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アングロ世界の男性水着ファッション小史

2007-01-22 16:16:13 | ゲイ事情
最近、ユーロ系ファッションについて問い合わせがあったけど、まさに、アングロサクソン諸国(イギリス、アメリカ合衆国、オーストラリア等)における男性ファッションの変遷の中で、ピッタリ・フィット系じゃなく、ダブダブ系カウボーイ気質を貫いて孤立してきたアメリカについて、面白い記事を雑誌OUT(2007年2月号)で発見。以下はその記事の意訳。

『Speedophobia(Speedo恐怖症)』
アメリカ人男性と水着との歪曲的な関係について、マーク・シンプソンが暴く。

「禁止:ケープ・メイ市では、12歳以上の男子が、肌に密着したタイプ、またはビキニ・タイプの衣類または水着を着用することを禁止する」(ビーチに立てかけられた看板のメッセージ)

これは、ニュージャージー州ケープ・メイ市の市民によって1960年代に立てられた禁止看板。これがゲイ・ビーチ・パーティーを禁止するためのものと聞こえるとすれば、それは当たっているからだろう。

ニューヨーク市から車で数時間南に下ったリゾート・タウンのケープ・メイは、1950年代後半までにはゲイに人気のスポットになっており、(ケープ・メイをもじって)「ケープ・ゲイ」というニックネームすらついていた。雑誌「フィラデルフィア」の1969年の記事によると、「公然と愛情表現をすること、特にメインのビーチで女性用水着を着ている男性の間での愛情表現は・・・街の人々の気分を害した」とある。同市委員会は、成人男性の性器の空恐ろしい輪郭を市民が見なくてもするようにするために、12歳以上の男性がビキニ・タイプの水着を着ることを禁止する法律を通過させた。これは一種の「男根禁止(phalliban)」である。

現在は、もちろんそんな禁止サインは考えられない。というより、むしろ不必要である。結局、誰もが男性用ビキニ、もしくはそのより一般的なトレード・ネームでいうところの「Speedo」は、どの年齢であっても、アメリカのあらゆるメイン・ビーチにおいて暗黙的に禁止されているからである。

人によっては、Speedoは実用的で、セクシーで、シンボリックですらあると考えるかもしれない。また、男性の身体のためにこれまでデザインされた衣類の中で、唯一、最も完璧なものと考えるかもしれない。ビーチで身につけようと考え付く唯一のものと考えるかもしれない。中には、Speedoですら、肌の露出が少ないと考える人がいるかもしれない。しかし、もしそう考える人がいるとすれば、それはあなたがゲイ、もしくは外国人だからである。Speedoは、「バナナ・ハンモック」、「大理石バッグ」、「ヌードル・ベンダー(同性愛者を指す差別用語)」、「バンジー・スマグラー」として知られ、Borat(http://www.borat.tv/)のふんどしほどに非アメリカ的である。

Borat(昨年公開されたコメディー映画)


ゲイ・ビーチではないビーチでSpeedoを着ると、怒りに満ちた視線や嫌がらせを受け、周囲から人が去っていくことは確実である。結果、アメリカでSpeedoはゲイ・プライドと排除の証としてのバッジになっている。過度な同性愛者恐怖症は減少傾向にあるが、猛烈なSpeedo恐怖症は根強く、そのことがアメリカのゲイとブラジル人たちを寄り集め、彼らがビーチの端っこでライクラ(合成繊維素材)をまとって群をなすことになる。

デービッド・ベッカム、ロナルド、ダニエル・クレイグなどの男性セレブは、休暇にビーチで素敵にSpeedoを愛用している。

ベッカム


ダニエル・クレイグ


しかし、これらの男性セレブは、誰一人としてアメリカ人ではない。Speedoやそれよりも露出度の多い男性用水着は、南米、アジア、ヨーロッパの多く、そしてもちろん、粋なオシリのライフ・セーバー天国であるオーストラリアでポピュラーである。オーストラリアは、「Aussie cossie」や今日、私たちが知るビーチ・ライフスタイル発祥の地である。

AussieBumのサイトより


Speedoは、単に「ゲイ」のビーチ・ウェア以上のものである。性の解放、そして憂鬱なキリスト教の道徳観に抑圧された数世紀の後に起きた身体の新発見を象徴するシンボルである。

水浴と水泳は、疑いようもなく異教徒たちのものである。太古の昔、海岸のリゾート地で日中を費やし、男性が全裸で風呂に入り泳ぐための大衆浴場がこよなく愛された。古代人が裸体に無関心だったからではなく、男らしさを尊重したからである。ローマの浴場では、毎晩が(ジョックストラップなしの)ジョックストラップ・ナイトであり、特に「大きな」男性は多くの拍手で迎えられた。そして「サイズ・クイーン」で悪名高いエラガバルス帝の統治下では、浴場で「ハング」な人ほど高官の地位へ出世できた。

