京都二日目。














































しかし我ながらよく歩いたと思います。バスの一日乗車券も、何度も何度も乗車して完全に元を取りました。
この日は早朝に発ったM氏と別れ、夜まで単独行動。前日の移動の疲れもあったのか、昼近くまでホテルの立派な部屋を堪能してしまいました。そこまで眠いわけでもなかったのですが…。
堀河天皇里内裏址
前日にコンビニで買った朝食をとり、11時過ぎに出発。ホテルの敷地内にこんな碑が。

今考えると、この帝は大河ドラマ『平清盛』劇中では、伊東四郎(白河帝)と三上博史(鳥羽帝)というあまりにも濃すぎる二人の間に即位したせいで、全く出番がなかった人ですね(役自体が設定されていなかった記憶が)。うーむ、この時はそれを知らなかったせいで、感慨に耽る間もなかった…。
福井藩邸跡
更に、同じ敷地内にこんなものも。

幕末四賢候の一人、松平春嶽が治めた事で知られる幕末きっての先進的な藩ですね。橋本佐内、由利公正もここに滞在したことがあるのか…この時は上の堀河天皇同様に一応写真に撮っただけ、程度の感情でしたが、もっと感動すべきでしたね。
京都市山科区
コインロッカーに荷物を置き、京都駅に出て市バスの一日乗車券を買った後、まずは京阪鉄道に飛び乗ります。

このような、我が故郷とあまり変わらないような道を、迷いながらもズンズン歩いていきます。降車したのは京都市山科区の“御陵”駅。もう既に駅名がこの地に何があるかを如実に表していますね。
Googleマップのナビが当てにならないのか、自分が方向音痴なのか…この道に入るまでにも時間がかかりました。しかし自然が多くて長閑な場所だ…。

この日は土曜だったのですが、すれ違ったのはジョギングをする地元の方一名のみ。あまりの静けさに自分が今どこに来ているのか、思わず忘れてしまいそうでした。
大本山本圀寺
道すがら、川にかかる赤い橋に目を惹かれ渡ってみると、何やら見慣れた経文が。

我が地元は日蓮宗のお寺を菩提寺にする家庭ばかり。これも何かの縁だと思い、立ち寄ってみることにしました。
静けさの中、山門に迫る。

ここにも人はいません。
ここにもちゃんと謂れがあるそう。

加藤清正に縁のある地だったとは。
ど派手な金色の鐘。

参拝者は私一人でした。
これまた派手な色の像。

人の気配が無く、静寂に包まれています。
こんな名前のお寺でした。

天皇がすぐ近くに眠っている土地に、仏教の主要宗派では比較的新しい日蓮宗のお寺があるのもちょっと意外な気もします。
天智天皇山科陵
さて、かなり遠回りになりましたが、ようやくこの地を訪れた目的である“御陵”に到着。

ここでも人は全くいませんでした。歴史ファンにもあまり注目されない場所なのかな?
ようやく到着したこの地は、天智天皇山科陵。

実は去年も来訪候補地に入れていましたが、こうやって実際に歩いてみるとあの時のスケジュール状況では到底不可能でしたね…あの時は雨も降っていたから、それも含めるとかなり酷い事になっていたはず。
自分にとって、日本史に興味を持つきっかけが天智天皇(というより、中大兄皇子)、及び大化の改新でした。それは坂本龍馬の存在を知るよりも前の話です。学研の「まんが人物日本史」のシリーズを、図書館で読んだのが最初だったと思います。

何故、彼に興味を持ったのか。今となっては定かではないのですが、乙巳の変で中臣鎌足らと組んで悪辣な豪族(という描かれ方をしていた)蘇我氏を討ち、中央集権政治を強固なものにした一連の流れに、もしかすると勧善懲悪的なカタルシスを感じていたのかもしれません。政治クーデターが、そんなに単純明快な“良い話”のはずがないのですがね…。
そう考えると、日本武尊をさも実在の人物であるように扱っていた「まんが人物日本史」シリーズって一体何だったんだろう、とも。いや、私は記紀にも興味がありますし、あれは英雄譚として読むのは面白いんですが、歴史上の出来事であるかのように描くのは如何なものかと。一応、ヤマトタケルノミコトの巻には『神話の中の英雄』というサブタイトルは付けられてはいましたが。
ともあれ、私の日本史との付き合いが始まるきっかけとなった天智天皇に敬意を示すためにも、この地は訪れておきたかったのです。

当然ながら宮内庁が管理しています。この時は私以外に誰もいませんでしたが。
八坂神社
かなりの時間歩き回った感があるのですが、時間は13時過ぎ。今度は(東京ではなく京都の)地下鉄東西線に乗り、東山駅で下車(記憶が曖昧です。他の交通手段だったかも…)。

まずは祇園祭でお馴染み、八坂神社へ。
前日以上に圧倒的な修学旅行生の数!ここでも色々写真を撮ったのですが、かなり無理矢理トリミングしないと彼・彼女達の顔が写ってしまうため、掲載は見送ります。

