧嘩を買うことは絶対に出来ません。あくまでも外交で解決し、有事は絶対に避けるべきです。

 ロシアのウラジオストックあたりから発射されたミサイルが日本の国を跨いで三陸沖の太平洋に落下するような時代です。ロシアや北朝鮮との間に有事が有れば、アメリカは後方支援で、日本全土が戦場です。六十年前の終戦直後からそれを想定しての米軍基地が日本の各地に数多く有るのです。日本はアメリカの北方に備えての前進基地のようなものです。

 平和な時代なら、人一人殺しても殺人罪で裁かれるが、戦争になれば殺人が正当化され、何千人、何万人殺しても罪にはならず、更に軍人だけでなく民間人も被害を受けるのです。

 私は最近の自衛隊の行動が何となく気になります。イラク派遣の陸自やインド洋派遣の護衛艦も気になることだが、自衛隊がアメリカまで行って米軍との合同演習をやっている。戦後警察予備隊から発足した自衛隊が約六十年間の軍事教練や演習に飽き足らず、そろそろ実戦をやりたくなったのかと勘繰りたくなるような最近の防衛庁の行動である。昔から云われていた、軍部が政治に口を出すようになれば必ず戦争がおきると。

 私は今、大正末期から昭和初期にかけての関東軍の暴走を思い出している。一部の軍人の意志によって満州国建国を推進し、やがて軍部が政権をにぎって支那大陸に進攻してあの大戦である。世の中に平和が続き、更に不況が続けば特需をねらった政商が暗躍する恐れもある。

 防衛庁にお願いしたい。専守防衛のためには演習も必要だが、演習を実戦に生かす事だけは止めて下さい。

今の平和が永久に続く事を祈ります。

以上