今年中に書いておかなければならない記事を、取り急ぎ簡単に。
小学校二年生で歴史好きの道へ足を踏み入れてから幾星霜。
遂に、かつての日本史の中枢であり、長年の憧れの街である京都へと足を踏み入れたのが今年の夏の事だった。
しかしあくまで“ビジネス”がこの旅のメインであるため、本来の目的地は大阪にある。京都来訪はオマケに過ぎず、僕には厳しい時間の制限があった。それでもここまで近くに来ているのに、僅かな時間だろうとどうして無視できよう。
東京からの道中、なでしこJAPANの快挙を深夜バスの中でツイッター上で遠巻きに眺めるという苦い記憶も、今では思い出話の一種だろう。
事前に緻密な計画を立てておいた僕は、長い道のりを越え、パートナーでありガイド役のM氏と共に彼の地へ降り立った。
ちなみに、この二冊が今回の京都散策に非常に役立ったことを付記しておきたい。
『京都・幕末維新をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
『坂本龍馬、京をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
あくまで読み物として買った本だったので、購入から6年の歳月を経て実際のガイドブックとして機能する日が来ようとは、あの頃は夢にも思わなかった…。
四条大橋
まずは最も近いスポットへ。

元は八坂神社への参拝路であった四条大橋。
平日なので、僕の感傷を否定するかのように多くの人が仕事先や学校を目指して行き交う。

鴨川の氾濫に何度も悩まされた橋でもある。
池田屋跡
さて、ここからはひとまずM氏と別れ、本格的に一人で近くのスポットを手当たり次第に探していく。本屋でまっていてもらうため、与えられた時間は30分~40分程度。タイムロスは許されない、シビアな捜索となる。
まずは、三条大橋への道程で池田屋跡へ。

勿論、維新に至る幕末史上で重要なポイントとなった池田屋騒動の舞台である。
2011年現在では、居酒屋へと姿を変えている。

まぁ、酒を飲む処という意味では共通しているのかもしれないが…ちなみに、僕が持っている資料では「現在はパチンコ店である」という情報で止まっている。
この後も実感するのだが、現在でも人が生活し商いを行っている以上、こういった場所というのは常に変わり続ける。建物そのものがなくなってしまう事だって十分に有り得るだろう。常に最新の状態にアップデートされた情報を手に入れていなければならない。
三条大橋
そのまま真っ直ぐ歩いて三条大橋へ。

鴨川、三条河原。多くの重要人物の処刑が行われ、首が晒された地。また、池田屋騒動にて新撰組と尊攘派志士との斬り合いで付いた傷が橋の擬宝珠に残っているという(僕は確認できず)。血なまぐさい歴史を見守り続けてきた地なのだ。
三条小橋
近くにこんな小さな橋もあった。

小さな橋とはいえ、ここでも池田屋騒動の際に白刃が重ねられ、土佐藩士二名が負傷し後に絶命している。
綺麗な川が流れていた。

ゴミ一つ浮いていないのは賞賛に値する。これが都の美意識か。
坂本龍馬寓居跡(酢屋)
さて、いよいよ幕末のヒーローの足跡へと一歩近付く事になる。

現在でもその姿を残しているが、まだ午前中の早い時間というもあって扉は閉じている。
この小さい写真でもわかるかもしれないが、当日は台風が近付いており、激しい雨が降っていた。薄いナイキのスニーカーは靴下まで簡単に雨水の浸入を許しており、更に京都盆地の容赦ない暑さと湿気がそこに加わる。
高い不快指数に全く土地勘のない街で細かい場所に点在する史跡を探す。なかなかに難易度の高いタスクであった。
しかし、兎にも角にも僕の中でも大きな位置を占める偉人の縁の地である。興奮は抑え切れない。

現在、この酢屋の向かいは“セクシー居酒屋”なるファンキーな店に姿を変えており、少し油断するとそこの看板が反射し写真に写りこんでしまう有様だ。武田鉄矢あたりが物申しそうな気もするのだが、何か言及していないのだろうか。
彦根藩邸跡
先程の三条小橋のかかる川沿いへと向かうと、彦根藩の藩邸跡が見えてきた。言うまでもなく、あの井伊直弼を輩出した井伊氏が藩主の雄藩である。

