4月27日の夜のこと
一本の電話がかかってきた。
去年亡くなった友人のお姉さんからだった。
『お花をありがとうございます。
妹のお誕生日を覚えていてくださった上に、綺麗なお花まで、本当にありがとうございました。父は泣き泣き、私の方に連絡がありました』と。
4月27日は、去年7月に急遽してしまった年下の友人の丁度、50歳になる誕生日だったので、
実家に行くのも、気を使わすからと
彼女が好きだったピンクを基調に
思い切り華やかに、盛花を作ってもらい、バースデーカードを付けて送っていた。
お礼の連絡など構いはしなかった。
ただ、あの世でいるだろう彼女に見えるかもしれないと、私が送りたかっただけ。
毎年、4月の半ばから月末には、
必ず会って、渡していたバースデープレゼント。
コロナ禍の中、去年は、会わずじまいのままで、、、、。
7月に逝ってしまったから
せめて、今年は、私の一方通行でも、祝ってあげたいと思った。
彼女のお姉さんと、しばし長電話。
彼女は、そのお姉さんが好きではなかった。
ハッキリ言って毛嫌いするほどだったことを思うと、どこかで、
『私の居ないところで、長話なんてしないで』と、聞こえて来そうだった。
体裁ばかりで、色んなことを知ってる私にまで、嘘で固めようとする声に、
それほどの悲しみは見えない。
しかし、
悲しみは人には計り知れないもの。
単に私自身の悲しみを身内と言う、私の経験からくる想像を掛け合わせたものの尺度でしか分からない。
その私の尺度は、過大評価かとしか思えないほど、話は、お姉さん自身の保身にしか聞こえない。
亡くなった当時でさえも
お姉さんの行動には、
私の頭の中には、??が渦巻いていた。
あの時も、情報を得ようと
彼女のお姉さんは、私に何度も電話をしてきた。
私は、手探りのまま、お姉さんの深い悲しみが前提としての応対だった。
私自身は、
何故か、お姉さんと話をしていくほどに、自分の悲しみの深さが分からない。
お姉さんの気持ちが、悲しいはずだと思うことで、そっちに、自分の悲しみを乗っけたせいか?
悲しいのに、自分が思うほと涙が出ないままだった。
悲しいは悲しい。
寂しいは寂しい。
それは感じているけれど、、、。
自分の想像するほど嗚咽はしなかった。
お姉さんとの長話が終わり
ふと、スマホにある写真を繰って見る。
5年前に、初めて彼女との遠出で行った、『ネモフィラの丘』の写真
あの時は
あの時は、、、はしゃいでいたなぁ〜と。
もう、彼女とは行くことはできないと
突きつけられたように
止めどなく
止めどなく涙が流れてきて
最後には、スマホを抱きしめながら嗚咽していた。
彼女が亡くなって
これほどまでに泣いたことはないほど。
何故か分からない。
今になって?
彼女の誕生日だったから?
今まで、お姉さんに被せていた、悲しみを自分に取り戻したのかもしれない。
お姉さんと言う人は、それはそれで
保身の人で、私の悲しみ方とは違うんだと、今回の電話で心底感じた。
それは、人それぞれの体感や情の扱い方だけのせいで、お姉さんの悲しみをどうのと言いたいわけではない。
お姉さんは、自身の生活があり、
残された父親との葛藤も抱えていて
私に懸命に話すけれど、
私には、どうすることもできないし、
私は、お姉さんの考えは分かりはしない。
当たり前なのだけど、
親身になると言うことは、
なかなか、双方の気持ちに温度差がある以上、とても難しいこと。
身内の人の方が辛いに違いなのだから
自分は、それ以上、悲しんではいけないような思い。
いや、自分は自分の思いなんだ!!
そう思ったら、吹っ切れたかな。
その途端に、泣き崩れていた。
寂しくて、
悲しくて、
もっと一緒に居たかった
もっと一緒に遊びに行きたかった
何を今まで
我慢してきたんだろう
きっと、彼女が居なくなったこと
仕方がなかったって思うことで
現実を見ようとしなかったのかな。
やっと、解放された感じ
ねぇ、もしかしたら
あまりに泣きすぎてしまう私を
こんな形にして
時間を置いて悲しまさせてくれたの?
時として
悲しみは、忘れた時に押し寄せることは、とっくに経験済みなことだけど
あらためて
こんな形の悲しみがあるんだと知った日のこと
ちょうど、あの『ネモフィラの丘』が
今まさに、満開だとネットニュースに上がって来ていた。