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United Minds (Strikes Back)

2013年に解散した電子音楽ユニット、SpiSunのWeblog“United Minds”跡地

『平清盛』雑感 〔by ラウド〕

2012-12-23 19:20:31 | History
 今日が最終回なので、少しだけ感想を書いてみようと思います。
 本当に簡単なものしか書けませんが。



 今年の大河ドラマは歴代最低視聴率を何度も更新するという、数字だけで見れば相当に厳しい結果となったようです。NHKとしても何度も梃入れを図ったようですが、それが更に裏目に出た模様で、最後まで視聴率は上向きませんでした。

 若い俳優を多く使い、今まであまり取り上げられなかった時代、そして悪役とされている人物を主人公に置いたピカレスクの路線と、NHKは意欲的な試みで新たな方向性を示した作品でした。
 結果として、視聴者には全てが真逆の方向に働いてしまったようです。若い視聴者が全く食いつかない、時代背景に馴染みがない、今までワルモノとして描かれてきた人物に感情移入が出来ない、というところでしょうか。
 映像が暗い(『龍馬伝』の時にも言われていましたが…)、残酷描写がある(幼児を蹴るなど)、史実に基づいていない(毎度の事ですね)…などなど、多くのツッコミ所があったのも作品評価のマイナスの要因となったようです。

 個人的に、重くシリアスな内容ではもう視聴率を取れないのではないか、と思っています。時代がそれを求めていないのか、テレビを見る層がそういう内容を避けているのかはわかりかねますが、単純に視聴率だけで評価するとそういう結論に至らざるを得ません。
 私が近年の作品の中で出色の出来だと思っている『風林火山』や、日本人が大好きな主人公を扱った『龍馬伝』は、思ったほど視聴率が伸びなかったと伝え聞いています。
 3年間に渡って放送された『坂の上の雲』、これまた数多くの史実との相違に苦情があったらしい『負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂~』(渡辺謙主演で今夏放送)など、私が観た大河ドラマでない作品も伸び悩んだ様子。

 視聴率を手っ取り早く取るためには、女性を主人公にして画面の色彩も鮮やかにし、大局を扱わずに歴史の中で翻弄される小さなコミュニティの人間ドラマにするしかないのでしょう。つまり『篤姫』や『江~姫たちの戦国~』といった作品がそれにあたります。
 作り手側としては何としても視聴率を獲りたい。公共放送とはいえ、どうやらその思いは変わらないようですので、それを考えると今後の大河ドラマには一切期待しない方がいいのかもしれません。
 仮にこの傾向が事実で、抗いようのない流れなのだとすれば、大河だけでなく歴史を扱ったドラマは全て私の好みから外れる、という事にもなりますが…。
 来年の大河ドラマは、昨年の災害を受けて急遽制作が決まった『八重の桜』。志は素晴らしいと思いますが、私は作品自体に魅力を感じません。無理矢理また坂本竜馬をストーリーに絡めて来るんだろうなぁ…と、今からげんなりしています。
 そういう意味では、それなりに重厚なテーマで描かれる大河としては、この『平清盛』が最後になるのかもしれない、と漠然と考えています。


 ここからはあくまで個人的な感想になりますが、私は『平清盛』が駄作だったとは思いません。
 見逃したのも2~3回程度(よりによって最終回一歩手前の49回を見ていませんが…)。終始楽しんで視聴していましたし、これから放送される最終回も非常に待ち遠しく感じています。

 実は掘り下げて調べた事のなかった平安末期。自分にとって平氏とは源氏が統治する時代を作るための礎でしかなく、悪い言い方をすれば時代の徒花、生贄のようなものといった程度の認識しかありませんでした。
 よって、昨年からこのドラマには期待を持っていましたし、事実自分が知らなかった時代を吸収する事が出来ました。それだけでも『平清盛』には感謝したいと思っています。
 「大河は戦国と幕末の繰り返し」という批判を多く目にしますが、いざこのように別の時代を取り上げると「馴染みがない」と切り捨てられる始末。勝手な話だ、と思ってしまうのですが、自分としてはこの時代を舞台にしたドラマを見る事が出来ただけでも満足です。

 近年の大河に顕著な“主人公が歴史的に重要な場面に全て立ち会い、その手で時代を動かす”といったような主人公絶対主義的な描写も少なく、そういう意味では『龍馬伝』などより遥かにストレスを感じませんでした。

 キャストでは何といっても怪演で序盤を盛り上げた三上博史、他には松雪泰子、杏、山本耕史、堀部圭亮といったあたりの演技に注目していました。彼らの熱演が低視聴率ドラマという一点のみで評価されなくなるのは悲しい事ですね。
 頼朝役の岡田将生、演技は悪くないのですが、どうにも優男というか現代風のイケメン然としすぎているのが…やつれて源氏の棟梁としての威厳を失った描写の場面でも、単に元気のない小奇麗な色男にしか見えなかったのが残念。