(訳者注:エラガバルス帝について調べたら、かなりオモロイというか超ゲイなローマ皇帝だったことが判明。このサイトやこのサイトに詳細あり。)

しかし、水泳も水浴も、そしてサイズ・クイーン的習慣も、ローマ帝国の衰退と共に消滅していった。中世のキリスト教は、身体を恐ろしいほど疑って考えており、水――つまり身体を官能的に清めるもの――も疑っていた。16世紀には、水浴は、不道徳で、不健康で、不潔なものと考えられていた。(カトリック教の洗礼の儀式は、「聖なる水」だけを使っている。この聖水は、祝福され、キリストの清めの血を象徴している。)

一旦失われた水泳という芸術を最初に再発見したのはイギリス人である。その大きなきっかけになったのは、18世紀、現地人たちが裸で満足げに泳ぎを楽しむことが一般的だったポリネシアをイギリス人が探検したことに起因する。19世紀までに、川、湖、そして海で泳ぐことはイギリスでもローマ時代(多くの場合、全裸で、そして男女がときに同時に)とほぼ同じくらいポピュラーとなった。

キリスト教の道徳論者の影響は、19世紀後半に再浮上し、泳ぐことの喜びというふしだらな行為に対して、当然、反対した。キリスト教道徳論者たちは、地元の規則で日中の水浴を禁止したり、「水浴機械」を利用することを主張したり、首から足首までを覆う水着を着用するよう要求するキャンペーンを成功させた。「水浴機械」というのは、水浴びをする人たちが、誰にも見られることなく水から出入りすることを可能にするもの。(ニューヨーク州では、こうした法律が少なくとも1938年まで存在していた。)典型的な水着は、ひざまであるウールのニッカーボッカーとノースリーブのジャージであった。お世辞にもかっこいいものではない。

オーストラリア人の永遠の手柄として言うと、この19世紀の男根禁止に対して最初の一撃を食らわしたのはオーストラリア人であったということだ。典型的なオーストラリア人の気質として、マンリー・ビーチ(Manly Beach)の男たちは、日中の海水浴を禁止するという、小うるさい法律を単純に無視することにした。この海辺の反乱に直面して、地元当局はタオルを投げ、1903年に禁止法律を取り下げた。

正確にどういった種類の水着を着用するべきかについては依然として議論が行われた。多くの男性たちは首から足首までの水着をやめ、上半身部分を腰までずり下ろすか、その場しのぎとしてトランクスを着ていた。品行方正なキリスト教者たちはこれを耐え難いことと見ていた。まじめで実直なキリスト教者たちは、男性たちに上品さを保った「チュニック」を着るよう、大げさなキャンペーンを行った。(チュニック(tunic)とは、古代ローマ人が着ていた衣装で、横を縫いつけた2枚の長方形の布を肩で結び、ウエストでベルトをしたゆったりした内衣。またはそれを連想させるような衣服。)マンリー・ビーチとボンダイ・ビーチでは、バレー用スカートやサロング(チュニックのような布製衣装)を身にまとった男性海水浴客たちの怒りの集団が抗議を行い、この男根禁止にようやく終止符が打たれた。

ということで、身体の開放(「農奴(serfs)」解放ならぬ「サーファー(surfers)」開放)という近代のビーチ・ライフスタイルが発明されたのは、人口のほとんどが海岸を愛し、でしゃばりでおせっかいな人にはほとんど注意を払わない温厚な国、オーストラリアだった。(これは、おそらく、オーストラリアが受刑者のコロニーとして始まったことに起因しているかもしれない。)

そして1960年代の性革命によって、男性の股間とオシリに表現の自由が与えられた。オーストラリアによる世界文化への最大の貢献は、カイリー・ミノーグ(オーストラリア人のポップ・シンガーで、世界のゲイの間で絶大な人気を誇る)ではなく、まさにこのビーチ・ライフスタイルである。カジュアルにイギリスを簡略化することを好むオーストラリアは、男性用水着(cossie)をビクトリア朝の道徳と共に簡略化した。

何百万羽というセキセインコの密輸ではなく、この砂浜の素敵なユートピアというビジョンを海外輸出した組織は、1914年にオーストラリアに創設した創業者家族にちなんで、当初はMacRae Knitting Mills(マクレー・メリヤス工場)と呼ばれた。特別に「アスレチックな」デザインの水着を生産する初期の会社の中で、MacRaeは、1928年、スタッフの一人であるキャプテン・パーソンズが「Speed on in your Speedos.(Speedoをはいて加速しろ)」というスローガンを考案したことから、その社名を「Speedo」に変更した。

