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倭城めぐり(順天倭城)

2008年12月24日 | お城(その他)

釜山中心部を8時過ぎに離れたと言うのに、順天倭城の駐車場に着いたのは14時。普通なら3時間もあれば行けるのに。ロスタイムが大きく、昼食をとる時間すらもったいなかったので、高速のドライブインでトイレ休憩した際に、適当にパンなどを買ってすませた。

今回、ご一緒してくださったガイドさんは81歳と高齢の方だったが、とても元気で倭城へも上までとか途中まで登っていた。倭城の住所は私から連絡しておいたが、できたらお城の場所が分かる人をガイドにと希望を出していたら、随分前にJR九州が倭城めぐりツアーを企画した際、ガイドをしたことがある人が来てくれたようだ。一応、倭城へ行ったことがあり、お城とはどういうものかを知っている人なので良かったけど、その頃と道路事情が随分変わっているため、倭城の近くで人に聞いたりしてたどり着くことができた。

倭城とは文禄・慶長の役の際、日本軍が朝鮮半島の南海岸に築いた日本式のお城のことである。韓国では文禄の役のことを「壬申倭乱(イムジンウェラン)」、慶長の役のことを「丁酉倭乱(チョンユウェラン)」と言い、倭城は「ウェソン」と言う。

順天倭城(スンチョンウェソン)は倭城の中でも最西端に位置し、宇喜多秀家、藤堂高虎らが築城した。西側以外の三方が海に囲まれている。
現在、城跡はかなり復元整備され、石垣が綺麗に積みなおされていた。

本城と外郭の間の入り江(だと思う)。遠くに外郭ラインも見える。





ここから見る石垣がとてもカッコいい!


天守台・・・三重の天守が建っていたようだ。


この後、外郭も歩こうとしたが、畑など私有地になっているので遠くから眺めるだけにした。

<順天倭城の戦い>
慶長3年(1598年)9月末~10月初頭にかけて、明・朝鮮連合軍が各地の倭城を攻略しようと総攻撃をしかけ、順天倭城も陸・海両方から攻めたが、日本軍に撃退された。ところが、同年8月に既に秀吉は死去しており、この戦いの後に撤退命令を受けた小西行長は明・朝鮮連合軍と和議を結んだ。ところが、イザ撤退と言う時に明・朝鮮連合軍は海上封鎖をし、撤退を拒んで包囲した。11月、救援に向かった島津義弘、宗義智、立花宗茂らは露梁海峡で明・朝鮮水軍と戦い、その間に小西らは脱出に成功した。

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