 「武士の世を創る」。幼き頃からの宿願を果たし、その力を絶対的なものとするために、徐々に朝廷内部へと侵入していく清盛。かつての野心に溢れた若者は、老いさらばえた怪物と化し…自らが倒すべきだったはずの旧態依然とした権力の象徴となってしまう。
 こういった権力者の末路をリアルに描き、物語の途中までは倒すべきライバルだった源氏が時代の、そして視聴者の感情移入すべき代弁者とすり替わっていく。そういう意味で非常に画期的な大河ドラマだったと思います。力を手にして判断力を失う、という描写は竹中直人主演の『秀吉』でもありましたが、今回はそれが執拗だったように感じます。そしてそれこそが、このドラマの主題であったのだな、とも。
 そんな清盛を、渾身の老けメイクを施して演じきった松山ケンイチに拍手を送りたいと思います。

 あくまで既存の体制の中で“武士の世”を創らんとし、魑魅魍魎が跋扈する朝廷を支配した清盛。
 対する頼朝は、清盛の失敗を踏まえ、朝廷から離れたところで武士が直接政治を執り行えるシステムを構築しようとした。
 清盛の限界がここに見えてきますが、清盛あってこその武家政権の誕生だった事も確かで、そういう意味でドラマ初回で頼朝が清盛へのリスペクトを口にした意味が最終回を前に重みを増してくるのです。

 自分自身、反撃に転じた源氏に肩入れしながらドラマを見ていましたが、武士の世を創る上においては平氏と源氏の両輪が必要不可欠であったのだな、というのが稚拙ながら感想として残りました。

単なる六月日記 Vol.2 〔by ラウド〕

2012-11-21 22:25:55 | History
 京都二日目。
 この日は早朝に発ったM氏と別れ、夜まで単独行動。前日の移動の疲れもあったのか、昼近くまでホテルの立派な部屋を堪能してしまいました。そこまで眠いわけでもなかったのですが…。


堀河天皇里内裏址
 前日にコンビニで買った朝食をとり、11時過ぎに出発。ホテルの敷地内にこんな碑が。

 今考えると、この帝は大河ドラマ『平清盛』劇中では、伊東四郎(白河帝)と三上博史(鳥羽帝)というあまりにも濃すぎる二人の間に即位したせいで、全く出番がなかった人ですね(役自体が設定されていなかった記憶が)。うーむ、この時はそれを知らなかったせいで、感慨に耽る間もなかった…。


福井藩邸跡
 更に、同じ敷地内にこんなものも。

 幕末四賢候の一人、松平春嶽が治めた事で知られる幕末きっての先進的な藩ですね。橋本佐内、由利公正もここに滞在したことがあるのか…この時は上の堀河天皇同様に一応写真に撮っただけ、程度の感情でしたが、もっと感動すべきでしたね。


京都市山科区
 コインロッカーに荷物を置き、京都駅に出て市バスの一日乗車券を買った後、まずは京阪鉄道に飛び乗ります。

 このような、我が故郷とあまり変わらないような道を、迷いながらもズンズン歩いていきます。降車したのは京都市山科区の“御陵”駅。もう既に駅名がこの地に何があるかを如実に表していますね。

 Googleマップのナビが当てにならないのか、自分が方向音痴なのか…この道に入るまでにも時間がかかりました。しかし自然が多くて長閑な場所だ…。

 この日は土曜だったのですが、すれ違ったのはジョギングをする地元の方一名のみ。あまりの静けさに自分が今どこに来ているのか、思わず忘れてしまいそうでした。


大本山本圀寺
 道すがら、川にかかる赤い橋に目を惹かれ渡ってみると、何やら見慣れた経文が。

 我が地元は日蓮宗のお寺を菩提寺にする家庭ばかり。これも何かの縁だと思い、立ち寄ってみることにしました。

 静けさの中、山門に迫る。

 ここにも人はいません。

 ここにもちゃんと謂れがあるそう。

 加藤清正に縁のある地だったとは。

 ど派手な金色の鐘。
 参拝者は私一人でした。

 これまた派手な色の像。

 人の気配が無く、静寂に包まれています。

 こんな名前のお寺でした。
 天皇がすぐ近くに眠っている土地に、仏教の主要宗派では比較的新しい日蓮宗のお寺があるのもちょっと意外な気もします。


天智天皇山科陵
 さて、かなり遠回りになりましたが、ようやくこの地を訪れた目的である“御陵”に到着。

 ここでも人は全くいませんでした。歴史ファンにもあまり注目されない場所なのかな?

