長崎の失業対策事業で働いた被爆者たちが眠る「敬朋」の墓(前県本部委員長の川崎ツタさんらの資料より)
長崎は被爆地でもあり、失業対策事業で働く先輩たちの中には多くの被爆者がいました。妻子を失った老人、一人残った人、戦争で夫を亡くした人、被爆者は哀れでした。一人寂しく死んでいった人もありました。埋葬料では、弔いも出せず、長崎医大にその遺体を送りました。解剖がすんだ後は、手厚く葬ってくれるからです。
先輩たちは、1975年3月「全日自労被爆者の会」を結成。1975年9月、「引き取り手のない人の墓を作ってやりたい。そのために、墓地を提供して欲しい」と長崎市に要求書を出し交渉しました。全日自労の仲間からの募金はもちろんですが、奉加帳を持って各労働組合を回りました。
長崎市と2年間交渉した結果、1977年8月31日、この地赤迫町に墓碑を建立しました。医大に送った人たちの遺骨も受け取り、慰霊祭を兼ねて除幕式を行ないました。「敬朋」という墓碑銘は、当事の諸谷義武長崎市長が記されました。この「敬朋」には10人の組合員が眠っています。今年は、敬朋の墓が建立されてから40年になります。
戦後72年・被爆72年 核兵器禁止国連条約実現に向けて新たな決意
2017年7月7日は「国連会議」で核兵器禁止条約が採択され、被爆者や原水禁運動を続けてきた人々に大きな喜びを与えました。
採択された条約は、被爆者の声を活かし核兵器の非人道性を厳しく告発、核保有国や同盟国の「核抑止論」の否定、「核の傘」に入ることも禁止し、抜け穴をすべて失くした文字通り核兵器を全面的に禁止する内容となっています。日本での原水禁運動が果たしてきた役割も評価されました。
私たちは先輩たちの意志を引き継ぎ、核兵器の禁止国連条約実現に向けて取り組むことを2017年敬朋墓前祭での新たな決意としました。