(日本語によるSpeedoの歴史は。こちら


1955年、Speedoは競泳選手用にナイロンをその素材に導入した。1956年のメルボルン・オリンピックは、メダルを総なめにしたオーストラリア・チームのスポンサーにSpeedoがなった時であり、この新たな極短ブリーフという薄手のスタイルにとってセンセーショナルなデビューとなった。1976年のオリンピックまで、ほとんど全てのゴールド・メダリストたちはSpeedoをはいていた。当然、世界中の男たちはそのセンセーションを自分たちも堪能したいと考えた。

このトレンドはアメリカにも広まった。1980年代初頭まで、この国でも、ビーチであれプールであれ、Speedoは一般的なものだった。全てがいとおしかった。しかし、とんでもないことが起きた。1980年代後半辺りから男性用水着が次第に長めのものになり、素材も分厚くゴワゴワしたものになりはじめた。年を追うごとに水着は太ももの長さからすねまで、そしてそれ以上に伸びてきた。今では、アメリカ人男性は、さすがに20世紀初頭にマンリー・ビーチでオーストラリア人男性が英雄的に抗議したウール製の足首まであるニッカーポッカーを着ることはないが、1850年代を最後に見られた女性用ブルーマーのようなダブダブの水着を着ている。水中で、Speedo恐怖症の男たちは、半分男、半分くらげである。

ダブダブでフィットしていないのは言うまでもなく、この悲劇のトレンドは、2枚のショーツを一緒にはいた人物が原因となっている。1970年代、バスケットボール選手のショーツは露出度が多く大胆なデザインだった(オーストラリアのフットボールのショーツぐらい短いものだった)。しかし、マイケル・ジョーダンが、1980年代後半、NBAでセックスレスの長いショーツを流行させた。「彼は、幸運をもたらすと信じていたノースカロライナ大学のショーツを、シカゴブルズのショーツの下にはき続けたかったんだ。そして短いショーツを隠すために、より長いショーツをはくことにしたんだ」と、オーストラリア人学者のデービッド・コード(David Coad)は説明する。コードは、セクシャリティー、ジェンダー、スポーツに関する本を近日出版予定。他人がスーパー・スターのジョーダンを真似し、その結果、だぶだぶのショーツがファッショナブルになった。この悪のトレンドが男性用水着にも飛び火したと考えられる。

この水着の肥大化にはもう一つ別の重い理由があると考えられる。80年代後半は、アメリカにおいて男性の間での肥満が大きなトレンドになっていた。ダブダブのショーツはダブダブのオシリを隠す。彼らはまた高い位置にずり上げてはいたので、腰周りではくSpeedoに比べてダブダブのお腹も目立たなくなる。さらに、男たちがスポーツをするのではなく、スポーツを(食べながら)見るという車中心の社会で、男たちの足が痩せ細り、チキンレッグ(鶏のような貧弱な足)になってしまっても、「ボードショーツ」はそれを隠す。多くの若いアメリカ人男たちが、自分たちの体が男性的な特徴を失っていくのを目撃したのと、彼らが女性用ブルーマーをはき始めたのが一緒というのは単なる偶然だろうか?

1980年代はまた、男性性が、欲望され、理想的な性の対象として興隆してきた時期でもある。男性美の基準は、現実の世界で男たちの体重が重くなるにつれ、逆により高く設定されていった。「boardies(サーファーたちのボードショーツ)の圧制」というのは、男性による自意識、自己嫌悪、そして他人に「check out(眺められる)」ことと、男性美の基準を満たせないことへのパラノイアを表現したものである。さらに80年代は、アメリカ人男性がゲイを急激に意識し始めた時期でもある。そして、それと同時に、自分が良いオシリと股間を持っていることを目立たせるようなことをして、自分がゲイと見間違われることは絶対に嫌だと望む意識も高まった。ダブダブのショーツは、意図的かつ残酷な同性愛者への侮辱である。しかし、ストレートの男性がわれわれのことをそんなにまで考えてくれていると知るのは嬉しいことだが。

もちろんゲイは派手好きでSpeedo好きである。ゲイが太り気味である確率は低く、それゆえ、ゲイたちがSpeedoをはくことは、あらゆる意味で人々にとってあてつけとなる。ゲイたちは、男性の体という非常に多目的な性の対象としてのステータスを誇示することを厭わない。そしてSpeedoが、Cock! Balls! Ass!と、君が夢見るままの順番で自己主張するのだ。

異教徒が情熱を燃やすポップカルチャーやビーチ・ライフスタイルに対する熱狂的な理解にもかかわらず、砂浜の性の解放は、米国ではわずかに漂流してしまっている。アメリカのビーチにおける苦痛なまでの不平等な性の分業、つまり女性はアイライナーにちょっとプラスした程度しか身に付けないのに対して、男性は(棒なしの)テントをまとっているという風景は、まさにそのことに対する残念な証である。

結局、1960年代のケープ・メイにおける男根禁止の精神が勝利したのだ。


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