 ようやく到着したこの地は、天智天皇山科陵。

 実は去年も来訪候補地に入れていましたが、こうやって実際に歩いてみるとあの時のスケジュール状況では到底不可能でしたね…あの時は雨も降っていたから、それも含めるとかなり酷い事になっていたはず。

 自分にとって、日本史に興味を持つきっかけが天智天皇(というより、中大兄皇子)、及び大化の改新でした。それは坂本龍馬の存在を知るよりも前の話です。学研の「まんが人物日本史」のシリーズを、図書館で読んだのが最初だったと思います。

 何故、彼に興味を持ったのか。今となっては定かではないのですが、乙巳の変で中臣鎌足らと組んで悪辣な豪族(という描かれ方をしていた)蘇我氏を討ち、中央集権政治を強固なものにした一連の流れに、もしかすると勧善懲悪的なカタルシスを感じていたのかもしれません。政治クーデターが、そんなに単純明快な“良い話”のはずがないのですがね…。
 そう考えると、日本武尊をさも実在の人物であるように扱っていた「まんが人物日本史」シリーズって一体何だったんだろう、とも。いや、私は記紀にも興味がありますし、あれは英雄譚として読むのは面白いんですが、歴史上の出来事であるかのように描くのは如何なものかと。一応、ヤマトタケルノミコトの巻には『神話の中の英雄』というサブタイトルは付けられてはいましたが。

 ともあれ、私の日本史との付き合いが始まるきっかけとなった天智天皇に敬意を示すためにも、この地は訪れておきたかったのです。

 当然ながら宮内庁が管理しています。この時は私以外に誰もいませんでしたが。


八坂神社
 かなりの時間歩き回った感があるのですが、時間は13時過ぎ。今度は(東京ではなく京都の)地下鉄東西線に乗り、東山駅で下車(記憶が曖昧です。他の交通手段だったかも…)。

 まずは祇園祭でお馴染み、八坂神社へ。

 前日以上に圧倒的な修学旅行生の数!ここでも色々写真を撮ったのですが、かなり無理矢理トリミングしないと彼・彼女達の顔が写ってしまうため、掲載は見送ります。

 古事記の中でもメジャーな神である、スサノオミコトやクシナダヒメを祀っている事でも有名。

 実は旅行後に京の祇園祭と故郷の祭りとの共通点をこの地で見出し、一人で興奮しました。

 それを忘れないうちに書いておきたいのですが…。

 本殿を後に、次の目的地は円山公園。

 この鳥居をくぐれば、敷地が繋がっています。よく整備された公園内の写真もありますが、今回はカットしました。


円山公園
 何しろ、ここを訪れた理由はこの像以外にはないのですから…。

 幼い頃から歴史書籍で親しんできた、この二人の像の前にようやく立てたのです!

 私以外にも、中国?からの女性観光客の方が写真を撮っていました。この二人の人気は、いまやワールドワイドなのでしょうか。

 真下に立って眺めると、その風格に言葉を失います。

 あまり見たことのないアングルの写真も、自分用に残しておく事にしました。

 しかし確かにこうやって見ると、しゃがんでいる慎太郎が龍馬の従者に見えなくもない…二人が背中合わせに立っている構図だったりしたら凄く格好良いと思うのですが、ちょっと漫画的発想ですかね?


徳院
 観光客・修学旅行生の波をかきわけ、次の目的地に向かう最中に通りかかったスポット。年配の女性が多く訪れていました。

 基本的にこの日は幕末メインでしかアタックプランを考えていなかったので、それ以外の時代に縁がある場所を巡るとなると、計画を立て直す必要がありますね…次回の訪京は他の時代も選択肢に入れてみようかな。いやはや、京都は奥が深すぎる…。


御陵衛士屯所跡

 その近くにあった、こちらも偶然発見した場所。

 こっちはしっかり幕末ですね。新撰組を離脱した伊東甲子太郎を中心にした、御陵衛士(高台寺党)の屯所です。

 大河ドラマ『新選組!』では、谷原章介が演じていた事も記憶に新しいですね。ちなみに、彼は『龍馬伝』では木戸孝允役でした。

 彼らは新撰組本隊による襲撃(油小路事件)にて解散した後、一部は赤報隊に加わったという話があります。リーダーである伊東甲子太郎や同志を騙まし討ちされた恨みは深かったでしょうね。


京都霊山護国神社
 しかしながら、目指していたのはここでした。

 龍馬と慎太郎が眠る場所です。

 とにかく龍馬・龍馬・龍馬のオンパレード。他の志士も眠ってるはずなんだが…。

 しょっぱなからこんな看板が迎えてくれます。暗殺の日に祭りか!ジョン・レノン・フェスティバルを12月8日にやるみたいな感覚なのかな…。

 入り口まで行って、ようやく慎太郎の名前が出てきました。

 墓地だけで神社としての機能は簡易的なものなのかな、と想像していましたが、ちゃんと巫女さんがいらっしゃいました。といっても、入場券やグッズを売る仕事がメインのようですが。

 中には、円山公園にあった像のスケールを小さくしたものが。

 予想通り、龍馬グッズの異常な充実ぶりとは裏腹に、慎太郎のそれは家紋の入った紙(額に入れて飾るもの)のみ。寂し過ぎる…勿論購入しましたが。
 その上、私より後に入ってきた若い男性観光客の一団に「中岡って誰よ?」「知らねぇよこんな奴」「それより龍馬グッズ買うぜよ!」「おお、わしもそうするきに!」と土佐弁を模した面白トークで理不尽に罵倒される始末。慎太郎が何をしたと言うんだ!せめて、『龍馬伝』でもうちょっとまともに扱ってくれていれば…今更言っても仕方ないですが。