古事記の中でもメジャーな神である、スサノオミコトやクシナダヒメを祀っている事でも有名。
実は旅行後に京の祇園祭と故郷の祭りとの共通点をこの地で見出し、一人で興奮しました。

それを忘れないうちに書いておきたいのですが…。
本殿を後に、次の目的地は円山公園。

この鳥居をくぐれば、敷地が繋がっています。よく整備された公園内の写真もありますが、今回はカットしました。
円山公園
何しろ、ここを訪れた理由はこの像以外にはないのですから…。

幼い頃から歴史書籍で親しんできた、この二人の像の前にようやく立てたのです!
私以外にも、中国?からの女性観光客の方が写真を撮っていました。この二人の人気は、いまやワールドワイドなのでしょうか。

真下に立って眺めると、その風格に言葉を失います。
あまり見たことのないアングルの写真も、自分用に残しておく事にしました。

しかし確かにこうやって見ると、しゃがんでいる慎太郎が龍馬の従者に見えなくもない…二人が背中合わせに立っている構図だったりしたら凄く格好良いと思うのですが、ちょっと漫画的発想ですかね?
圓徳院
観光客・修学旅行生の波をかきわけ、次の目的地に向かう最中に通りかかったスポット。年配の女性が多く訪れていました。

基本的にこの日は幕末メインでしかアタックプランを考えていなかったので、それ以外の時代に縁がある場所を巡るとなると、計画を立て直す必要がありますね…次回の訪京は他の時代も選択肢に入れてみようかな。いやはや、京都は奥が深すぎる…。
御陵衛士屯所跡
その近くにあった、こちらも偶然発見した場所。

こっちはしっかり幕末ですね。新撰組を離脱した伊東甲子太郎を中心にした、御陵衛士(高台寺党)の屯所です。
大河ドラマ『新選組!』では、谷原章介が演じていた事も記憶に新しいですね。ちなみに、彼は『龍馬伝』では木戸孝允役でした。

彼らは新撰組本隊による襲撃(油小路事件)にて解散した後、一部は赤報隊に加わったという話があります。リーダーである伊東甲子太郎や同志を騙まし討ちされた恨みは深かったでしょうね。
京都霊山護国神社
しかしながら、目指していたのはここでした。

龍馬と慎太郎が眠る場所です。
とにかく龍馬・龍馬・龍馬のオンパレード。他の志士も眠ってるはずなんだが…。

しょっぱなからこんな看板が迎えてくれます。暗殺の日に祭りか!ジョン・レノン・フェスティバルを12月8日にやるみたいな感覚なのかな…。
入り口まで行って、ようやく慎太郎の名前が出てきました。

墓地だけで神社としての機能は簡易的なものなのかな、と想像していましたが、ちゃんと巫女さんがいらっしゃいました。といっても、入場券やグッズを売る仕事がメインのようですが。
中には、円山公園にあった像のスケールを小さくしたものが。

予想通り、龍馬グッズの異常な充実ぶりとは裏腹に、慎太郎のそれは家紋の入った紙(額に入れて飾るもの)のみ。寂し過ぎる…勿論購入しましたが。
その上、私より後に入ってきた若い男性観光客の一団に「中岡って誰よ?」「知らねぇよこんな奴」「それより龍馬グッズ買うぜよ!」「おお、わしもそうするきに!」と土佐弁を模した面白トークで理不尽に罵倒される始末。慎太郎が何をしたと言うんだ!せめて、『龍馬伝』でもうちょっとまともに扱ってくれていれば…今更言っても仕方ないですが。
少々憮然としつつも、拝観料を払って入場。

そんなつまらぬ感情も、霊山墓地から見渡す京都市内の眺望の前には消えていました。
そう、今はそんなことを気にしている場合ではないのです。

遂に、この地に来ることが出来たのですから。
これまた、幼い頃から何度写真を見たかわからない、龍馬と慎太郎の墓地。いよいよここに立つ事が出来ました。感無量。

今ネットを検索していて知ったのですが、竜馬の命日に火を点けたタバコを供える人が急増しているようですね。正直、何の意味があるのかわからないし、その行動に全く共感できないのですが…。
ここからは、危うく高台から転落しそうになりながらも霊山墓地の隅々を回って全てをチェックしました。ですが、あまりにも数が多くなるため全ての写真は載せません。

昨年訪れた池田屋で討たれた志士達も、ここに眠っています。
この人のお墓は、一番高いところにありました。実際、ここに眠る人の中では明治以後も含めて一番高い地位にいた人ですからね。