特にルートに入れていたわけではなかったのだが、こういった史跡がごろごろあるのが京都がかつての都である所以であろう。
土佐藩邸跡
勿論、探していたのはこちらだった。

実際に歩いてみるとわかるのだが、龍馬の寓居にも、慎太郎の寓居にも近い場所にあるのだ。これは資料だけではなく、体験してみなければわからない事実である。
近くを流れる川。

さっきと同じ流れなのだが、土佐藩邸近くから撮っても綺麗だ。
中岡慎太郎寓居跡
さて、僕が幕末の人物で最も敬愛する人物のかつての住まいを探すのには苦労した。資料の写真と見比べても、それらしき場所がどこにもない。

それもそのはずで、まだ開店前のシャッターの向こうに隠れていようとは、さすがに予想は出来なかった。
しかし、必死に携帯電話を使ってネットから得た「現在はあぶらとり紙を扱う店になっている」という情報がなければ、ここには辿り着けなかったはずだ。歴史好きの方が最新の情報を書いてくれるお陰で、慎太郎の生きた場所に僅かながらでも立つ事が出来、後悔を残さずに済んだ。ただただ感謝する他ない。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(近江屋跡)
意外と言っては何だが、龍馬や慎太郎の寓居や土佐藩邸とも近江屋は近かった。

池田屋も三条大橋もそう遠くはない。龍馬は何故もっと郊外を隠れ場に選ばなかったのか…という疑問が湧いてくる。
僕がかつて読んでいた資料や歴史漫画の紹介では、現在のこの地は旅行代理店だったりパチンコ屋だったりしたものだが、現在はサークルKサンクスに姿を変えている。

碑だけでなく、説明の看板や木の柵も作られており、明らかに昔よりも立派になっている。有志の方々のお陰であろう。
ちなみに、繁華街であるため往来が激しく、観光客丸出しで恥ずかしい…と思う羞恥心も邪魔し、写真撮影が思いの外困難だった事を付記しておくとする。カメラを構える僕を、通りすがりの子供が不思議そうに見上げていた。
本能寺文化会館
更にこの後、近くにあるとされる本能寺を探すものの、入り組んだ路地に迷い込みそれらしき寺が発見できない。
途中で見かけた、東京から来たと思しき初音ミクの痛車や、シネコンから漂うキャラメルポップコーンの香りといった“日常風景”のせいで、すっかり現実に引き戻されてしまった。
諦めて、ほぼ時間通りにM氏と合流。回り道をしながらバス停を探し、次の目的地を目指す。
そんな待ち時間で見つけたのが、ここであった。

どのような施設なのかは、未だによくわかっていない。
なかなかぶっ飛んだネーミングの関連施設もあるようだ。

泊まっている最中に、桔梗紋の大軍に囲まれて叩き起こされたりしないのだろうか。そういえば、龍馬も明智氏の子孫だとされている事を今思い出した。
当たり前の事だが、ここまで訪れたのは人里離れた場所ではなく、現在でも多くの人が日常を送るために機能している街にある史跡であり、僕が往時に想いを馳せようとしても、雑踏がそれを拒むかのように思考に割り込んでくる。
更に限られた時間への焦燥感、先述の不快さとの戦いといった要素も加わって、ただただシャッターを切るのが精一杯であったのが現実である。そういう意味では、落ち着いて巡る事の出来る鎌倉の方が印象に残るエピソードばかりだし、得るものも多かったように思う。
まだ僕は、ようやく京都という地に半歩踏み入れた程度でしかないのだろう。今思い返すとそう実感する。
二条城
とはいえ、まだこの旅は終わっていない。ようやくお金を払って見る施設を訪れるのだ。

