写楽老人写真館!

葛飾北斎は晩年「画狂老人北斎」と画号にしたとの事、私も「老いても写真に楽人で有りたい」と思います。

文学散歩(2)・長篠&設楽原の戦い

2012-09-23 10:19:14 | 日記
日本の歴史を拓く若武者たちの夢の跡。 設楽原歴史資料館、長篠城址史跡保存館 見学し館主に説明を聞く。

長篠城は信玄が上洛を目指していた頃、武田方に属していた。しかし2年後の天正元年、信玄死後には徳川家康によって落とされた。天正3年(1575)の5月、長篠城奪還を目指す武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲し、5月8日から毎日のように攻撃をしかけた。城将奥平貞昌以下500人の城兵はよく戦って防いだが、14日の総攻撃を受けて残っていたのは本丸と二の丸だけであった。織田信長、徳川家康は17日設楽原へ出陣、18日織田軍3万8千、徳川軍8千が設楽原に到着、布陣し陣地を構築する。20日武田軍は一部を長篠城の押さえに残し、大部分の軍勢を設楽原へ移動させた。そして21日、織田・徳川軍と武田軍は激突する。戦国時代の流れを大きく変えた戦いの一つとして数えられる【長篠・設楽原の戦い】。 この戦いは多くの火縄銃を組織的に使用した戦いとしても知られています。



設楽原歴史資料館                        具足姿で迎える案内女
 

 長篠・設楽原決戦絵図と火縄銃
 

 名の有る武将が着用したであろう具足の数々
  

 火 矢 筒[雌雄一対] 肥後細川家が旧蔵していたと伝えられる火矢筒。雌雄一対の火矢筒は全国でもこれのみである。
「雄」全長:41.3㎝ 口径:4.05cm 「雌」全長:40.7㎝ 口径:40.5㎝ ・・・・・ 火 薬 試


 遠 眼 鏡 (望遠鏡や双眼鏡の古い呼び方)


 火 お ん ど り
毎年8月15日のお盆の夜、長篠・設楽原決戦場跡にある信玄塚において火おんどりが行われます。信玄塚とは設楽原決戦の戦死者を葬った塚のことです。いわれでは合戦後間もなくこの塚から大量の蜂が発生し、人々を苦しめました。これを武田の亡霊だと考えた村人たちが、戦死した武田軍の霊を慰めるために、長さ2、3m直径80cmほどの松明を燃やして信玄塚で供養したのがこの祭りの始まりだと言われています。村の男たちはそれぞれ、大きな松明を抱え、鉦や太鼓の囃子にのって、8の字を描くように松明を振り回します。
 こうして火おんどりは伝統を守りながら、400年以上も絶えることなく続けられています。



 馬 房 柵
織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った天正3(1575)年の「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵が再現されています。馬防柵は三段に渡って構築されていたとのことですが再現されているのは一段のみです。



 信 玄 塚(大塚)         信 玄 塚(小塚)
天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。塚は2つ築かれ、その上には松を植えて、武田軍を弔った方を大塚、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承される。また、これを信玄塚と呼ぶようになったのかは、諸説あって不明である。さらに、この塚から発生した蜂を退治するため供養を行ったことが、火おんどり(愛知県指定無形民俗文化財)の始まりとされる。

                      
    

 長篠城址史跡保存館                           血染めの陣太鼓
長篠籠城の時に使った陣太鼓。当時の血がついてる奥平家第一の家宝であった。

      

 
 鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)
彼は城主・奥平貞昌の家来・・・といっても雑兵だったんですが、天正3年(1575年)5月14日、武田軍によって兵糧倉を落とされ、もはや城の運命が風前の灯となった時、彼は城をひそかに脱出して、翌日、岡崎の徳川家康の元へ走り、援軍を送るよう要請しました。ところが、再び城へ戻る途中、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまい、とうとう磔にされてしまいます。
 武田勝頼は「援軍は来ないと城へ向かって叫べば、命だけは助けてやる」と強右衛門を促したが、強右衛門は「援軍は必ず来る」と城へ向かって叫んだので、激怒した勝頼は死を命じ、強右衛門は「串刺しの刑」に処せられ、命を落としました。
 強右衛門の壮烈な死に、信長も家康も「あっぱれ、忠義の士よ」といたく感じいったといわれます。

     



   歴史資料館を見て回ると、知らない事だらけ、つくづく知識の無さを感じます。     写 楽 老 人

 









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