被災した『子どもたちのために』パンダを貸してくれ。こんなことを言うのは日本だけではないか?その理由、「子どもたちはパンダが好きだから」。そこに知性も教養も哲学も感じない。「パンダ自身のこと」を考えていないのではないか?「『子どもというもの』を出汁にする政治」は好きになれない。
(muzina_shanghai) |
「こんなことを言うのは日本だけではないか?」日本だけだったら何がいかんのだ?オーベー人は言わないとしたらオーベー人が阿呆なんだ。もっともオーベー人だって結構言うだろうという気がするけどな。外国の美術館にある絵を貸してもらって展覧会するのと同じようなことだからな。
「そこに知性も教養も哲学も感じない」こんなことに(ご大層な)知性や教養や哲学がいるのか?いると思っているのならその知性や教養や哲学は駄目なんだ。勿体ぶってることの別名にすぎないからだ。
「『パンダ自身のこと』を考えていないのではないか?」もう何を言っているのかわからないよ。何をどう考えたら「パンダ自身のこと」を考えたことになるのか論理的に(つまり、知性と教養と哲学を駆使して)証明してみせてもらえないか。
「『子どもというもの』を出汁にする政治」は好きになれないって、好きでも嫌いでも政治というのはそういうものなわけだ。それがすべてかどうかは判らないが「競合する利害の超越的調整」ということは間違いなく政治の一部だ。ダシになるならコドモでも動物でも何でも使うのは、歴史的にも世界的にも政治というのはさんざんやっていることだ。
結局、この主は何が気に食わなくてこんなことを呟いているのか、想像してみるとそれはたぶん「コドモたちはパンダが好きだから」「コドモたちのために」パンダを貸してくれ、という言い分には微妙な嘘が含まれているからだろう。本当は「被災地の親たちがコドモたちの心をなごませてやりたい自分の心情を満たしたい」から言っているわけで、当のコドモがどう思っているかは実はわかったもんじゃないわけだ。
とはいえ、そうだとしても、そうした親の心情やコドモをダシにしてそれを主張する態度は、この場合は特に咎められるほどのことでもないはずだ。「コドモたち」が非常にメーワクするとでもいうなら話は別だが、そうでもないなら(そうでもないと思えることだが)、その心情はできるだけ満たしてあげるべきだ。なぜならその親たちも被災者で、特にいま彼ら自身が(親としての)心情を満たす機会を必要としているはずだからだ。