惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

厄神様

2011年10月18日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題通り、であるが、作者の人はこの絵を最後にニコ静への投稿はやめる、と宣言している。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
ぁー様)
※トリミング・縮小・背景色調整済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/ぁー
→twitter/a_iueooo

以後はpixivと、あとtwitterの方にうpするということらしい。すでにいくつかうpされている。

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THN1-3-12l

2011年10月18日 | THN私訳
3-12 複数の原因をもつ半知識(承前)

一連の推理はたいていの読者にとってひどく難解なものであることであろう。心の知的な能力(intellectual faculties)に関する深い反省に慣れていない人は、広く受け入れられた通念や平易で分明な哲学原理と符合しないものは何であれ、ただの妄想だと思って退けてしまうであろう。とはいえ、こうした議論に入って行くことはどうしたって苦痛を伴うものだということもまた疑いえないのである。この主題に関する通俗的な仮説のすべてがいかに不完全であるか、また、高尚かつ珍妙な思弁をなす哲学などがろくな役にも立たないことを見抜くのは、おそらく造作もないことである。

もし、次のふたつの原理を、人々に十分に納得させることができれば──

(a) いかなる対象であれ、それ自身としてみた場合、それを超えて結論を引き出す理由を与えられるものは存在しない
(b) 対象の頻繁な、または恒常的な連接を観察した後でさえ、経験済の対象を超えた任意の対象に関して、我々はいかなる推論を引き出す理由も持っていない

そう、これらのふたつの原理を人々に十分納得させることができたとすれば、人々はあらゆる普通の体系から離脱し、見かけ上はどんなに異様な体系でも難なく受け入れるようになるであろう。先に見た通り、これらのふたつの原理は十分納得できるものであって、因果性に基づく最も確実な推理についてさえ成り立つのである。けれどもここではさらに強い主張をなすことにしよう。すなわち、これらの原理は(ここで扱っている)推測的(conjectual)ないし半知識的な推理においてもやはり新たな確証の程度をもたらすのである、と。

(つづく)

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高速哲学入門(299)

2011年10月18日 | 素人哲学の方法
被災した『子どもたちのために』パンダを貸してくれ。こんなことを言うのは日本だけではないか?その理由、「子どもたちはパンダが好きだから」。そこに知性も教養も哲学も感じない。「パンダ自身のこと」を考えていないのではないか?「『子どもというもの』を出汁にする政治」は好きになれない。
(muzina_shanghai)

「こんなことを言うのは日本だけではないか?」日本だけだったら何がいかんのだ?オーベー人は言わないとしたらオーベー人が阿呆なんだ。もっともオーベー人だって結構言うだろうという気がするけどな。外国の美術館にある絵を貸してもらって展覧会するのと同じようなことだからな。

「そこに知性も教養も哲学も感じない」こんなことに(ご大層な)知性や教養や哲学がいるのか?いると思っているのならその知性や教養や哲学は駄目なんだ。勿体ぶってることの別名にすぎないからだ。

「『パンダ自身のこと』を考えていないのではないか?」もう何を言っているのかわからないよ。何をどう考えたら「パンダ自身のこと」を考えたことになるのか論理的に(つまり、知性と教養と哲学を駆使して)証明してみせてもらえないか。

「『子どもというもの』を出汁にする政治」は好きになれないって、好きでも嫌いでも政治というのはそういうものなわけだ。それがすべてかどうかは判らないが「競合する利害の超越的調整」ということは間違いなく政治の一部だ。ダシになるならコドモでも動物でも何でも使うのは、歴史的にも世界的にも政治というのはさんざんやっていることだ。

結局、この主は何が気に食わなくてこんなことを呟いているのか、想像してみるとそれはたぶん「コドモたちはパンダが好きだから」「コドモたちのために」パンダを貸してくれ、という言い分には微妙な嘘が含まれているからだろう。本当は「被災地の親たちがコドモたちの心をなごませてやりたい自分の心情を満たしたい」から言っているわけで、当のコドモがどう思っているかは実はわかったもんじゃないわけだ。

とはいえ、そうだとしても、そうした親の心情やコドモをダシにしてそれを主張する態度は、この場合は特に咎められるほどのことでもないはずだ。「コドモたち」が非常にメーワクするとでもいうなら話は別だが、そうでもないなら(そうでもないと思えることだが)、その心情はできるだけ満たしてあげるべきだ。なぜならその親たちも被災者で、特にいま彼ら自身が(親としての)心情を満たす機会を必要としているはずだからだ。

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Trampled Under Foot - Led Zeppelin

2011年10月18日 | 年を経た洋楽オタの話
何の気なしに聴くと普通のハード・ロックだが、本当のことを言ってこの曲はまるでスティーヴィー・ワンダーの曲のようなのである。こういう曲を半ば無理くりハード・ロックとして演奏して、ちゃんと成り立たせてしまうところがレッド・ツェッペリンというバンドの魔法というか、途轍もないところであった。

from YouTube

まあ、もともとツェッペリンというのは「ブルース・ロックを大音響で演奏したら面白いんじゃないか」というアイデアから始まって、それに見合うメンバーを探したら、ほとんどそのアイデアを実現するために生まれてきたようなジョン・ボーナムというドラマーが見つかった、というものだったわけである。

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