①のカバーは、先月の香港John Bullのオークションに出品されたカバーで、1941年12月1日上海第9支局受付、香港でエアー・トランジット印押し、裏面にはニューヨーク1943年4月23日の着印有りとカタログの説明にはある。見積もりがHK$3,000-4,000のところ、結果はHK$10,500という高値になった。このカバーの郵便料金及び果たして香港発のクリッパー便に搭載されたかどうかが中国占領地郵便ブログで話題になった。「世界航空年表」によれば、香港発クリッパー便の最終は1941年11月30日発で、この便に搭載されたカバーは複数見ている。ところで、1941年12月に入っても、香港発マニラ行きのクリッパー便があったのではないかとの疑問が出されたので、ここ数年の香港に関する著名なセールからこの時期のデータを集めて見た。
②のカバーは、香港ビクトリア局1941年12月1日受付でカリフォルニア宛航空便、12月8日の開戦時香港にあった郵便物で香港局の倉庫に隠された郵袋7袋分に入れられて、戦後逓送されたことが表示からわかる。
③のカバーは、コロンボ1941年11月15日差出ニューヨーク宛航空便、ラングーンから重慶を経て香港12月2日着(裏面、カタログの記載による)、そのまま②のカバーと同じ運命をたどっている。裏面に貼ってある料金は西回りルートの料金のような気がするがよくわからない。航空表示が多分香港で抹消されているが、これはいつ押されたものか(戦後もこのタイプは使用されている)。
④のカバーは、ラングーン1941年11月26日差出ワシントン宛航空便、ラングーンから重慶を経て香港12月2日着(裏面、カタログの記載による)、そのまま②のカバーと同じ運命をたどっている。これも料金がよくわからないが、同じ料金のものを他にも見ている。③のカバーと同様、航空表示が多分香港で抹消されている。
この後、12月8日までの香港局の消印でそのまま香港留置のカバーがいろいろデータとして残されている。
いろいろなデータを見る限りでは、香港切手を貼った航空便(12月1日以降差出)でさえもそのまま香港に留め置かれている状況では、上海12月1日受付のカバーが香港でクリッパー便に搭載されるのは考えにくいと思うが、どんなものであろうか?私は、香港までは送られたが、開戦を迎えてしまい、上海に送り返されて、何らかのルートで米国に送られたのではないかと推測している。私の手元に上海本局12月1日中継日付印が押された米国宛航空便があるが、そのカバーも①のカバーと同じ頃ニューヨーク着である。①のカバーに、西海岸の中継印が見られないため、西廻りで送られたものか。経験的には、1941年11月下旬上海差出の米国宛航空便では、太平洋横断クリッパー便には間に合っていない。
なお、①のカバーの受付日は12月1日であるが、書留なので、裏面に上海本局の差立日付印が押されている可能性がある。その日付がわかればある程度はっきりするのだろう。あったことの証明よりは、なかったことの証明の方が難しい。
ところで、参考までに香港留置に関連して次のようなデータもある。
⑤のカバーは、フィリッピン・Benguet1941年12月2日差出、バギオ、マニラ中継、ラングーン経由で昆明で終戦まで留置、戦後香港着、誤って香港で4年間留置印が押されたとカタログには記載。香港の着印(裏面)は1945年のようだ。
⑥のカバーは、オランダ領インドネシアのSOERABAJA1941年11月28日差出、ラングーン経由で香港に到着したが、そのまま②のカバーと同じ運命。
⑦のカバーは、重慶から1941年12月6日香港に送られ、香港からクリッパー便で米国宛の予定であったが、日本占領により4年間香港に留置、戦後一旦重慶へ戻された後、1946年1月6日ワシントン着。
⑧のカバーは、広東1941年11月差出、香港でしばらく留置後、重慶に送られ付箋が貼られた後、再度広東重慶間往復後ウルムチ経由でニューヨーク1943年8月2日着。
⑨のカバーは、不思議なカバー、山東加刷切手を貼って煙台から上海宛に送られたが、香港で4年間留置、1945年12月2日上海中継で差出人に戻されたとカタログの説明にはある。①のカバーの落札値より、かなり高い値で落札された。
②のカバーは、香港ビクトリア局1941年12月1日受付でカリフォルニア宛航空便、12月8日の開戦時香港にあった郵便物で香港局の倉庫に隠された郵袋7袋分に入れられて、戦後逓送されたことが表示からわかる。
③のカバーは、コロンボ1941年11月15日差出ニューヨーク宛航空便、ラングーンから重慶を経て香港12月2日着(裏面、カタログの記載による)、そのまま②のカバーと同じ運命をたどっている。裏面に貼ってある料金は西回りルートの料金のような気がするがよくわからない。航空表示が多分香港で抹消されているが、これはいつ押されたものか(戦後もこのタイプは使用されている)。
④のカバーは、ラングーン1941年11月26日差出ワシントン宛航空便、ラングーンから重慶を経て香港12月2日着(裏面、カタログの記載による)、そのまま②のカバーと同じ運命をたどっている。これも料金がよくわからないが、同じ料金のものを他にも見ている。③のカバーと同様、航空表示が多分香港で抹消されている。
この後、12月8日までの香港局の消印でそのまま香港留置のカバーがいろいろデータとして残されている。
いろいろなデータを見る限りでは、香港切手を貼った航空便(12月1日以降差出)でさえもそのまま香港に留め置かれている状況では、上海12月1日受付のカバーが香港でクリッパー便に搭載されるのは考えにくいと思うが、どんなものであろうか?私は、香港までは送られたが、開戦を迎えてしまい、上海に送り返されて、何らかのルートで米国に送られたのではないかと推測している。私の手元に上海本局12月1日中継日付印が押された米国宛航空便があるが、そのカバーも①のカバーと同じ頃ニューヨーク着である。①のカバーに、西海岸の中継印が見られないため、西廻りで送られたものか。経験的には、1941年11月下旬上海差出の米国宛航空便では、太平洋横断クリッパー便には間に合っていない。
なお、①のカバーの受付日は12月1日であるが、書留なので、裏面に上海本局の差立日付印が押されている可能性がある。その日付がわかればある程度はっきりするのだろう。あったことの証明よりは、なかったことの証明の方が難しい。
ところで、参考までに香港留置に関連して次のようなデータもある。
⑤のカバーは、フィリッピン・Benguet1941年12月2日差出、バギオ、マニラ中継、ラングーン経由で昆明で終戦まで留置、戦後香港着、誤って香港で4年間留置印が押されたとカタログには記載。香港の着印(裏面)は1945年のようだ。
⑥のカバーは、オランダ領インドネシアのSOERABAJA1941年11月28日差出、ラングーン経由で香港に到着したが、そのまま②のカバーと同じ運命。
⑦のカバーは、重慶から1941年12月6日香港に送られ、香港からクリッパー便で米国宛の予定であったが、日本占領により4年間香港に留置、戦後一旦重慶へ戻された後、1946年1月6日ワシントン着。
⑧のカバーは、広東1941年11月差出、香港でしばらく留置後、重慶に送られ付箋が貼られた後、再度広東重慶間往復後ウルムチ経由でニューヨーク1943年8月2日着。
⑨のカバーは、不思議なカバー、山東加刷切手を貼って煙台から上海宛に送られたが、香港で4年間留置、1945年12月2日上海中継で差出人に戻されたとカタログの説明にはある。①のカバーの落札値より、かなり高い値で落札された。