ケン・ビンモア『正義のゲーム理論的基礎』(栗林寛幸訳・エヌティティ出版・新刊) nttpub.co.jp/search/books/d… ”政治哲学の諸概念をゲーム理論によって厳密に定式化した空前絶後の試み” 326頁・税込4536円 ──「Natural Justice」(2005)の邦訳
原書について調べてみるとすごくいい本のようだが、この邦訳書は原書のハードカバー並の値段がついている。つまり「べらぼうに高い」。ちなみに原書は欽弗版も存在して税込2161円である amazon.co.jp/Natural-Justic… ・・・お金のない学生さんとかはこっちを買えってか。腹立つ
”本書においてビンモアは、道徳に対するカント流のア・プリオリな理解に対し、道徳原理を人間の進化の歴史によって自然主義的に理解しようとする。論争の余地が多いが、道徳原理をゲーム理論的に理解しようとする意欲的な著作である” vcasi.org/page/511
「論争の余地が多い」というか、ゲーム理論の枠組みと「合理的で利己的な諸個人の社会契約」という設定から道徳原理を、また政治哲学の諸概念を説明するということは、本質的にリバタリアニズムの立場に立つということで、その立場からするもっとも厳密な理論的基礎を与えようとするものだと言っていい
あのアダム・スミスでさえ『道徳感情論』では道徳的な社会秩序の発展について、その基礎を共感(sympathy)ということに置いていたわけである。それを思えば上の設定がどのくらいミもフタもないものであるかはすぐに理解されようというものだ
とはいえ、人間社会の道徳的あるいは政治(法)的秩序についてここまで厳格に経済学的還元をやってみせた本があるなら、現実の何がそこから逃れ去っているかに注目することによって、社会秩序のうちで経済学的に還元されない部分を明確に括り出し、本質的な議論を展開することも可能になるはずである
1980年代に陰毛や性器を出した出版物の思い出(後藤寿庵/Togetterまとめ) togetter.com/li/824308 神保町のエロ本屋の話なんかも出てくる。「プレイボーイってそんなにハードコアじゃない(略)ハスラーとかだとかなりエロかった」皆似たような経験をしているな
そう言えば1980年代にはマディ上原の陰毛漫画なんていうのがあったなw
”後年、会話の中で出てきたのはマルセル・デュシャンであった。「マルセル・デュシャンはすごいギャグ作家だよな(!?)」彼の『泉』とチェス三昧の生活を指していたようだ。横溢した実験精神が陰毛漫画を描かせたのであろうか”(マディ上原概論) muddywehalla.wordpress.com/2014/03/09/%E3…
陰毛漫画で検索したら出てきたのが上のページだ。マディ上原はとうに故人となっているのだが、なぜか公式サイトがあってそれなりに記事が書き継がれている(最新の記事は今年の5月11日付だ)今でもファンがいるんだな muddywehalla.wordpress.com
中河伸俊+渡辺克典編『触発するゴフマン ── やりとりの秩序の社会学』(新曜社・新刊) shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books… ”人類学者や言語学者も参加したゴフマンを「使う」ための一冊” リンク先に詳細目次(各章の執筆者名つき)+編者序文抜粋あり・296頁・税込3024円
この本、先週末には新刊情報で出ていたのだが、版元のサイトに情報が何もなかったので紹介を控えていた。ちなみに版元ブログの情報によれば「5月28日ごろ書店に並びます」とのことだ shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/p…
ちなみに、知ったような顔して書いているが、わたし自身はゴフマンについては何も知らない(笑)。この本を新刊情報で見かけてからWikipediaとかを見て「へーえ」とか思っている最中である(笑) ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2…
ゴフマン本人についての項目よりも、ゴフマンが社会学に持ち込んだとされる「ドラマツルギー」の項目の方が興味深い。人間の行動、とりわけ複数の社会的相互作用を「観察」するという方法上の前提からはしごく真っ当な考え方のように思える ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89…
ところが、これまた大変興味深いことに、さっきの本の目次の上には「ドラマツルギー」という語はただの一度も出現しないのである(笑)これはいったいどういうことだろう(笑)
俺ガイルの最新話がサッパリ判らんという声が多い気がするが、これはあれだよ、コッポラの映画『ワン・フロム・ザ・ハート』みたいなもんだと思うよ ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF…
最近、よく「承認欲求」という言葉を聞く。大概、他人をDISる時に使われている。だけど、人に認められたいって、そンなに悪く言われること?誰でも持っている欲求では?強すぎる承認欲求は、確かにうンざりするけれど、他人をあてこする人の性格の方が嫌だなあ。(小池一夫)
「承認欲求」なんていう意味不明の術語を作って作りっぱなしにしたマズローが悪い、としか言いようがないな
小池せンせい自身が仰るように「強すぎる承認欲求は、確かにうンざりする」わけだが、そもそも「強すぎない承認欲求」なんてものがあるのか、よく考えてみるとそんなものはない、だからこの語は専ら「構ってちゃンのないものねだり」の意味で使われるようになったのだろう
これって考えてみると不思議だよな。知らないものを描こうとすれば、実際それは描けないことによって、自分がそれを知らないせいだということに普通に気づけるはずなのだが、どういうものかこの手のことに限って、描けないのは画力がないせいだという風に思い込んじまうんだよな
それはまた自分だけじゃなく他人が言う場合もあるわけだ。文章の書き方を教えないで作文を書かせ、書けないのは文章力がないからだと言い出す教師は一杯いるよな
確証はないけど、ひょっとするとこういうのはわが国における「知識」の伝統的なあり方というか、伝統的な知識観が今も悪影響を及ぼしている、ということなのかもしれない。つまり知識というのは今みたいに調べたり実験観察して得られるものだとは、わが国では長いこと信じられていなかったということだ
つまり「良識はこの世でもっとも公平に配分されているものである」というデカルトの一言は、本当はこれがどんだけ革命的な一言だったのか、わが国ではよく理解されて来なかったということだ。デカルトというと「われ思う故にわれ在り」しか知らない人が実はものすごく多いんだ