 少々憮然としつつも、拝観料を払って入場。

 そんなつまらぬ感情も、霊山墓地から見渡す京都市内の眺望の前には消えていました。

 そう、今はそんなことを気にしている場合ではないのです。

 遂に、この地に来ることが出来たのですから。

 これまた、幼い頃から何度写真を見たかわからない、龍馬と慎太郎の墓地。いよいよここに立つ事が出来ました。感無量。
 今ネットを検索していて知ったのですが、竜馬の命日に火を点けたタバコを供える人が急増しているようですね。正直、何の意味があるのかわからないし、その行動に全く共感できないのですが…。

 ここからは、危うく高台から転落しそうになりながらも霊山墓地の隅々を回って全てをチェックしました。ですが、あまりにも数が多くなるため全ての写真は載せません。

 昨年訪れた池田屋で討たれた志士達も、ここに眠っています。

 この人のお墓は、一番高いところにありました。実際、ここに眠る人の中では明治以後も含めて一番高い地位にいた人ですからね。
 木戸孝允と幾松が、仲良くここで眠っています。

 維新を見ることなくこの世を去った、長州の傑物たち。

 多くは蛤御門の変で倒れています。

 『龍馬伝』での伊勢谷友介の好演で現代人にもその名を広く知られるようになった、高杉晋作。

 彼の墓地は下関にあるようですが。

 描く人物によって評価の分かれる久坂玄瑞。

 『龍馬伝』での彼は、見事に自分の中のイメージと一致していました。素晴らしかったです。逆に『新選組!』の劇中での描写は…なめとんのか、という個人的な感想。


京都御所
 近くにある幕末維新ミュージアムという博物館にも心惹かれましたが(慎太郎のポスターを売っているらしい…今知りました)、ここだけで時間を使ってしまいそうなのでバスで京都駅前へ。
 昼食を忘れていたので、駅地下のレストラン街でラーメンという至って普通の食事をとり、怒涛の市内バス巡りを再開します。

 次の目的地は、かつて日本の中枢部であった京都御所です。といっても、ここに歴代天皇が住んでいたのは鎌倉時代かららしいので、中枢部という表現は適当ではないかもしれませんが。現在は京都市民の憩いの場所となっているようです。

 とにかく広い!東京の皇居より歩ける場所が多いせいか、延々歩いていたイメージがあります。

 目的地を探すのに精一杯で、御所内の建物には殆ど触れられませんでした。

 京都御所、幕末…とくれば、ここに来るのは必然でしょう。

 長州が京都を追われ、一時は朝敵にまで堕ちるきっかけとなった事件があった蛤御門(禁門)です。

 御所の外からの外観。
 戦闘の際の弾痕があるそうですが、この時はどれがそれなのか全くわかりませんでした。Wikipediaを見ておけば良かったなぁ。

 御所の中から。

 往来が多く、写真を撮るのも大変でした。ここに日常的に住んでいる人には、この門は当たり前に存在するもので単なる通過点に過ぎず、特に感慨を抱かないのかもしれない、などと考えていました。


大本山本能寺
 ここからも止まらないバス巡り。御所の外周を歩いてバスに飛び乗り、市役所を目指します。

 そして、今年も本能寺には入れませんでした。閉まるの早いなぁ…。


桂小五郎像
 しばらくは徒歩で、駅周辺の史跡をひたすら回りました。カメラの調子が悪く、ピンボケの写真が多数であったので、回った場所全てを載せているわけではありません。

 京都ホテル近くの桂小五郎(木戸孝允)像。


桂小五郎・幾松寓居跡
 そして、ここは小五郎と幾松が住んでいた場所。外観も撮ってあるけどブレブレ!現在は風格のある料亭になっています。こういう所にスッと入れる大人になりたい…。
 この店から出てきたオジサンが「ここに幾松が小五郎を匿ってたのさ…」などと歴史ロマン溢れる話をしていましたが、それを聞いている若い女性(部下?)はあまり興味がなさそうでした。地元に住んでいる人でないと出来ない良い話だったので、私が代わりに聞いてあげたかったです。


木戸孝允旧跡の碑
 少し移動して、ホテルイシチョウ前にある木戸孝允旧跡の碑。

 …何だか木戸関連ばかりだな。他にも色々回ったはずなのに。


薩摩藩邸跡
 写真はそこそこ明るいですが、すでに日没が迫っています。この旅で最後に撮った写真がこれ。バスと歩きを駆使して辿り着きました。

 同志社大学西門前にある、薩摩藩邸跡の碑です。道路を挟んだ所に京都御所があるので、蛤御門の変直後に傷を負いながらもここに逃げ込んだ慎太郎の足取りをリアルに感じる事が出来ます。
 蛤御門からは気軽に歩いて行ける程度の距離ではあるのですが、会津や桑名の軍に囲まれた状況ではここまで来るのも困難であったのだろうな…と、命からがら包囲網を抜け、逃げ込んできたであろう慎太郎へと想いを馳せました。これも、実際にその地に立って見なければ実感出来ない事ですね。