江戸幕府将軍が京都滞在中の宿所とした、二条城である。
写真等で紹介される事の多い二の丸御殿。

内部は公開されているが、撮影等は禁止である。
雨も止み始めた外を歩く。もうちょっと早く止んでほしかった。

この城は、三代将軍・家光から、十四代将軍・家茂まで殆ど使われずに放置されていた。幕末の動乱が、この城に再びスポットを当てたのだ。
庭園。

この城は、家康が征夷大将軍に任命され、慶喜が大政奉還を行った場所でもある。徳川の世はこの地で始まり、この地で終わった。
更に奥に進んでいく。

とにかく蒸し暑い。京都だから、という土地的な問題はあまり関係ない気がする。
中にある濠。

軍事的には使われなかった城であり、事実防御も万全とはあまり思えない。
世界遺産である事を示す看板が。

完全に雨が止んだ事が写真を見てもわかる。
本丸御殿。かつては天守閣もあったようだが、現存はせず。再建も果たされなかったようだ。

こちらは立ち入り禁止となっている。
この後金閣寺を訪れる予定であったが、M氏が乗りたいという特別車両の時間が迫っていた。それを差し引いても、時間的にかなり厳しいスケジュールである。
短い京都滞在はこれで終わり。幼少時からの宿願はひとまず果たされたが、同時にこの地への更なる想いを高まらせ、僕は一路大阪へと向かうのであった。
“仕事”もひとまず好感触で終わり、滞在先のホテルで一人なでしこ達の歴史的な決勝戦の再放送を観戦し、朝方の溜飲を少しだけ下げる。

何だかんだでここ数年、コンスタントに関西を訪れている。勿論、来年も京都へのリベンジを果たすべく、新たな史跡巡りプランを携えて乗り込むつもりだ。
決意も新たに、僕は追いかけてくる台風に急かされるようにして帰路に就いた。
小学校二年生で歴史好きの道へ足を踏み入れてから幾星霜。
遂に、かつての日本史の中枢であり、長年の憧れの街である京都へと足を踏み入れたのが今年の夏の事だった。
しかしあくまで“ビジネス”がこの旅のメインであるため、本来の目的地は大阪にある。京都来訪はオマケに過ぎず、僕には厳しい時間の制限があった。それでもここまで近くに来ているのに、僅かな時間だろうとどうして無視できよう。
東京からの道中、なでしこJAPANの快挙を深夜バスの中でツイッター上で遠巻きに眺めるという苦い記憶も、今では思い出話の一種だろう。
事前に緻密な計画を立てておいた僕は、長い道のりを越え、パートナーでありガイド役のM氏と共に彼の地へ降り立った。
ちなみに、この二冊が今回の京都散策に非常に役立ったことを付記しておきたい。
『京都・幕末維新をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
『坂本龍馬、京をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
あくまで読み物として買った本だったので、購入から6年の歳月を経て実際のガイドブックとして機能する日が来ようとは、あの頃は夢にも思わなかった…。
四条大橋
まずは最も近いスポットへ。

元は八坂神社への参拝路であった四条大橋。
平日なので、僕の感傷を否定するかのように多くの人が仕事先や学校を目指して行き交う。

鴨川の氾濫に何度も悩まされた橋でもある。
池田屋跡
さて、ここからはひとまずM氏と別れ、本格的に一人で近くのスポットを手当たり次第に探していく。本屋でまっていてもらうため、与えられた時間は30分~40分程度。タイムロスは許されない、シビアな捜索となる。
まずは、三条大橋への道程で池田屋跡へ。

勿論、維新に至る幕末史上で重要なポイントとなった池田屋騒動の舞台である。
2011年現在では、居酒屋へと姿を変えている。

まぁ、酒を飲む処という意味では共通しているのかもしれないが…ちなみに、僕が持っている資料では「現在はパチンコ店である」という情報で止まっている。
この後も実感するのだが、現在でも人が生活し商いを行っている以上、こういった場所というのは常に変わり続ける。建物そのものがなくなってしまう事だって十分に有り得るだろう。常に最新の状態にアップデートされた情報を手に入れていなければならない。
三条大橋
そのまま真っ直ぐ歩いて三条大橋へ。

鴨川、三条河原。多くの重要人物の処刑が行われ、首が晒された地。また、池田屋騒動にて新撰組と尊攘派志士との斬り合いで付いた傷が橋の擬宝珠に残っているという(僕は確認できず)。血なまぐさい歴史を見守り続けてきた地なのだ。
三条小橋
近くにこんな小さな橋もあった。

