じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

ユーモアを思う。

2006-02-08 02:52:23 | ブラックたまの毒吐き
どんなにつらいことがあっても、
ばあたんの介護を続けることができたのは、

そこにユーモアがあったからだ。


どんなに深い病の淵にいても

わたしが笑えないときはばあたんが、
ばあたんが笑えないときはわたしが、

互いに、補い合ってふたり、笑顔を取り戻せていたからだ。


ばあたんが入院し、離れて暮らすようになってから、

わたしは、ひとりでは
ユーモアあふれた生活をつくれないほど
未熟なのだ、

とつくづく思い知らされる毎日を過ごしている。


人のまく噂話や、ゴシップや、
…わたしの神経にさわるような聞き苦しい話も、

彼女の手にかかれば、やさしいユーモアに変わっていたのだ。
そこには悪意や欲はなく、人への信頼と愛情があった。

まるで魔法をかけるように。



ばあたんに、会いたい。
ほんの少しの時間でいいから、
昔のように、
ふたりきりで、笑って過ごしたい。

斉藤茂太の本を読んでいて
ユーモアについて書かれている項目を目にして
ふと気づいた。

前の記事で書いたようなことでいらいらするのも、
ユーモアのこころが不足しているから、なのだろうと思う。



去年の今頃、

発熱してせん妄を起こし、徘徊を繰り返す彼女と
ふたりで過ごした真夜中のことを思い出す。
懐かしくて、涙が出る。

線引きしないと無理だよ。

2006-02-08 02:45:16 | ブラックたまの毒吐き
じいたんが さみしがりやなのを 私は 知っている。
彼は 私が部屋にいるだけで満足する ということも。


でも、どうしても じいたんのところへ行く気になれない
それで今日は 行かなかった。


  違う。正確には昨日も一昨日も行っていないんだ。
  自転車で10分足らずの距離なのに。

  最近ずっとこの調子。



猫のようにしよう、と、決めている。

―まごころで出来ないときは やらない―

それが私の最低限の「介護との線引き」だ。

でなきゃ、心のバランスが取れない。



まあ、こんなことを言っていられるのも

じいたんが今は 一応 自立出来ている状態だということ
(介護士さん&デイケア利用でも)
それから、マンションの囲碁大会で優勝したりして
精神的に元気がある

だからこそ、なんだけど。


そう、正直「今のうちだけ」。
いつでも待っている「どんでん返し」

祖父宅を訪ねないなら訪ねないで、
事務処理やら、ばあたんの施設さがしやらは
こなしているわけだし

いずれにせよ、じいたんが熱でも出したら、
こんな呑気なことは、いっていられなくなる。

だから、今の状況に感謝しなければ、とは思うのだけれども。



***************


 営業の仕事と塾のお仕事、オファーがあった。
  でも断った。残念だけど、微妙に「時期」が合わない。

 来年の受験さえ、ままならないかもしれない。
  年齢的なリミットを思うと、時々あせる気持ちにはなる。

―この程度のことなら
我慢もできるし、工夫もして何とか道をみつけられる。



けれど、じいたんの口から、事あるごとに聞かされる
「あること」だけは、
いまのわたしの神経には、ひどく、さわる。
気持ちがつい、昏いほうへと引きずり込まれるのだ。


 わたしは今、ばあたんの介護にかかる経費を
 なんとか削減して(今、入院しているところは高すぎるのだ)
 二人にとっていい老後になるように
 あちこち施設を調べたり、足を運んだりする毎日を送っている。


 けど、じいたんが、言う。たびたび言う。

 他の、めったにこちらには関わらない、親戚たちの話。
 それは自慢話であったり、わたしが聞くべきではない話であったりする。
 (たとえば、経費削減を真剣に考えている折に、
  そんな努力をするのがばかばかしくなってしまう、そんな類の)

 孫という立場にあって、ひとり介護と向き合っていて
 本来いっしょに頑張ってくれるべき(この考えがいけないのかもしれないが)
 そんな人たちについて、
 まるで、他人に自慢するように、わたしに話すじいたん。

 でも、わたしは、彼らについて
 (彼らを憎んでいるとか嫌いだということではないけれども)
 …結局は、じいたんが辛いときには、寄り添ってくれない人たち
 という気持ちになってしまうときも正直あるのだ。
 
 それでも
 その手の話を聴く時の、わたしの顔は、
 いつだって、笑っている、と思う。

 じいたんは、ただ、わたしに聞いて欲しいだけなのだ。
 「あの人」に、これだけのことを、してやれたんだよ、と。
 親の「情」として嬉しかったことを、報告したいだけなのだ。
 深い考えなどそこにはないし、もうそんなことを要求するのも酷だろう。

 だからわたしはいつでも

 「良かったね、じいたん。
  してあげられることがあるって、とてもいいことだよ。」
 
 と、本音の半分だけを、じいたんに返すのだ。
 残りの半分は、とりあえず飲み込んで。

 いままで、ずっと、そうしてきた。


 けれど、先日のその話のあと、
 自宅へ向かう道中で、突然、歩くのが嫌になった。

 コップに一滴ずつ垂れていた水が、
 満杯になって溢れ出してしまったかのように、

 当分、この道を歩くのは無理だ、と、思った。



こんなことで、
悶々とした気持ちを抱えてしまっているとき、

じいたんと顔を合わせることは、とてつもなくつらい。

つらいなら、ためらうなら、行かない。
会わないほうが、安全だもの。


これだけのキャパしかないんだ。という現状。

自分がきちんとこころの品位を保ってさえいれば
どうってことがないはずのことが、
少し、こころが弱っていると、
必要以上にいらいらしたものに感じられてしまう。

でも、湧いてくる昏い気持ちに振り回されてしまっては
まごころが、くもってしまう。腐ってしまう。

こういうときはたぶん
先に、溢れてしまったコップの中の水をどうにかしないと。



ああ、忘れるところだった。
明日は、ばあたんの見舞いの日だから・・・


(また、書き直すかもしれません。
 奥歯にモノが詰まったような書き方でどうにもすっきりしない)


じいたんばあたんにとって、いちばんいい老後を、と思う。
それだけを考えていられたらいいのに。


わたしは、すべきことを、自分に恥ずかしくないよう
やっていけばいいのだ。

人なんてどうでもいいじゃない。