 しかし我ながらよく歩いたと思います。バスの一日乗車券も、何度も何度も乗車して完全に元を取りました。
 実質、京都市内を巡ったのは昼過ぎから日が落ちるまで。それなのによくこんなに色々と巡ることが出来たな、とこうやってまとめてみて改めて感じます。やはり日本史へのロマンと、京都という遠く憧れて続けてきた街への想いが、疲れを知る事なく動き続ける原動力になっているのでしょうか。

 夕食はまたしても京都駅地下、今度はオムライス。うーん、この日は京都らしいものを何も食べていないな…。
 食後は京都駅近くのネットカフェにて漫画を猛烈な勢いで読み、帰りの便まで時間を潰しました。
 しかし、こうやって見てみると移動と宿泊以外には殆どお金を使っていないですね。旅行の醍醐味のひとつであるはずの食事ですらこの有様です。しかも街に溶け込んでいる、かつての歴史上の人物達の生活の匂いがする史跡を好んで訪れているので、拝観料もあまりかかっていないという…交通費と宿泊費を除けば、安上がりな旅ですね。まぁそこが一番お金がかかるんですが…。

 今回も、この本を手に京都市内を散策しました。
『京都・幕末維新をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
 10年近く前に読み物として買った本が、こうして昨年の初来訪に引き続き、現地での即戦力として貴重な資料になるという事実。いやはや、本は財産です。


 次回訪京する機会があれば、幕末だけでなく平安時代に関連する史跡も巡ってみたいです。

単なる六月日記 Vol.1 〔by ラウド〕

2012-11-16 22:57:05 | History
 実は今年の六月、京都を訪れていました。
 比較的時間があるうちに、撮ってきた写真を簡単にまとめておこうと思います。
 あくまで報告程度なので、文章はエクストラライト程度の軽さで。


 このエントリーでは、一日目を紹介します。



宇治橋
 昨年に引き続き同行してくれたM氏とまずは常陽市を訪れた後、向かったのは宇治。
 駅から何となく歩いていくと、この橋に辿り着きました。
 この時は陽光に照らし出された水面の様子と、歴史を感じさせる橋の外観にただ見とれていただけでしたが、今調べてみるとかなりの由緒がある。何と646年に建立された日本三大古橋の一つだとか。
 紫式部像は、この地が源氏物語に登場したのが所以。ちょうどこの週放送の『平清盛』にて、この場所が紹介されていたのは奇妙な縁を感じました。

 相当な年月を重ねただけあって、伝説や逸話も多数。

 やはり古都だけあって、ただ歩いただけでも歴史の息吹を色濃く感じることが出来ますね。さすがと言うしかありません。


平等院鳳凰堂
 しかし、宇治を訪れた理由は勿論これでした。

 10円玉でお馴染み鳳凰堂。藤原氏の権勢を現在に伝える美しい建築です。

 元々は、藤原道長の別荘である宇治殿を、息子の頼通が寺院へと建て直したのが発祥。

 昨年と違い天気にも恵まれ、二度目の京都の旅は順調にスタートしました。

 昼食は宇治川を眺められる店で宇治蕎麦を。

 などと書きつつ、これは茶うどんです。茶そばにしか見えない。

 宇治駅に向かう途中で見つけた、何やら懐かしい什器。

 私の故郷にあるこのような玩具店は、この写真のお店同様に全て閉店してしまいました。


慈照寺(銀閣)
 京都市に戻り、バスで東山へ。鳳凰堂同様に、超有名観光スポットである銀閣に向かいます。

 まずは庭園や東求堂を眺めながら、山を昇降。これは義政が茶の湯に使った湧き水。

 山から眺める京都市内と東求堂。

 平日なのに、かなりの人の数でした。さすがに人気の観光地です。

 そして、同じように銀閣を臨む。

 いよいよ気分が盛り上がってきました。

 そして、いよいよ対面。

 現在の日本において「侘び・寂び」を始めとした風流とされる様々な作法や、伝統的な芸術のスタンダードとなったのが、室町時代に生まれた東山文化。その発信地がまさに銀閣であるわけで、そういった風格の前にはひたすらカメラのシャッターを切るしかありませんでした。
 応仁の乱直後の京都でこれを建設させ、ひたすら趣味に耽っていた義政。政治家としての手腕には疑問符をつけざるを得ませんが、そういった当時の民の労力を犠牲にしただけの価値はある建築物です。

 写真には写っていませんが、中では業者の方々がメンテナンスを行っていました。

 銀閣は2008年に最新の改修を行ったようです。


鹿苑寺(金閣)
 そして、銀閣とくれば勿論こちらも訪れねば。

 三島の『金閣寺』でも有名ですが、1950年に放火によって焼失。現在の金閣は再建されたものです。

 正直、足利義満の成金趣味(と表現するのもおかしな話ですが…)というか自己顕示欲と言うか、そういったものを具現化したような金ピカな外装があまり私の好みではないのですが、やはり周囲の庭園や池、木々や山と調和すると、絶妙な風景として見る者の心を捉えます。

 日本を代表する名勝と言っても過言ではない建造物。それだけに人の波は絶える事はなく、人が写り込まないように撮影するのは至難の業でした。

 こちらは義満が使った湧き水。

 とにかく修学旅行の学生が多かったです。修学旅行ってこの時期だっけ?