小さな橋とはいえ、ここでも池田屋騒動の際に白刃が重ねられ、土佐藩士二名が負傷し後に絶命している。
綺麗な川が流れていた。

ゴミ一つ浮いていないのは賞賛に値する。これが都の美意識か。
坂本龍馬寓居跡(酢屋)
さて、いよいよ幕末のヒーローの足跡へと一歩近付く事になる。

現在でもその姿を残しているが、まだ午前中の早い時間というもあって扉は閉じている。
この小さい写真でもわかるかもしれないが、当日は台風が近付いており、激しい雨が降っていた。薄いナイキのスニーカーは靴下まで簡単に雨水の浸入を許しており、更に京都盆地の容赦ない暑さと湿気がそこに加わる。
高い不快指数に全く土地勘のない街で細かい場所に点在する史跡を探す。なかなかに難易度の高いタスクであった。
しかし、兎にも角にも僕の中でも大きな位置を占める偉人の縁の地である。興奮は抑え切れない。

現在、この酢屋の向かいは“セクシー居酒屋”なるファンキーな店に姿を変えており、少し油断するとそこの看板が反射し写真に写りこんでしまう有様だ。武田鉄矢あたりが物申しそうな気もするのだが、何か言及していないのだろうか。
彦根藩邸跡
先程の三条小橋のかかる川沿いへと向かうと、彦根藩の藩邸跡が見えてきた。言うまでもなく、あの井伊直弼を輩出した井伊氏が藩主の雄藩である。

特にルートに入れていたわけではなかったのだが、こういった史跡がごろごろあるのが京都がかつての都である所以であろう。
土佐藩邸跡
勿論、探していたのはこちらだった。

実際に歩いてみるとわかるのだが、龍馬の寓居にも、慎太郎の寓居にも近い場所にあるのだ。これは資料だけではなく、体験してみなければわからない事実である。
近くを流れる川。

さっきと同じ流れなのだが、土佐藩邸近くから撮っても綺麗だ。
中岡慎太郎寓居跡
さて、僕が幕末の人物で最も敬愛する人物のかつての住まいを探すのには苦労した。資料の写真と見比べても、それらしき場所がどこにもない。

それもそのはずで、まだ開店前のシャッターの向こうに隠れていようとは、さすがに予想は出来なかった。
しかし、必死に携帯電話を使ってネットから得た「現在はあぶらとり紙を扱う店になっている」という情報がなければ、ここには辿り着けなかったはずだ。歴史好きの方が最新の情報を書いてくれるお陰で、慎太郎の生きた場所に僅かながらでも立つ事が出来、後悔を残さずに済んだ。ただただ感謝する他ない。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(近江屋跡)
意外と言っては何だが、龍馬や慎太郎の寓居や土佐藩邸とも近江屋は近かった。

池田屋も三条大橋もそう遠くはない。龍馬は何故もっと郊外を隠れ場に選ばなかったのか…という疑問が湧いてくる。
僕がかつて読んでいた資料や歴史漫画の紹介では、現在のこの地は旅行代理店だったりパチンコ屋だったりしたものだが、現在はサークルKサンクスに姿を変えている。

碑だけでなく、説明の看板や木の柵も作られており、明らかに昔よりも立派になっている。有志の方々のお陰であろう。
ちなみに、繁華街であるため往来が激しく、観光客丸出しで恥ずかしい…と思う羞恥心も邪魔し、写真撮影が思いの外困難だった事を付記しておくとする。カメラを構える僕を、通りすがりの子供が不思議そうに見上げていた。
本能寺文化会館
更にこの後、近くにあるとされる本能寺を探すものの、入り組んだ路地に迷い込みそれらしき寺が発見できない。
途中で見かけた、東京から来たと思しき初音ミクの痛車や、シネコンから漂うキャラメルポップコーンの香りといった“日常風景”のせいで、すっかり現実に引き戻されてしまった。
諦めて、ほぼ時間通りにM氏と合流。回り道をしながらバス停を探し、次の目的地を目指す。
そんな待ち時間で見つけたのが、ここであった。