木戸孝允と幾松が、仲良くここで眠っています。
維新を見ることなくこの世を去った、長州の傑物たち。

多くは蛤御門の変で倒れています。
『龍馬伝』での伊勢谷友介の好演で現代人にもその名を広く知られるようになった、高杉晋作。

彼の墓地は下関にあるようですが。
描く人物によって評価の分かれる久坂玄瑞。

『龍馬伝』での彼は、見事に自分の中のイメージと一致していました。素晴らしかったです。逆に『新選組!』の劇中での描写は…なめとんのか、という個人的な感想。
京都御所
近くにある幕末維新ミュージアムという博物館にも心惹かれましたが(慎太郎のポスターを売っているらしい…今知りました)、ここだけで時間を使ってしまいそうなのでバスで京都駅前へ。
昼食を忘れていたので、駅地下のレストラン街でラーメンという至って普通の食事をとり、怒涛の市内バス巡りを再開します。

次の目的地は、かつて日本の中枢部であった京都御所です。といっても、ここに歴代天皇が住んでいたのは鎌倉時代かららしいので、中枢部という表現は適当ではないかもしれませんが。現在は京都市民の憩いの場所となっているようです。
とにかく広い!東京の皇居より歩ける場所が多いせいか、延々歩いていたイメージがあります。

目的地を探すのに精一杯で、御所内の建物には殆ど触れられませんでした。
京都御所、幕末…とくれば、ここに来るのは必然でしょう。

長州が京都を追われ、一時は朝敵にまで堕ちるきっかけとなった事件があった蛤御門(禁門)です。
御所の外からの外観。

戦闘の際の弾痕があるそうですが、この時はどれがそれなのか全くわかりませんでした。Wikipediaを見ておけば良かったなぁ。
御所の中から。

往来が多く、写真を撮るのも大変でした。ここに日常的に住んでいる人には、この門は当たり前に存在するもので単なる通過点に過ぎず、特に感慨を抱かないのかもしれない、などと考えていました。
大本山本能寺
ここからも止まらないバス巡り。御所の外周を歩いてバスに飛び乗り、市役所を目指します。

そして、今年も本能寺には入れませんでした。閉まるの早いなぁ…。
桂小五郎像
しばらくは徒歩で、駅周辺の史跡をひたすら回りました。カメラの調子が悪く、ピンボケの写真が多数であったので、回った場所全てを載せているわけではありません。

京都ホテル近くの桂小五郎(木戸孝允)像。
桂小五郎・幾松寓居跡
そして、ここは小五郎と幾松が住んでいた場所。外観も撮ってあるけどブレブレ!現在は風格のある料亭になっています。こういう所にスッと入れる大人になりたい…。

この店から出てきたオジサンが「ここに幾松が小五郎を匿ってたのさ…」などと歴史ロマン溢れる話をしていましたが、それを聞いている若い女性(部下?)はあまり興味がなさそうでした。地元に住んでいる人でないと出来ない良い話だったので、私が代わりに聞いてあげたかったです。
木戸孝允旧跡の碑
少し移動して、ホテルイシチョウ前にある木戸孝允旧跡の碑。

…何だか木戸関連ばかりだな。他にも色々回ったはずなのに。
薩摩藩邸跡
写真はそこそこ明るいですが、すでに日没が迫っています。この旅で最後に撮った写真がこれ。バスと歩きを駆使して辿り着きました。

同志社大学西門前にある、薩摩藩邸跡の碑です。道路を挟んだ所に京都御所があるので、蛤御門の変直後に傷を負いながらもここに逃げ込んだ慎太郎の足取りをリアルに感じる事が出来ます。
蛤御門からは気軽に歩いて行ける程度の距離ではあるのですが、会津や桑名の軍に囲まれた状況ではここまで来るのも困難であったのだろうな…と、命からがら包囲網を抜け、逃げ込んできたであろう慎太郎へと想いを馳せました。これも、実際にその地に立って見なければ実感出来ない事ですね。
実質、京都市内を巡ったのは昼過ぎから日が落ちるまで。それなのによくこんなに色々と巡ることが出来たな、とこうやってまとめてみて改めて感じます。やはり日本史へのロマンと、京都という遠く憧れて続けてきた街への想いが、疲れを知る事なく動き続ける原動力になっているのでしょうか。
夕食はまたしても京都駅地下、今度はオムライス。うーん、この日は京都らしいものを何も食べていないな…。
食後は京都駅近くのネットカフェにて漫画を猛烈な勢いで読み、帰りの便まで時間を潰しました。
しかし、こうやって見てみると移動と宿泊以外には殆どお金を使っていないですね。旅行の醍醐味のひとつであるはずの食事ですらこの有様です。しかも街に溶け込んでいる、かつての歴史上の人物達の生活の匂いがする史跡を好んで訪れているので、拝観料もあまりかかっていないという…交通費と宿泊費を除けば、安上がりな旅ですね。まぁそこが一番お金がかかるんですが…。
10年近く前に読み物として買った本が、こうして昨年の初来訪に引き続き、現地での即戦力として貴重な資料になるという事実。いやはや、本は財産です。
次回訪京する機会があれば、幕末だけでなく平安時代に関連する史跡も巡ってみたいです。
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