晴明神社
 夕食のために湯豆腐を出す店を下見しようと思っていた我々。その道中にこの神社を見つけました。

 個人的には陰陽師には特に詳しいわけではないのですが、色々あって立ち寄ることに。そしてここにも修学旅行生が。

 安倍晴明その人。

 周囲には陰陽師や風水関連のグッズを扱う店があり、かつてのブームを偲ばせます。私は授与所で水木しげる先生作の『安倍晴明公伝』を購入。一般に流通していない作品なので、これを入手できただけでもここに来た意味はありました。


 結局、下見に行った豆腐屋は定休日でもないのに謎の休業。一度ホテルに荷物を置く事にしました。
 何と、昨年訪れた二条城の目の前。素晴らしいロケーションです。

 山並みも美しい。
 結局バスで駅近くの豆腐店まで出て、湯豆腐のコースを頼む事にしました。
 大変結構なお味でしたが、同じチェーンの店が我が故郷近くの京成成田駅前にある事には見て見ぬふりを決め込む事に…。

 地元の人間でなければ、なかなか夜の二条城は見る事が出来ないはず。

 一日目はこれで終了。徳川慶喜気分で眠りにつきました。

単なる十二月日記 〔by ラウド〕

2011-12-22 20:39:39 | History
 待ちに待った“大河ドラマ”『坂の上の雲』最終シリーズも、残すはあと一回。
 迫力の映像と渾身の演技に、しばし時を忘れて楽しませてもらっている。

 それに感化され、身の回りの日露戦役に関する縁の地を回ってみようと思い立った。
 といっても、たった二箇所でしかないのだが…。


 まずは、僕の故郷にある慰霊碑を紹介する。

 この日が日露戦役に関係したものと知ったのは、それなりに時間が経ってからの事だ。

 “戦争”といえば、幼少時の僕の中では太平洋戦争のことを指していた。事実、この大戦に関して教わる機会が圧倒的に多かったのだから。
 (ちなみに、我が郷土の太平洋戦争の犠牲者の慰霊碑は、つい数年前にようやく作られた)

 しかし、碑にはしっかりとこのように記されているのだ。

 先の大戦よりも昔に、これほどの戦死者を生み出した近代戦争があったというのは、幼い僕にはなかなかイメージし難かった。

 先程の写真から、向かって右の碑の裏面。

 旅順争奪戦、203高地攻撃は想像を絶する犠牲を強いる戦いとなり、多くの命が彼の地へ散っていった。その中の何人かは、この碑に記された方々なのかもしれない。その魂は、我らの故郷に無事に帰って来られたのだろうか。

 向かって左の碑の裏面。


 さて、日付と場所を変えて。おなじみの友人Fに案内してもらい、以前も訪れた事のある東郷元帥記念公園へ。
 勿論、バルチック艦隊を特異な戦法で撃破した東郷平八郎連合艦隊司令長官の邸宅跡である。『坂の上の雲』でも、いよいよ日本海海戦が始まろうとしているタイミングで訪れたわけだ。

 かつて通っていた大学ともそう遠くない場所である。

 入り口から見た全景。

 工事の手が入っており、ここには移っていないがサラリーマンや子供で賑わっていた。

 かつての東郷邸にあったというライオンの像。

 だが各所が大きく欠けている。

 後ろから見ると、尻尾まで削り取られていた。

 かつて神格化までされた男を見守り続けた石像。その現在の姿としては悲しいものがある。

 戦争の話は、僕がいちいちここでする必要もなかろう。

 興味深いエピソードとして、東郷は日露戦役後に渡英した際、ニューカッスル・ユナイテッドの試合をホーム・スタジアムであるセント・ジェームス・パークで観戦したという。
 サッカーという競技の認知度を語るより前に、当時の日本にはプロ・スポーツという概念がそもそも存在しなかった事を考慮すべきである。そんな環境下で、近代文化の象徴でもあるプロフェッショナルな競技にどのような感想を東郷が抱いたのか。そして、フットボールそのものに対しての印象は果たしていかなるものであったのだろうか。好奇心は尽きない。
 同時に、そんな遠い昔から既に確固たるプロ・リーグを機能させていたイングランドの、そしてフットボールというスポーツの奥深さにもロマンを感じる。
 この逸話から様々な興味が湧き出てくる。いつか本格的に調査してみたいと思う。

 この日も、Fのルーツを辿る街歩きを行う。距離としてはそれ程でもないが、密度の濃い時間だった。

 そんな中、現在警戒態勢の朝鮮総連近くで見つけた与謝野夫妻の居住地跡。
 言うまでもなく、『君死にたまふことなかれ』は日露戦役へ出征(旅順攻略戦)する晶子の弟に向けて歌われた歌である。当然、今回の散策の意図と無関係ではないわけだ。偶然にしては出来すぎている。
 街歩きは、こういった偶然を面白がるためにやっているようなものなのかもしれない。