どのような施設なのかは、未だによくわかっていない。
なかなかぶっ飛んだネーミングの関連施設もあるようだ。

泊まっている最中に、桔梗紋の大軍に囲まれて叩き起こされたりしないのだろうか。そういえば、龍馬も明智氏の子孫だとされている事を今思い出した。
当たり前の事だが、ここまで訪れたのは人里離れた場所ではなく、現在でも多くの人が日常を送るために機能している街にある史跡であり、僕が往時に想いを馳せようとしても、雑踏がそれを拒むかのように思考に割り込んでくる。
更に限られた時間への焦燥感、先述の不快さとの戦いといった要素も加わって、ただただシャッターを切るのが精一杯であったのが現実である。そういう意味では、落ち着いて巡る事の出来る鎌倉の方が印象に残るエピソードばかりだし、得るものも多かったように思う。
まだ僕は、ようやく京都という地に半歩踏み入れた程度でしかないのだろう。今思い返すとそう実感する。
二条城
とはいえ、まだこの旅は終わっていない。ようやくお金を払って見る施設を訪れるのだ。

江戸幕府将軍が京都滞在中の宿所とした、二条城である。
写真等で紹介される事の多い二の丸御殿。

内部は公開されているが、撮影等は禁止である。
雨も止み始めた外を歩く。もうちょっと早く止んでほしかった。

この城は、三代将軍・家光から、十四代将軍・家茂まで殆ど使われずに放置されていた。幕末の動乱が、この城に再びスポットを当てたのだ。
庭園。

この城は、家康が征夷大将軍に任命され、慶喜が大政奉還を行った場所でもある。徳川の世はこの地で始まり、この地で終わった。
更に奥に進んでいく。

とにかく蒸し暑い。京都だから、という土地的な問題はあまり関係ない気がする。
中にある濠。

軍事的には使われなかった城であり、事実防御も万全とはあまり思えない。
世界遺産である事を示す看板が。

完全に雨が止んだ事が写真を見てもわかる。
本丸御殿。かつては天守閣もあったようだが、現存はせず。再建も果たされなかったようだ。

こちらは立ち入り禁止となっている。
この後金閣寺を訪れる予定であったが、M氏が乗りたいという特別車両の時間が迫っていた。それを差し引いても、時間的にかなり厳しいスケジュールである。
短い京都滞在はこれで終わり。幼少時からの宿願はひとまず果たされたが、同時にこの地への更なる想いを高まらせ、僕は一路大阪へと向かうのであった。
“仕事”もひとまず好感触で終わり、滞在先のホテルで一人なでしこ達の歴史的な決勝戦の再放送を観戦し、朝方の溜飲を少しだけ下げる。

何だかんだでここ数年、コンスタントに関西を訪れている。勿論、来年も京都へのリベンジを果たすべく、新たな史跡巡りプランを携えて乗り込むつもりだ。
決意も新たに、僕は追いかけてくる台風に急かされるようにして帰路に就いた。
歴史コーナーではコメントはちょくちょくしていたつもりですが、過去を振り返ってみると結構コメント残してないですね(汗)周りに歴史好きがおらず、歴史話をする機会が少なくなってきたので、せっかくなので過去分含めどんどんコメントしてこうと思います。
京都はさすが千年の都だけあって歴史史跡は数多くという言葉では足りない位多いですよね。私は1度行きましたが、時間(お金?)の都合上本能寺跡しか行けませんでした。いつかゆっくり訪れてみたいもんです。
しかし慎太郎先生の寓居跡は・・・。シャッターに隠れないような工夫はできなかったんでしょうか。でもきっと感激するんだろうなあ。
池田屋は私もパチンコ店だったのは知ってましたが次は居酒屋ですか。でも雰囲気を壊さないような外観はなんとなくホッとしますね。がらっと変わりすぎるのは切ないですし。
怒涛のコメントありがとうございます。今後もよろしくお願いします。
京都は探れば探っただけ何かが出てきますね…本能寺は2012年も行けませんでした。閉まるのが早いです。
慎太郎の寓居後は、次はチャント回転している時間に行かないとダメですねw
池田屋跡にしろ近江屋跡にしろ、今が一番ちゃんと扱ってもらっている気がしますね。歴史への理解が出て来たのでしょうか。