単なる七月日記 Vol.1 〔by ラウド〕

2011-12-21 23:59:33 | History
 今年中に書いておかなければならない記事を、取り急ぎ簡単に。


 小学校二年生で歴史好きの道へ足を踏み入れてから幾星霜。
 遂に、かつての日本史の中枢であり、長年の憧れの街である京都へと足を踏み入れたのが今年の夏の事だった。
 しかしあくまで“ビジネス”がこの旅のメインであるため、本来の目的地は大阪にある。京都来訪はオマケに過ぎず、僕には厳しい時間の制限があった。それでもここまで近くに来ているのに、僅かな時間だろうとどうして無視できよう。

 東京からの道中、なでしこJAPANの快挙を深夜バスの中でツイッター上で遠巻きに眺めるという苦い記憶も、今では思い出話の一種だろう。
 事前に緻密な計画を立てておいた僕は、長い道のりを越え、パートナーでありガイド役のM氏と共に彼の地へ降り立った。

 ちなみに、この二冊が今回の京都散策に非常に役立ったことを付記しておきたい。
『京都・幕末維新をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
『坂本龍馬、京をゆく』 著・木村 幸比古、写真・三村 博史 (淡交社)
 あくまで読み物として買った本だったので、購入から6年の歳月を経て実際のガイドブックとして機能する日が来ようとは、あの頃は夢にも思わなかった…。



四条大橋
 まずは最も近いスポットへ。

 元は八坂神社への参拝路であった四条大橋。

 平日なので、僕の感傷を否定するかのように多くの人が仕事先や学校を目指して行き交う。
 
 鴨川の氾濫に何度も悩まされた橋でもある。


池田屋跡

 さて、ここからはひとまずM氏と別れ、本格的に一人で近くのスポットを手当たり次第に探していく。本屋でまっていてもらうため、与えられた時間は30分~40分程度。タイムロスは許されない、シビアな捜索となる。
 まずは、三条大橋への道程で池田屋跡へ。

 勿論、維新に至る幕末史上で重要なポイントとなった池田屋騒動の舞台である。

 2011年現在では、居酒屋へと姿を変えている。

 まぁ、酒を飲む処という意味では共通しているのかもしれないが…ちなみに、僕が持っている資料では「現在はパチンコ店である」という情報で止まっている。
 この後も実感するのだが、現在でも人が生活し商いを行っている以上、こういった場所というのは常に変わり続ける。建物そのものがなくなってしまう事だって十分に有り得るだろう。常に最新の状態にアップデートされた情報を手に入れていなければならない。


三条大橋
 そのまま真っ直ぐ歩いて三条大橋へ。

 鴨川、三条河原。多くの重要人物の処刑が行われ、首が晒された地。また、池田屋騒動にて新撰組と尊攘派志士との斬り合いで付いた傷が橋の擬宝珠に残っているという(僕は確認できず)。血なまぐさい歴史を見守り続けてきた地なのだ。


三条小橋
 近くにこんな小さな橋もあった。

 小さな橋とはいえ、ここでも池田屋騒動の際に白刃が重ねられ、土佐藩士二名が負傷し後に絶命している。

 綺麗な川が流れていた。

 ゴミ一つ浮いていないのは賞賛に値する。これが都の美意識か。


坂本龍馬寓居跡(酢屋)
 さて、いよいよ幕末のヒーローの足跡へと一歩近付く事になる。

 現在でもその姿を残しているが、まだ午前中の早い時間というもあって扉は閉じている。
 この小さい写真でもわかるかもしれないが、当日は台風が近付いており、激しい雨が降っていた。薄いナイキのスニーカーは靴下まで簡単に雨水の浸入を許しており、更に京都盆地の容赦ない暑さと湿気がそこに加わる。
 高い不快指数に全く土地勘のない街で細かい場所に点在する史跡を探す。なかなかに難易度の高いタスクであった。

 しかし、兎にも角にも僕の中でも大きな位置を占める偉人の縁の地である。興奮は抑え切れない。

 現在、この酢屋の向かいは“セクシー居酒屋”なるファンキーな店に姿を変えており、少し油断するとそこの看板が反射し写真に写りこんでしまう有様だ。武田鉄矢あたりが物申しそうな気もするのだが、何か言及していないのだろうか。


彦根藩邸跡
 先程の三条小橋のかかる川沿いへと向かうと、彦根藩の藩邸跡が見えてきた。言うまでもなく、あの井伊直弼を輩出した井伊氏が藩主の雄藩である。

 特にルートに入れていたわけではなかったのだが、こういった史跡がごろごろあるのが京都がかつての都である所以であろう。


土佐藩邸跡
 勿論、探していたのはこちらだった。

 実際に歩いてみるとわかるのだが、龍馬の寓居にも、慎太郎の寓居にも近い場所にあるのだ。これは資料だけではなく、体験してみなければわからない事実である。

 近くを流れる川。

 さっきと同じ流れなのだが、土佐藩邸近くから撮っても綺麗だ。


中岡慎太郎寓居跡
 さて、僕が幕末の人物で最も敬愛する人物のかつての住まいを探すのには苦労した。資料の写真と見比べても、それらしき場所がどこにもない。

 それもそのはずで、まだ開店前のシャッターの向こうに隠れていようとは、さすがに予想は出来なかった。
 しかし、必死に携帯電話を使ってネットから得た「現在はあぶらとり紙を扱う店になっている」という情報がなければ、ここには辿り着けなかったはずだ。歴史好きの方が最新の情報を書いてくれるお陰で、慎太郎の生きた場所に僅かながらでも立つ事が出来、後悔を残さずに済んだ。ただただ感謝する他ない。


坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(近江屋跡)
 意外と言っては何だが、龍馬や慎太郎の寓居や土佐藩邸とも近江屋は近かった。

 池田屋も三条大橋もそう遠くはない。龍馬は何故もっと郊外を隠れ場に選ばなかったのか…という疑問が湧いてくる。

 僕がかつて読んでいた資料や歴史漫画の紹介では、現在のこの地は旅行代理店だったりパチンコ屋だったりしたものだが、現在はサークルKサンクスに姿を変えている。

 碑だけでなく、説明の看板や木の柵も作られており、明らかに昔よりも立派になっている。有志の方々のお陰であろう。
 ちなみに、繁華街であるため往来が激しく、観光客丸出しで恥ずかしい…と思う羞恥心も邪魔し、写真撮影が思いの外困難だった事を付記しておくとする。カメラを構える僕を、通りすがりの子供が不思議そうに見上げていた。


本能寺文化会館
 更にこの後、近くにあるとされる本能寺を探すものの、入り組んだ路地に迷い込みそれらしき寺が発見できない。
 途中で見かけた、東京から来たと思しき初音ミクの痛車や、シネコンから漂うキャラメルポップコーンの香りといった“日常風景”のせいで、すっかり現実に引き戻されてしまった。
 諦めて、ほぼ時間通りにM氏と合流。回り道をしながらバス停を探し、次の目的地を目指す。
 そんな待ち時間で見つけたのが、ここであった。

 どのような施設なのかは、未だによくわかっていない。

 なかなかぶっ飛んだネーミングの関連施設もあるようだ。

 泊まっている最中に、桔梗紋の大軍に囲まれて叩き起こされたりしないのだろうか。そういえば、龍馬も明智氏の子孫だとされている事を今思い出した。

 当たり前の事だが、ここまで訪れたのは人里離れた場所ではなく、現在でも多くの人が日常を送るために機能している街にある史跡であり、僕が往時に想いを馳せようとしても、雑踏がそれを拒むかのように思考に割り込んでくる。
 更に限られた時間への焦燥感、先述の不快さとの戦いといった要素も加わって、ただただシャッターを切るのが精一杯であったのが現実である。そういう意味では、落ち着いて巡る事の出来る鎌倉の方が印象に残るエピソードばかりだし、得るものも多かったように思う。
 まだ僕は、ようやく京都という地に半歩踏み入れた程度でしかないのだろう。今思い返すとそう実感する。


二条城
 とはいえ、まだこの旅は終わっていない。ようやくお金を払って見る施設を訪れるのだ。

 江戸幕府将軍が京都滞在中の宿所とした、二条城である。

 写真等で紹介される事の多い二の丸御殿。

 内部は公開されているが、撮影等は禁止である。

 雨も止み始めた外を歩く。もうちょっと早く止んでほしかった。

 この城は、三代将軍・家光から、十四代将軍・家茂まで殆ど使われずに放置されていた。幕末の動乱が、この城に再びスポットを当てたのだ。

 庭園。

 この城は、家康が征夷大将軍に任命され、慶喜が大政奉還を行った場所でもある。徳川の世はこの地で始まり、この地で終わった。

 更に奥に進んでいく。

 とにかく蒸し暑い。京都だから、という土地的な問題はあまり関係ない気がする。

 中にある濠。

 軍事的には使われなかった城であり、事実防御も万全とはあまり思えない。

 世界遺産である事を示す看板が。

 完全に雨が止んだ事が写真を見てもわかる。

 本丸御殿。かつては天守閣もあったようだが、現存はせず。再建も果たされなかったようだ。

 こちらは立ち入り禁止となっている。


 この後金閣寺を訪れる予定であったが、M氏が乗りたいという特別車両の時間が迫っていた。それを差し引いても、時間的にかなり厳しいスケジュールである。
 短い京都滞在はこれで終わり。幼少時からの宿願はひとまず果たされたが、同時にこの地への更なる想いを高まらせ、僕は一路大阪へと向かうのであった。


 “仕事”もひとまず好感触で終わり、滞在先のホテルで一人なでしこ達の歴史的な決勝戦の再放送を観戦し、朝方の溜飲を少しだけ下げる。

 何だかんだでここ数年、コンスタントに関西を訪れている。勿論、来年も京都へのリベンジを果たすべく、新たな史跡巡りプランを携えて乗り込むつもりだ。
 決意も新たに、僕は追いかけてくる台風に急かされるようにして帰路に就いた。